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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.8)

                    暗闇の時-第3の祈り-




「・・・・しかし、我が神、主よ。あなたは命を、滅びの穴から引き上げて下さった。息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた。私の祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも、私は感謝の声をあげ、生贄を捧げて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。」主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。
                                                                                                            【ヨナ書2章7~11節】


「大魚」の如き神の取扱い
 第一の祈り、第二の祈りに引き続き、今回ヨナが告白した第三の祈りは、信仰回復につながる祈りと言えます。そして今回の御言葉から、実は私たちの住む「日本」が、父なる神の大いなる取扱いの中で、真実から愛されていることを示しています。今の「日本」は、まさしく大魚に呑まれた如くに、主なる神の大いなる「臨在」に覆われているのです!


 神の「取扱い」は、肉眼では見えませんが、霊の眼では経済的な大嵐が押し寄せ、政治的荒波にもまれて、更には電力不足や放射能汚染などの、現実は社会的不安に覆われていることが見えます。しかし覚えて戴きたいことは、主なる神の「霊(聖霊)」が、この地上に留まる限り、父なる神が小さな「キリスト者」や、小さな「エクレシアの群れ」を、大魚の如き神の「臨在」をもって、完全に覆って下さる時、大きい神の「御体」として、聖霊によって動き始めるのです!まさしく「日本」は、今神が呼び寄せた「大魚」の中で、大いなる「取扱い」を受けているのです!


「救い」は主にのみある!
 今回の第三の祈りから、私たちが学ぶべき第一の奥義、それは「救いは、主にこそある!」(10節)という、「神の事実」です。そうです!私たちは「私の人生の全てが、主なる神のご計画の中にあり、主なる神の救い中で完成される!」と、自分の唇をもって高らかに宣言すべきです。御子による「贖い」と、父なる神の「働き」の全ての中に、私たちは創造され取扱われているのです。この「救い」とは、言語的には「罪」からの救いを意味しますが、私たちの全ての「贖い」をも含む言葉です。


 「滅びの穴」(7節)というヨナの表現は、彼がまさしく全ての「死」から贖い出された!という、神の驚くべき「事実」、即ち神の大いなる「取扱い」を詠っています。彼は、神の「命の息(贖い)」によって、「滅びの穴(死)」からアライブ(復活)され、再び神の「命の息(聖霊)」によって生きるべく、神の「取扱い」を受けました。


 また彼は、「息絶えようとする時」(8節)と表現していますが、これは如何なる「道(方法)」も、彼の目には失ったかのような、魂が気の抜けた状態を表現しています。これは直訳するならば、「人生という道から、突如スリップし外れてしまい、もはや絶望し切った状態」のことです。即ち、彼が「大魚」の腹の中に、呑み込まれた時のことを表しています。


 しかし、ヨナはこの「暗闇」の中で、父なる神の大いなる「取扱い」を受けた結果、明確に「あるもの」が見えてきました。自分が「自分の光(栄光、プライド、自信)」に頼って生きている時は、父なる神の「御心」を忘れ、自分勝手に「自分の道」を歩いてきたが、「大魚」の中にあっては、ただ「暗闇」しか存在せず、ひたすら「主の御名」を呼ばわることしか出来なかった。・・・・すると、神の「御心」が灯火の如くに、「暗闇」の中から次第に浮かび上がって、彼は「真実(神の御心)」を見出し、思わず「賛美」と「感謝」の祈りを、主なる神に対して詠った(捧げた)のです。


神の「臨在」に満ち溢れた神殿 
 そして彼は、遂に「私の祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した!」と告白できました。「暗闇」の中で、何も見えない状態の中に、「真の光」を見出した彼は、「人生」からスリップしたかも知れませんが、「真の光」を見出した!という、神の「事実」の中に生き始めたのです。聖霊様は私たち対して、先ず①私たちの「霊」そのものを、神の「御心」の中で回復させ、その後に②私たちの全人格的な回復を開始されます。


 「大魚」とは、ある面で神の「御心」を現す、神の「宮(神殿)」を指しています。私たちの「霊」の只中に、この「神の宮」が確立されているのであれば、主なる神の「御心」は豊かに、私たちの「人生」に現れ出るのですが、私たちが三次元的な「この世」の大波に、呑み込まれ覆われてしまいますと、「霊」が天的なことを欲するのではなく、肉なる次元に呑み込まれることになります。これがパウロの言わんとする、「罪」の支配の法則です。


 ヨナは「大魚」の腹の中において、遂に神の素晴らしい「臨在」を見出しました。その「臨在」は、決して変わることなく常に彼を見守り、麗しい「御声」をもって、「再び私の元に帰って来なさい!我が愛するヨナよ!」と語りかけて下さる、これが父なる神の憐れみから来る、驚くべき「取扱い」でした。このことに気付いたヨナは、まさしく自分の居る「今のポジション」が、「神の宮」に他ならない故に、第三の「祈り」を捧げることが出来ました。


 そうです!私たちも信仰をもって「我が救い主イエス様!あなたの元にある救いの御名を、私は呼ばわります。そうすれば、たとえ現実が荒れ狂う大波や、何も産み出すことの無い、乾き切った砂漠の中にあっても、主イエス様、あなたの御名を呼ばわるだけで、全てが甦り命にみなぎるのです。そこには、命の水が豊かに満ち溢れ、麗しいシャロンの花が咲き香る、麗しいフィールドに甦るのです!」と、大胆に主の御名を呼ばわりましょう!


 私たちは今こそ、この「日本」に対して、主の御名を呼ばわる(告白する)時です。「日本の救いは、あなたから来ます!主よ、どうぞこの地に、あなたの御名を呼ばわる者が、至る所から次々と呼び集めることを信じます。その時には、今は不毛に見える大いなる砂漠であっても、主の御名を呼ばわるだけで、麗しい花々が咲き香る地へと、あなたが必ず造り変えて下さいます!」と。


「命の息」が吹かれると・・・・
 「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。」(11節)第二の奥義は、主なる神が直接「大魚」に命じられた時、直ちにヨナは陸地へと戻された、この一連のプロセスの中にあります。つまり「大魚」の存在が、ヨナを元のポジションへと回帰させるべく、神から遣わされた使者(取扱者)という役割、つまり神の「働き」をも示している(シンボル)のではないでしょうか。


 父なる神が「アダム(最初の人)」を創造される時、そしてイエス・キリストが復活された後、怖じ惑う弟子たちに対して近付かれた時に、神の聖なる共通の「働き」として、「命の息」を吹き込まれました。実は今回のヨナを、「陸地」へと吐き出した際にも、同様のプロセスを伴って、「救い」を完成されました。「命の息」をもって、「最初の人」を創造された父なる神は、私たちが霊的に愚かな状態に陥り、神の「御心」から離れ、自分勝手に歩んだとしても、一度「命の息」をもって創造した以上、再び霊的取扱いの後に「命の息」をもって、私たちを新しく創り変え、「命の息」をもって私たちを、本来の神の「目的地(ニネベ)」へと遣わされます。


 「その時」に、私たちは以前のヨナの如くに、自分勝手な「選択」をして、「自分の道」を行くことはしません。霊的に取扱われた新しいヨナの如くに、もはや「死」を恐れることなく、イエス・キリストと共に「十字架」上で死に、イエス・キリストと共に復活するのです!そして「私の救い、私の命の源なる主よ、あなたこそ私の命の砦、救いの巌、褒め称えるべきお方、私の光となって導いて下さる方!それ故私は、尚も主なる神を待ち望む!」と、聖霊様に導かれながら大胆に告白できる、信仰者へと造り変えられるのです。


 私たち「エクレシア号」は、大嵐の中にあっても、聖霊様が守り導いて下さる限り、ノアの箱舟の如くに、決して大波に呑み込まれることがありません。それ故私たちは、更に聖霊様の取扱いを求め、霊的に吐き出されて参りましょう。そして私たちが、常に追い求めるべきお方は、唯一真の希望である「イエス・キリスト」です!この「イエス・キリスト」にこそ、全ての「救い」の源があります!私たちの「命」、そして「人生」の全てを、聖霊様が取扱って下さることを、大いに感謝しようではありませんか。


 父なる神の聖なる「臨在」と、麗しいイエス・キリストの「御声」を、必ず届けて下さる聖霊様の働きに、私たちも信仰の「望み」を置きましょう。あなたがヨナの如くに、聖霊様による「大収穫」の時に、大いに間に合う者(担い手)として、今後も豊かに取扱われ造り変えられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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