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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.3)

                        神に喜ばれる信仰




エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
                                                                                                                 【創世記5章24節】


信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰が無ければ、神に喜ばれることはできません。神に近付く者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。
                                                                                                        【ヘブル書11章5~6節】


エノクの「人生」
 エノクの「人生」については、この僅か1節の御言葉からは、如何なる人物であり、どのような生涯を辿ったのか、余り詳細が見えてきません。娘たちを育てあげた後の約300年間は、神と共に歩む人生を過ごしたことだけしか、記述されていないからです。


 恐らく周囲の人々から、「変人」扱いされる程、俗世間から離れて生きていたのではないでしょうか。朝起きた時から、主なる神の御名を呼び求め、「仕事場」に居る時も、主なる神との「親しき交わり」を、まるで空気に対して話しかけるように為す、そのような毎日を過ごしていたことが伺えます。


 ですから彼は朝に、たとえ疲れた顔付きをしていても、夕方になり帰宅した時には、若者の如くに「喜び」に満ちた顔で、家族と相対するなど、彼は聖霊によって、常に「この世」には無い、麗しい神の次元に導かれながら、神の「祝福」の中にあずかることが出来ました。


 ここで覚えて戴きたい点は、エノクが「カインの末裔」であるという、三次元的な事実です。それ故、エノクは幼少の頃より、自分の「霊」の中にカインと同じ、悪しき「罪」の流れがあること、そのため自分が、常に神の御前に出て、「贖いの子羊」を捧げることで、その「罪」の全てが赦されていることを、代々の「教え」の中で受け継ぐことで、更に彼は主なる神の「恵み」と「憐れみ」を、切に追い求めたのではないでしょうか!


 彼の「この世」の生涯は、今の平均寿命に照らし合わせてみますと、約30代半ばで突然に、「この世」での生を終える訳ですから、たとえ生きたまま「天」に召されたとは言え、この世的には人生の絶頂期が、突然「終了(The end)」したことにななります。これは私たちの愛する花婿、主イエス・キリストの「人生」と、全く同じケースです。


 イエス・キリストは、この世的に人生の「絶頂期」に、神の贖いの「生贄」として、十字架上で屠られました。即ち、父なる神の「救い」のご計画のために、ご自分の「人生」の全てを捧げ尽くしたのです。エノクの場合も同様に、人生の「半分」以上の時を、主なる神と共に歩むことを決断し、自分の「命(人生)」を捧げ尽くしたと言えます。


エノクの「信仰」
 さて、このようなエノクの「人生」から、私たちは先ず「何」を学ぶべきでしょうか?それは神との「親しき交わり」を、「日」もすがら、「夜」もすがら求め続けた、エノクの「信仰」です。即ち、「主なる神無くして、自分は生きられない!」、「神の御顔を見ること無くして、一日をスタートすることが出来ない!」、「神の御声を聞くこと無くして、自分は歩むことがままならない!」などと欲する、つまり愛する方を慕い求めて、四六時中神の「臨在」と、神の「御顔」を求めて止まない、「上」よりの信仰に対する、霊的「飢え渇き」のことです。


 ですからエノクの霊的「飢え渇き」は、私たちの内側(下)から生じるような、情(魂)的なものではないことが分ります。ヘブル書には、「信仰が無ければ、神に喜ばれることはできません。神に近付く者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いて下さる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル書11章6節)と、明確に「上(天)」より戴く、信仰の道筋(方向性)が記されています。


 確かに私たちは、「罪」に満ちた存在ということで、「神」に近付ける身分の者ではありません。しかし主なる神は、ご自分を「無」に等しき者として、イエス・キリストを遣わされることで、私たちに近付いて下さいました。この主なる神の「恩寵」に対して、私たちは果たして「何」が出来るのでしょうか?答えは「不可能(無理)!」であるということです。


 しかし主なる神は、そのような私たちに対して、只一言「私に近付きなさい!」と要求されているのです。と言うことは私たちの側に、主なる神から離れている部分が多くあることを、物語っているのではないでしょうか!それ故ヘブル書の筆者は、神に近付くためには、次のような「信仰」が必要になってくると説いています。その「信仰」とは、➀神が存在していること、②神を求める者には、必ず(神が)報いて下さること、この二点を何よりも、換え難き「確信」として信じ切ることです。


 これは霊的には、簡単な法則です。例えば、幼子が「父親」を信じる時、それは先ず第一に、純粋に「居る(存在する)!」ということを疑っていません。何故なら「父親」は、目に見える存在(実体)であり、常に「自分」に対して声をかけ、「親しい交わり」をもって、導いて(育てて)くれる存在だからです。それ故第二に「父親」は、必ず自分のことを受け入れ、「愛」を惜しみなく注いで下さるなど、ストレートな関係にあります。


神に喜ばれる「信仰」
 このように「信仰」とは、目に見えない事実を、自分のものとして確認することです。ですから、私たちは上記の二点を、幼子の如くに純粋に信じ、そして喜ぶことが大事です。また私たちがエノクの如くに、生きたまま掲挙される否かは、私たちが常に神の次元に入る、上よりの「信仰」が必要となります。


 私たちが「この世」にあって、様々な「苦しみ」や「艱難」があったとしても、それを乗り越えることの出来る「信仰」、即ち目に見える事実にではなく、「朝」起きた時から神の御前に出て、その「教え(御言葉)」を口ずさみ、「夜」眠りに就く時まで、主なる神の「御名」を賛美(礼拝)し続けるなど、目に見えざる事実を、いつも確認しながら生きること、このエノクと同じ「信仰」によって生きる時、私たちは「御国」の門を、大胆に開くことが可能になるのです!


 そうです!①父なる神が存在し、そして私と共に、常に居まして働き助け、②何よりも「上」よりの「恵み」と「助け」をもって導いて下さり、私が求めるものは必ず与えて下さる!と、ストレートに信じましょう!これは自分と「神」との、商売的な取引ではありません。それは「父」を信頼し切っている、素直な「思い(確信)」から生じるものです。


 常に私と共に居て下さり、私の「霊」の只中にも住んで下さり、「上」よりの油注ぎをもって導いて下さる聖霊様が、私たちに強く促して下さいます。「御子イエス・キリストの元に行きなさい!主イエス・キリストのみから、大いなる御恵みを受け取りなさい!主イエス・キリストの血潮をもって、この世に打ち勝ちなさい!」と。この「信仰」の告白(宣言)をするか否かによって、私たちを取り巻く霊的「暗闇」が、たちどころに去るのか、それとも近付いて来るのかが決まります。


 私たちが信じる「お方」は、この世の偶像の如き、小さ(ちっぽけ)な神ではありません!偉大なる方、大いなる方なのです!その大いなる方に、私たちは「何」を捧げるべきでしょうか?それは霊と真による「礼拝(親しき交わり)」です。今自分が為している「仕事(業)」の数々も、「真の神」を称えるため!、今受けている試練の数々も、「主なる神」に栄光を帰すため!と、神の取扱いに対して「主よ、感謝します!」と、毎日告白できる人生でありたいものです。


 エノクの如くに、主なる神のみに「霊」と「心」が、奪われる(捕われる)人生でありますように!主イエス・キリストの、大いなる「御恵み」と、主なる神の「偉大さ」を称える人生が、これからも「信仰」の保証として、あなたの人生に豊かに与えられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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