バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.5)

                   私を海に放り込みなさい!




彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」・・・・ヨナは彼らに言った。「私の手足を捕らえて海に放り込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。・・・・」・・・・彼らがヨナの手足を捕らえて海に放り込むと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を畏れ、いけにえを捧げ、誓いを立てた。
                                                                                                          【ヨナ書1章11~16節】


「救い」の初穂
 実は、聖霊様が私たちに対して、今回の御言葉(命令)をもって「あなたを海に放り込みなさい!」と、同様に投げかけていることを、あなたはご存知でしょうか?これは「命令」である以上、私たちが従順して実行しないことには、「日本国」には神の「ご計画」が進行しません。実行しなければ、逆に「崩壊」が始まるのです。


 しかし主なる神は、神の「救い」の初穂を、どの国にも、どの民族にも用意しています。用意している以上、私たちキリスト者が従順して実行するのであれば、「事」は成就するのです。そうです!聖霊様が「私を海に放り込みなさい!」と命じているのであれば、私たちは「私」を海に放り込む必要があるのです!「私」というものが、私たちの「霊」の只中に、どっしりと腰を据えている限り、何事も起こらないからです。


二つの「問いかけ」
 さて今回の御言葉の中から、聖霊様は私たちに対して、二つの重要な「問いかけ」を投げかけています。先ず第一の「問いかけ」は、「あなたは嵐の時、どう行動しますか?」です。この「問いかけ」は、実際の自然災害などを問うている次元ではなく、霊的な局面での「嵐」のことを指しています。今まで経験したことの無い、全世界規模のレベルで、経済的な「暴風」が吹き始めていることを、あなたも感じているのではないでしょうか?次に来る大いなる「嵐」は、恐らく民族どうしの「対立」や「紛争」など、ナショナリズムの台頭から生じる「戦争の嵐」です。そんな中、人々は益々見える神々(偶像)に拠り頼んで、「いけにえ」を捧げることでしょう。


 この時の船長、及びクルーたちの実際的な行動は、肉の努力を更に強めたことです。私たちの信仰の歩みにも、同様の行動は見られます。それに対してヨナの行動は、この世の人々から見ても、実に不思議な行動を採っています。具体的に彼は、静かに「神の時」を待つ!という姿勢に立っただけです。これは、父なる神が「事」を始めた以上、神が責任をもって完成して下さる。それ故に「その時」を待てばよい!という信仰です。


 そして彼は、ある「決断の時」を待っていました。つまり主なる神が「Go!」サインを示して下さらない以上、自らは何もしない(肉の行動に移らない)!という姿勢を崩しませんでした。仮に私たちの信仰生活に、霊的な「嵐」が襲って来た場合、この世の人々と同様の行動、例えば慌てふためきながら、右往左往するのであれば、それは徒労に終わるだけです。


 では、私たちはどう行動すべきでしょうか?「嵐」は一度とは限りません。必ず第二波、第三波と、次々やって来ます。だからと言って私たちが、その度に様々な知恵を用いて、何とか乗り切ろうとするなどの、肉の努力をするのであれば、いつかは疲れ果てて倒れるばかり。むしろ私たちが採るべき行動は、「主よ、確かに今!嵐が来ました。しかしこれは、父なる神の御心が始まったことでもあります。私は静かに、神の時を待ちます。あなたが示して下さらない限り、私は如何なる行動にも移りません。あなたの意思を働かせて下さい!あなたのご計画を、先ずお示し下さい!」と、静かに「その時」を待つこと、これが私たちの採るべき第一の行動です。そうです!自らが「動く」というアクションではなく、「待つ」という霊的ポジションに立つこと、これが私たちの採るべき行動です。


 では、その後の行動(霊的な選択)は、如何なる方向を求めるべきでしょうか?例えば「神の時」を求めて祈り続けるのですが、「あなたが祈れば祈る程、逆に嵐が強まったとしたら、あなたはその時、如何なる選択をしますか?」。これが第二の「問いかけ」です。ヨナはこの時、これこそが「決断の時」だと悟り、今回のセリフ「私の手足を捕らえて海に放り込むがよい。」と、船長に命じたのです。


 ご存知のように私たちの「選択」は、場合によっては何通りも存在します。それ故、私たちは自由に選択し、自由に行動します。しかし、この時のヨナには、神の「御心」として、一つの道しか存在しませんでした。それが「ヨナ自らが、海の中に放り込まれる!」ことでした。船長及びクルーたちは、ヨナの究極の選択に度肝を抜かれ、ヨナの申し出とは別の行動を選択しました(13節参照)。しかし結果は、彼らの肉の努力を覆い被さるかの如くに、益々大波が「船」を襲いかかって来たのです。


三つの選択肢
 このように祈れども祈れども、「嵐」が更に強まる時、私たちが採るべき選択は、次の三つに分かれます。第一の選択は、「嵐」に対して対抗することです。何故、対抗するのでしょうか?それは「自分(自我)」が未だに闘おうとするからです。自分の「方法」、自分の「対策(備え)」などに頼ろうとすること、これが第一の選択です。


 第二の選択は、例えば「嵐が過ぎ去るのを待つ!」など、どっちつかずの姿勢です。つまり「神」にも頼らず、「自分」にも頼らないことです。そして第三の選択、これはヨナの採った賢明な選択であり、具体的には「嵐」に身を委ねる!ことです。つまり「自分(自我)」の全てを、「海(神の御心)」の中に放り込む(捧げ尽くす)のです。この第三の選択は、私たちにとって何となく、不可能な選択に思えます。何故なら「自分」が、「海」の中で消え去ってしまうのでは?などの人間的な恐れが、必ずと言って生じるからです。


 彼らが「ヨナ」を、海の中に放り込んだ瞬間(同時)に、全ての「嵐」が一斉に過ぎ去り、「天」から太陽の輝かしい光が、差し込んで来るという「奇跡」が起こりました。彼らが、「ヨナ」を海の中に放り込んだ時は、自分たちがヨナを殺した!という罪悪感で一杯でしたが、この一連の奇跡を目前にして、思わず膝を屈め「畏れ多い神よ、あなたこそ真の創造主です。ヨナの信じる神よ、あなたは何と偉大なる方であり、敬うべきお方か!」と崇め「天」を仰ぎました。この瞬間に彼ら全員が、神の「救い」にあずかったのです。


 海の中に「私」を放り込むことは、私たちにとって為し難き選択です。父なる神は「大嵐」の後に、イエス・キリストの「再臨」を迎えるべく、「大艱難」という信仰の船出を私たちに課すことで、霊的ふるいにかけます。「真の神」を更に激しく求め行くのか?それとも世の「偶像」や、「己(自我)」に頼って生きようとするのか?或いは「どっちつかず」の生き方に執着するのか?など。


 「その時」に私たちは、三つの選択権が与えられます。さてあなたは、如何なる「選択」を採りますか?聖霊様は促します。「あなた自身の全てを、完全に捧げなさい!この嵐の中にあっても、父なる神があなたを選び召し出した以上、父なる神は必ずあなたを、イエス・キリストによる救いの初穂とする!それ故、心配する必要は無い!全てを神に明け渡しなさい!全てを、あなた自身の願いではなく、神の御心に向けることが出来るように、捧げ尽くしなさい!」と。


 父なる神の「ご計画」の中に、「私の命」、「私の人生」、「私の計画」、「私の目標」、「私の希望」、「私の願い」の全てを捧げ尽くす時に、あなたに対する真のリバイバルが始まるのです!これから聖霊様を通して、あなたは「私の~」と主張する、霊的に聖められるべきイメージが、その都度示されることでしょうが、「その時」に「いえ!この私のものだけは、大事なものですから出来ません!」と、益々荒れ狂う嵐に対抗するのか?それとも「もう、この私では無理です。どうぞ聖霊様、この私を海の中に放り込んで下さい!父なる神の御心の中に、全てをお委ねしますから。」と、あなたが信仰の告白を吐くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する