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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.35)

                   各自の信仰を示しなさい
 


 
あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、こう言った。「・・・・見よ、全地の主の契約の箱が、あなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。今、イスラエルの各部族の中から一人ずつ、計十二人を選び出せ。・・・・祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、・・・・ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」・・・・箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、・・・・壁のように立った。そのため・・・・民はエリコに向かって渡ることができた。・・・・全イスラエルは干上がった川床を渡り、民は全てヨルダン川を渡り終わった。
                                                                                                   【ヨシュア記3章8~17節】
 
信仰の「秤」
  今回のストーリーには、主なる神の驚くべき御業が、ヨシュア及び祭司、そしてイスラエルの民の各「信仰」が一致した時に、麗しく大いなるものとして現されたことが記されています。今回の奇跡は、モーセによる「紅海」を渡る時の、イメージとは大分異なっています。
 
 今回の出来事は、ヨルダン川の流れが、一定時間において逆流するという、物理的には有り得ない現象でした。ご存知のように水は、高き所から低き所を目指して、つまり一方通行で流れます。しかし今回の現象は、水流が逆の方向に(川上に向かって)遡って行く訳です。
 
 そして覚えて戴きたいあと一つの事実、それは彼らが通過したヨルダン川の川底の状態が、一瞬にして様変わりしたことです。つまり、物理的にも乾燥し切ったフィールドを、彼らは滑ること無く安全に通過した訳です。神の為さることは、実に「不思議」です!今回のストーリーに描かれる、私たちが覚えておくべき大事なテーマ、それは神の「救いの時」というものが、私たちの「信仰」の秤に応じて現れ出るものであり、その時に示される(与えられる)、神の「ご命令」に対しては、私たちが愚直(素直)に聞き従うことによって初めて、完成(成就)されて行くのです!
 
神の示される「ここ」
 それ故次の霊的ポイントを、私たちは謙虚に受け留めるべきです。第一に「父なる神のご命令が優先する!」という原則です。しかも最終的な神の「決断」が、如何なる方向性をもって為されるのか、その最後の「ご命令」が非常に重要となります。この時は、先ず祭司たちに対して命じられました。「ヨルダン川の中を進み行き、ストップしなさい!」と。つまり今回は、自分たちが予想しているような、「〇〇まで行きなさい!」とは命じられていません。
 
 私たちは明確な「ポイント(到達地点)」を示される場合には、「分かりました。」と動くことが出来るのですが、この時は「進みなさい。そして止まりなさい!」という、訳の分からぬ矛盾した命令でした。私たちの三次元的な「頭(頭脳)」では、ゴチャゴチャと捻くった、つまり複雑な考え方をするからです。これが神の最後の「命令」だとしたら、私たちの殆どが従えない状況に陥ることでしょう。
 
 第二にヨシュアが、イスラエルの民に対して語った言葉の中に、実は私たちにも示される預言的な指示が、聖霊様による導きとして与えられます。ヨシュアは常に、師モーセの信仰姿勢を、「従者(しもべ)」として学びました。それはモーセが、「事(神のご命令を伝達すること)」を起こす際には、必ず肉的な感情を振り払うべく、その都度祈りの山に登り、神との「親しい交わり」を求めたことです。
 
 それ故に彼は、今回の指示を命じる前に、師同様に神の「御心」を求めて三日間祈り続けました。「主よ、私は如何なるポジションに進むべきでしょうか?」などと。しかし、聖霊様は只一言「民に語りなさい。私自らが語る言葉を、既に用意してあるから、あなたは考える必要は無い!」と命じるだけです。それに対して彼は「分かりました。私自らが(あなたの用意する)言葉を信仰をもって語れば、事は成就するのですね。」と従順し、ある重要な言葉を発したのです。「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」(9節)と。
 
 「ここ」とは、一体何処でしょうか?私たちの霊的戦いにおいても、実は「ここ」があります。それは主なる神ご自身が、常に「住みたい!」と望んでおられる場所のことで、「あそこ」では無いのです。あなたが座る場所、あなたが働く(学ぶ)所、あなたが様々に出かける場所など、至る所に主なる神の求める、霊的な「ここ」がある故に、私たちは「ここ」に来て、神の「言葉」を戴く必要があるのです。
 
 とかく私たちは、すぐに動きたい性分に駆られます。自分から「仕事(業)」を為したいのです。また自分から「計画」を立てたいのです。最終的には姉マルタの如くに、神の御前にて自分の為した業を見せたいのです。しかし主なる神が、私たちに対して要求されることは、妹マリヤの如くに「ここに来て、私と親しく交わりなさい!」という一点です。つまり神の「言葉」を先ず聞くという、素直な信仰姿勢を示すことが重要なのです。
 
 神の「言葉」を聞くことによって初めて、私たちは「ここ」という、霊的至聖所の中で、絶対的な「安息」が保証されます。イスラエルの民は「ここ」に来ることで、神に対する従順を示しました。その結果、彼らは自分の心の中にある「敵」、即ち「現実(目の前の大激流)」という巨大な壁を、たちどころに遡る(一掃する)逆流として、遥か彼方に神の「壁」が完成されるのを見たのです。つまり目の前には水流が全く無い、乾いた道幅(フィールド)が、一瞬にして用意されたのです。
 
 その結果老若男女、即ちイスラエルの全ての民が、水流無きヨルダン川の中(川底)を、誰一人泥まみれになること無く、川石等で躓くこと無く、安心して渡り(前進し)終えたこと、これは驚くべき神の「不思議(御業)」です。即ち「死」を超越した神の御業が、イスラエルの全軍に及んだ訳です。
 
十二人の「信仰者」
 今回の大いなる御業を起こす前に、主なる神はもう一点の「命令」を、ヨシュアの唇を通して語られました。「12人の信仰者を各部族から、1名ずつ選び召しだすように!」と。さて各部族は、限られた時間の中で、如何なる方法をもって、適任者を選出したのでしょうか?例えば私たちにも、聖霊様の促しにより「あなたの中にある賜物の中で、真っ先に今捧げられるものは何ですか?」と問われた場合に、私たちは果たして、「何」を選出するのでしょうか?
 
 殆どの場合、それは自分が自負する、「最高の賜物」を差し出すことでしょうが、聖霊様が求めるものは「駄目な(劣っていると思う)自分」です。これが真実の「信仰」です。私たちは、そういったものに関しては「隠したい!」などと願う、臆病な不信仰者の一面があります。つまり主なる神に対しても、三次元的な「見栄」を張る、偽りの「信仰」で生きているのかも知れません。しかし覚えて下さい!そこに神の働きがあるのです。選出された12人の信仰者は、名も無き凡人の如き人物でした。ここに神の私たちに対する、信仰の秤があるのです!
 
 祭司たちは、ヨルダン川の中を進むべく、何処で立ち止まっていいのか分からなかったのですが、水の中に浸かるや否や、大激流が海水の潮が引くかの如くに、遥か遠くにまで逆流し始めました。その結果、彼らから大分離れた位置で、水の大壁が出現したことで、遂に乾いたフィールド(神の道)が完成されたのです。
 
 そして最終的に彼らは、全員がその場(川の真ん中)に跪き、「何とあなたは、偉大なる神でしょうか!私たちは何もしなくて良かった。」などと、口々に神の御名を賛美し始めました。私たちの目の前には、「苦しみ」や「困難」と「悲しみ」など、様々な立ち塞がる壁が、毎日のように来るかも知れません。しかし真の神が、それら全てを取り除けて下さり、私たちが心配する以前より、既にゴールを用意して下さることを、純粋に信じ続けましょう!
 
 上記したように、私たちの「霊」の中には、信仰の秤があります。そしてこの「信仰の秤」には、祭司的な務めと神の僕(しもべ)として務めという、二つの天秤があります。先ず祭司としての務めとは、私たちが常に神の「命の言葉」を携え、その御言葉を全て信じ、かつ聞き従うことです。第二に僕としての務めとは、無力で弱い(駄目な)自分、つまり霊的な12人の凡人として、私たちは素直に自分の全てを明け渡し、神の御前に謙って仕え続けることが重要です。
 
 そうすれば主なる神が為される、大いなる「御心の道」だけが、次々と完成されて行くのです!主なる神が、あなたの「信仰」を豊かに練り聖め、特に弱い(愚かな)自分の中に、聖霊様による大いなる「励まし」が与えられ、そしてイエス様との「親しい交わり」を通して、あなたの「信仰」が更に成長することを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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