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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.7)

                    暗闇の時-第2の祈り-




「・・・・あなたは、私を深い海に投げ込まれた。潮の流れが私を巻き込み、波また波が私の上を越えて行く。私は思った。あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうか。大水が私を襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。私は山々の基(もとい)まで、地の底まで沈み、地は私の上に永久に扉を閉ざす。・・・・」
                                                                                                              【ヨナ書2章4~7節】


大水の如き「深淵」の取扱い
 実は、今回のヨナの祈りの「表現」は、この時の彼の霊的状態を、美しい詩的描写として詠っています。そして「喩え」が、何とも麗しい文章(言葉)をもって、彼は「祈り」を父なる神に捧げています。彼をしっかり捉えて離さない、父なる神の「御手」を思い描く時に、ヨナは聖霊様に導かれて今回の「祈り」を、純粋に表現したものと言えます。


 さて、今回のヨナの「第二の祈り」から、私たちが霊的に学ぶべき第一の奥義は、「深淵の水に覆われる」という神の大いなる取扱いです。この取扱いは、必ず私たちが体験するものです。私もそうですが、「底」が見える程の水深は、余り「何」も感じません。ところが「底」が見えない、つまりダークグリーン色の「淵」に関しては、未知(未体験)の領域ということで、ある種の「恐怖」を覚えます。


 ヨナが表現した「大水」の如き「深淵」とは、第一に測り知ることの出来ない領域を意味します。第二にそこは、自分の体力(体温)では、到底生きることが出来ない程の環境です。第三に「光」が、次第に薄くなっていく世界です。それ程に「自分」の霊的状態が、様々に取扱われていく場所が、この「深淵」なのです。


 ヨナは「自分」の全存在が、大水の中に放り込まれた時に、ようやく自分が父なる神の「御心」から離れて、「我が道」を選択し歩んだ結果、「大魚」の腹の中に導かれていることに気付かされました。これは彼にとって、父なる神が「自分」を大水の如き「深淵」の中に、突き放し(放り捨て)たような経験です。


 彼はこの時、「父なる神は私のことを、怒っておられるに違いない。そうだ!私の身勝手な決断に対して、激しく憤っているに違いない。私の歩みは、間違っているのかも知れない。」などと、いくらか反省はするものの、まだ次のように主張する部分が残っていました。「最終的(最後)に父なる神に従えばよいのでは・・・・?」と。


 ところが父なる神は、このようなヨナの、霊的に頑なな性格をご存じの上で、彼の「霊」を更に奥深い、「深淵」へと導きました。これが「深淵の水に覆われる」という霊的取扱いです。実は、この神の霊的取扱いは、私たちの人生に必ず訪れるものです。私たちが、「この世」の水に覆われることは、いとも簡単なことです。何故なら「この世」の水は、私たちの肉なる渇きにとって、非常に美味だからです。


 しかし、父なる神の「御心」を慕い求めるという、日々の信仰の飢え渇きは、霊的には素晴らしい経験ですが、世的には未知の領域ですから、肉的には先が見えないなどの、霊的「不安(恐れ)」が生じてくるものです。それに対して、私たちが「この世」の水に覆われて行きますと、それは必ず「神」のことを、霊的に忘れて行くフィールドですから、「この世」の中で栄華と享楽を、大いに味わうことが出来ます。


 ところが、神の大いなる「深淵の水」に覆われる場合、これは大津波に遭遇する時と同様、必ず「死」が付きまとうのです。つまり「自分」という存在が、死ななければならないフィールド、それが「深淵の水」です!そして、そこは「自分」という理屈が通用しません。父なる神は決して、ヨナのことを追放した訳でもありません。むしろ逆に「大魚」に呑み込ませることで、再び彼を元の霊的ポジション、即ち父なる神の「御心」に、全面的に立ち返るように導いているのです。


「大水」の意義
 第二の奥義、それは「何故、大水が必要なのか?」という霊的問いにあります。前述したように、私たちは「世の水」に満たされれば満たされる程、あたかも大きな浴槽に「水」を溜めるが如くに、「先(将来)」に対する肉の備えを開始します。ところが「霊」は知っています。神の「深淵の水」に覆われた者は、「世の水」に満ちたフィールドが、「霊」にとって生きにくいことを。


 私たちは、霊的に生きた「エクレシア」です。また「世の水」の中では、決して生きられない「神の魚」です。にも関わらず、私たちはヨナの如くに、「他の水」を求めて遡上する「うなぎ」の如き存在です。このような愚かな私たちを取扱うべく、父なる神は私たちに対して、強く念を押しています。それは私たちが、たとえ「他の水」を求めて動いたとしても、私たちは「そこ」では、決して生きることが出来ず、結局は神が用意される「深淵の水」、即ちリビング・ウォーター(命の水)の中に導くことで、私たちが神の「命の水」の中でしか、生きられないことを明確に悟り(知り)、ようやく私たちは神との「親しき交わり」が、「命の水」の中において始まるのです。海水魚が、淡水の中で生きられないのと同様に、私たちは父なる神の取扱いを受けることによって初めて、私たちは改めて神の「愛」を見出し、真の光なる主イエス・キリストの元に行き着くことが出来るのです!


 はっきり申し上げて、私たちはヨナの如き愚かな者ではない!と断言できる程の、賢いキリスト者ではありません。それ程に愚かで「弱き器」です。しかし、聖霊様が私たちに臨まれる時、私たちは次のことを思い起こすことが出来ます。「命の水を再び追い求め、絶えることの無い命の水に覆われ、無代価で命の水を与えて下さる、イエス・キリストの御元へと、私たちが再び召し出される時に初めて、私たちは真の神、主イエス・キリストに立ち返ることが可能になった!」という、大いなる「神の事実」のことです。


 真の生ける「神の宮」を、「深淵の水」の中に見出したヨナは、引き上げて下さる方の御元に、再び立ち返ることが出来ました。神の生ける「命の水」は、私たちの前に無尽蔵に溢れ、絶えず流れ続けています!これは「永遠の命」へと至る「真の水」です。そして、「天(上)」よりの豊かな「注ぎ」をもって、飢え渇き求める者には、無代価で提供されるものです。


 霊的な「飢え渇き」は、自分の「肉の力」からは生まれません。それは「もっともっと(更に)!」と、私たちの「霊」を掘り起こして下さる、聖霊様の働きが常にあるからです。それ故に私たちは、「もっともっと、この私を覆い尽くして下さい!命の水をもって完全に、私というものが霊的に死ぬ程にまで、あなたの生ける命の水をもって満たして下さい!」と渇き続ける、この第二の祈りを捧げましょう。


 聖霊様は私たちを、更に奥深い霊的フィールドへと導いて行くことでしょう。それは三次元的には、辛い経験を伴う場合が多いかも知れません。しかし霊の次元においては麗しい、慕わしい貴いお方、主なる神の御子イエス・キリストが、私たちの歩みを照らす「真の光」として、「真の愛」を与えて下さる方として、私たちのことを待っていて下さいます。


 私たちは聖霊様の取扱いを通して、「命の水」に覆われることを、更に祈り求めて行きましょう。生ける「命の源」なる方、主イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることなく、私たちのことを激しく愛し、御翼の覆いをもって、私たちが如何なる状況下にあっても守り導いて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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