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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.24)

                           純真なる考え



愛する人たち、私はあなた方に二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなた方の記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなた方の使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。先ず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、一体どうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
                                                                                                     【Ⅱペテロ書3章1~4節】


 今回のペテロの「書簡(手紙)」は、主イエス・キリストの「再臨」に関することを、殊更強調した内容になっています。ペテロは、自分の「死」が近いことを悟り、最愛の師イエス・キリストに再会できることを、非常に強く待ち望みながら、この「手紙」を読む全てのキリスト者が、更なる霊的飢え渇きをもって、主イエス・キリストの「再臨の時」に備えるようにと、今回の文面の中で重要となるポイントを、二点挙げながら訴えています。


第一のポイント
 第一のポイントとなる御言葉は、「純真な心を奮い立たせたい・・・・」(1節)です。ご存知のように、私たちの「思い」や「考え」は、はっきり申し上げて、完全に聖められた状態には至っていません。何故なら、私たちの「思い」や「考え」は、五感という肉体的働きによって、様々に反応するなどの「弱さ」があるからです。


 と言うことは、私たちの「思い(考え)」の領域にも、主イエス・キリストの「贖い」の御業が必要となります。それ故に第一の重要となるポイント、それは私たちの「思い(考え)」の領域に、主イエス・キリストの「贖い」の御業が、いつも現れ出ることを求める!ことです。


 サタンは初めの人(アダム)が、この「思い(考え)」の領域に、サタンの「思い(考え)」を取り込みやすいなどの、霊的「弱さ」があることを知り、早速アダムとエバを個別に誘惑し、先ずエバに対して「罪の種(サタンの言葉)」を、植えつけることに成功しました。確かにアダムとエバは、「思い(考え)」の領域が完全とは言えませんでした。彼らは、聖霊様の覆い(支配)をもって初めて、「霊」が守られていたからです。


 そして彼らは、主なる神の臨在される「エデンの園」にて、神が与えて下さる「命の木」の実を食する間は、神から純真なる「考え」を戴くことが出来るのですが、「命の木」を離れてしまうと、聖霊様の守りからも逸脱し、彼らの「思考力」は直ちに低下し(鈍り)、他の「考え」を取り込みやすいなどの、霊的な不完全さが現れ出るのです。


 つまり、彼らが「善悪の木」の実を食した「その時」から、私たちの「思い(考え)」の領域は、サタンの蒔いた「罪の種」により、霊的に荒れたフィールドになったのです。そして私たちの「霊」が、このように荒れた状態に陥りますと、「命の言葉」、即ち父なる神の麗しい「命の種」が、私たちの「霊」のフィールドに蒔かれたとしても、たちどころに枯れてしまうことになります。


 では、どうしたらよいのでしょうか?仮に「聖なること」を欲する、私たちの霊的飢え渇きが停止すると、それは霊的な「死」に至ります。それ故に私たちは、ある方の「助け」を必要とするのです。実は、この「思い」と「考え」の中に、霊的荒涼(砂漠)が進行しますと、いずれは「信仰」そのものも、枯れ果てることになります。つまり、「命の種」を蒔いても蒔いても、ただ枯れるのみ・・・・という状態が続くのです。


 ところが聖霊様だけは、その荒れ果てた状態を「良し」とはみなしません。この方だけは、このような私たちの霊的枯渇状態を復興すべく、様々に霊的取扱いを施して下さいます。それは私たちにとって、非常に受け入れ難いものが殆どです。しかし覚えて下さい!聖霊様は、私たちに対して再び思い起こさせます。「花婿なる方は間もなく、必ず帰って来る!」と。


第二のポイント
 ペテロが示す第二の重要ポイント、それは「私(イエス・キリスト)主は、必ず来る!」という輝かしい事実(約束の言葉)です。余談になりますが、太平洋戦争後の荒涼とした、敗戦国「日本」を復興した、GHQ最高司令官D.マッカーサーの名言、「I shall return!」という言葉をご存知でしょうか?このセリフを、本当に吐いた(口に出した)か定かではありませんが、当時米国の植民地であったフィリピンを、大日本帝国に奪い取られ、敗戦の将としてフィリピンを去る時に、フィリピンの国民に向けて語った、約束の言葉として有名になりました。


 この英語を直訳するなら、「私は(あなた方を助けるべく)いつか戻って来る!」となります。ちなみに「shall」という助動詞は、どちらかと言えば「いつか・・・・だろう」という願望を意味する言葉です。それに対して「will」という助動詞を用いる場合、例えば「I will be back!(映画『ターミネーター』で多く使用される)」になりますと、それは「絶対(必ず)・・・・する」という、強い意志を現す動詞ですから、この場合は「私は必ず戻って来る(そのように約束する、事を果たす)!」というニュアンスになります。


 ところで、私たちの三次元な「思い(考え)」の枠組みでは、とても「神の時」を測り知ることは不可能です。私たちの考える「人の時」の枠組みでは、「今の時」が終わったら、それはもう「過去の時」となって、取り返すこと(修正すること)が、不可能な次元として捉えるからです。しかし「神の時」の次元にあっては、「神が必ず・・・・する」と言った事柄は、それが「いつ(過去、現在、未来)」であろうが、必ず成就する!のです。


 父なる神は、「人の時」を遥かに優った次元の中で、「時が満ちると、それは必ず成就(結実)する!」という、「神の時」の法則を実行されます。私たちの「思考(判断)」では、この成就することを、「END(終わり)」として捉える傾向にありますが、神にとっては「終わり」ではなく、「完成の時」から「更なる完成の時」として、絶え間なき神の「will」が働くことです。それ故私たちは、この父なる神の聖なる(純真なる)「思い(考え)」が、聖霊様によって注がれるべきです。


 結論になりますが、私たちは聖霊様によって仕立てられる、イエス・キリストの「証人(確かなる証拠)」です。もし私たちが、愚かな五人の乙女の如くに、主イエス・キリストの「来臨」に対して飢え渇きを失くし、惰眠をむさぼるのであれば、この世の人々は私たちを見て、決して「証拠」として見ることは無く、益々あざけり笑うことでしょう。


 しかし覚えて下さい!聖霊様は、私たち日本人キリスト者を、再び霊的に呼び覚ますべく、様々に奮い立たせて下さいます。「主イエス・キリストは、間もなく来られます!」私たちキリスト者が、この大いなる福音を信じて「今こそ、神の国の到来である!」ことを高らかに宣言しつつ、神の働きを大胆に行うのであれば、父なる神は主イエス・キリストの、「来臨の時」を縮める(早める)ことも可能です。


 主イエス・キリストが、実際に地上に再臨される時、この地上は閉じられることになります。しかし、私たちキリスト者にとって、それは花婿なる方との挙式が、完成に至る時です。私たちの愛する花婿、主イエス・キリストとの聖なる「交わり」が、聖霊様を通して注がれる、あなたの霊的飢え渇きによって始まり、父なる神の「純真な愛」の中で完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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