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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.6)

                   暗闇の時-第1の祈り-




さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りを捧げて、言った。「苦難の中で、私が叫ぶと、主は答えて下さった。陰府(よみ)の底から、助けを求めると、私の声を聞いて下さった。・・・・」
                                                                                                              【ヨナ書2章1~3節】


霊的「暗闇」における取扱い
 ヨナが海に放り込まれた瞬間、確かに海は大嵐が過ぎ去り、元の状態を取り戻しました。乗船していた全員が助かった訳ですが、放り込まれた側のヨナにとっては、依然として定まり無きフィールドにあり、自分の「命」が果たして存続するのか?という状況にあります。


 さて、今回学ぶべきテーマ、それは霊的「暗闇」に放り込まれた時、私たちは何をすればよいのか?ということです。実は、この霊的「暗闇」は、その「全て」が悪しき者(サタン、悪霊)がもたらすものと、私たちは錯覚していますが、父なる神の「憐れみ」により、私たちを霊的に取扱うための霊的ステップである故に、必ずそれは来る!ことを、私たちは先ず知らなければなりません。


 ヨセフもしかり、モーセもしかり、またイエス・キリストの愛弟子12人の全てが、この霊的「暗闇」を通過させられました。私たちが霊的「暗闇」に導かれる時、実は思い起こして戴きたい点は、父なる神は私たちのことを懲らしめる為、またヨブの如くにテストする為に与えているものではなく、むしろ父なる神の大いなる「憐れみ」が、その中に用意されていることを確認し、更に私たちが神に対して、飢え渇き続ける為にあるのです!そうです!必ず神の「理由(意味付け)」が、霊的「暗闇」の中にあるのです。


 さて霊的「暗闇」は、如何なる所(フィールド)でしょうか?そこには、完全なる深淵のフィールドが拡がっており、まるで底なし沼の如きフィールドです。ヨナが放り込まれた大海原は、まさしく「暗闇」に至るフィールドです。最初は「肉の力」で、何とか浮かび続け泳ぐことが出来るでしょう。しかし、いつかは疲れて「深淵」の底へと溺れ沈む・・・・、そんな恐ろしいフィールドです。


 しかし父なる神は、彼を海に放り込むと同時に、大魚が彼を呑み込むことを通して、更なる別の「深淵(大魚の胃袋)」へと導きました。そこは海面上と違って、全く「光」が存在しない、奥深い「暗闇」のフィールドでした。手足を伸ばしても得体の知れない、気色悪いヌルヌル状のものが拡がっている、まるで終わり無き世界・・・・、それが霊的「暗闇」のフィールドです。実は私たちも、必ずヨナと同様の体験を、霊的に通過させられる時があります。「主よ、どうして私を、こんな汚れた世界(環境)に導くのですか?何故私が、こんな酷い環境(状況)に置かれるのですか?」などと。突然「獄中」に収監されたヨセフやパウロも、同様の「疑問」が生じたことでしょう。


霊的「暗闇」に導かれる理由
 今回の一番重要となる奥義、それは何故私たちが、霊的「暗闇」に導かれるのか?という点です。これは簡単な奥義ですが、非常に重要な「真理」を、私たちに教え示しています。私たちも含めて何故ヨナが、更なる「深淵」へと導かれたのでしょうか?先ず第一の理由は、「救い」の意味を、もう一度悟らせるために、「暗闇」があるということです。ヨナは大海に放り込まれた時、本来はそこが彼の死に場所でした。


 ところが、大魚が彼を呑み込んだ瞬間に、彼は大海原という死のフィールドから解放され、大魚の胃袋に着いた瞬間、自分が「死」から贖い(救い)出され、父なる神の「救い」の御手が、自分の人生に伸ばされていることを、再び学んだのです。神の「救い」は、常に父なる神の愛によって、私たちに注がれているのですが、私たちの側が安易に忘れるのです。


 確かに父なる神の「救い」は、一方的に与えられるものであるが故に、私たちは忘れてしまうのかも知れません。しかし、それが双方向の「交渉」や、「取引(商い)」によって与えられる場合には、私たちはその「代償(価値)」を確認することで、いつも忘れることは無いでしょう。それと同様に私たちが、父なる神の一方的な「救い」という、贖いの代価を再び思い起こすためには、霊的な「暗闇」が必要となるのです。


 私たちが、霊的「暗闇」に導かれる第二の理由は、「暗闇」こそが神の「真の光」を見出すために、一番必要となる(効能を知る)フィールドだからです。即ち「暗闇」の中にあって初めて、私たちは再び「光」を探し求めるのです。「主よ、もう一度来て下さい!主よ、あなたこそ私の足の灯火、私の人生を照らす真の光です。もう一度私を、真の光へと導いて下さい!」と。このように、「真の光」を求める飢え渇きが出始めた時に、ヨナは次のような祈りを、遂に告白することが出来たのです。「苦難の中で、私が叫ぶと、主は答えて下さった。陰府(よみ)の底から、助けを求めると、私の声を聞いて下さった。」と。


 神の「救い」は確かに一方的なもので、私たちは三次元的に忘れることがありますが、確実に「霊」の中に残っています。つまり天より与えられる、霊的なものに関しては忘れることが無く、必ず「霊」の中に芽吹いて成長します。生まれたばかりの乳飲み子と、その子を「命」を懸けて愛する母親の結び付きと同じように、私たちと父なる神の信頼関係は、非常にシンプルで純粋な飢え渇きから始まります。


神を求める「コール(祈り)」
 ヨナは知っていました。「自分が如何なる罪人であっても、また愚かな選択をする者であっても、神が自分を選び召し出し、神の大いなる目的の中にあって聖別され、神の有用な器として用いられていく!」ことを。そのことを悟ったヨナは、自分が置かれた今の状態、つまり「暗闇(深淵)」の中にあることを、神に対して素直に感謝しました。そして自分の「過去」の全てを、聖霊様を通して示された瞬間、神の御名をコールしたのです。


 「暗闇」の時にある第一の祈り、それが「コール」です。つまり、父なる神の御名を呼び求める祈りです。「主よ、あなたの御名を切に呼び求めます。何故ならば、あなたは私が御名を呼び求める時に、必ず応答して下さったからです。」と。


 さて、今後私たちの生活の中で、様々な事が起こってくることでしょう。三次元的な「暗闇」が進行して行くと同時に、霊的な「暗闇」も拡大して行きます。私たちが、この霊的な「暗闇」に導かれて行く時、第一の「祈り」を捧げましょう。主の「御名」を呼ぶ者は、全て救われます!そうです!それ故に私たちは、益々神の「御名」を呼び求めましょう。主なる神ご自身は、必ず私たちの「祈り」を聞いて下さり、聖霊様を通して励まして下さいます。「真の光なる方が、あなたのすぐ側に居て下さるのです。あなたの霊の只中に、常に住んで下さっているのです!」と。


 主なる神ご自身が、豊かにあなたの信仰生活から職場(学校)など、あなたが為す全ての歩みの中に居て下さいますように!父なる神との信頼関係が祝福され続け、主の「御名」を呼び求めるあなたの信仰が、揺ぎ無いものとして確立され聖められることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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