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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.23)

                           神の舞台に立つ



人間の心は自分の道を計画する。(しかし)主が一歩一歩を備えて下さる。
                                                                                                                     【箴言16章9節】


「時」を案ずる弱さ
 東日本大震災から、数年の月日が経ちました。ご存知のように、「時」を様々に思い巡らすのは、私たち人間だけです。そして、この「時」の経過を、例えば「過去の時」はこうだった・・・・、また「明日の時」はどうなるだろう・・・・などと、様々に案じる習慣を持つのも、私たち人間の常です。


 とりわけ茨城県以北の、東北地方・太平洋岸に暮らす日本人にとって、「2011.3.11」という時刻は、自分たちの人生を大いに狂わせた!と思わざるを得ない程、苦難の時を強いられています。数年の月日が過ぎ去っても、あの悪魔の如き「福島原子力発電所」から漏れる放射能が、依然としてなくなることは無い!という「不安」と、見えざる「恐れ」の中にあります。「身」を案ずる、「生活」を案ずる、「命」を案ずるなど、「安心」という名の保証が、全く無くなった「時」の次元の中に、私たちは置かれているのではないでしょうか!


 このように「人」は、今回の御言葉に示されている如くに、様々に「案ずる」のです。そして「どうしたら~」などと、様々に画策(計画)します。つまり「案ずる」あまりに、絶え間なき「安定」を求めて、必死にその対策を構築しようとします。ところが私たちキリスト者は、次のことを聖書から知っています。不安定になった、今の地球が神の被造物として、私たち「人」の犯す罪故に、うめき苦しんでいる結果、様々に揺り動いているのだ!と。


 それ故私たちキリスト者の場合は、今回の御言葉通りに、とにかく父なる神に「全て」を委ねながら、私たちの犯す「罪」を、ことごとく神の祭壇上に、焼き尽くして戴くべく捧げ切るように導かれます。そうすることで初めて、「上(天)」よりの平安が聖霊様を通して注がれ、私たちは前進することが出来るのです。そうです!私たちは「案ずる」より、聖霊様によって「産む」方が、霊的に生き易くなります。


 聖霊様が、私たちの「全て」を画策して下さり、私たちの「人生」を、父なる神の「御心」通りに完成して下さいます。私は一年という歳月を、ふと思う(振り返る)度に(いつも思わされることですが・・・・)、自分の予想とはかなり違った方向で、進まされて(導かれて)いる!ということです。自分が「進んでいる(前進している)!」と思っていることが、実は「歩まされている!」のではないでしょうか。


「己の舞台」を演じるという罪
 人は「己の舞台」を、様々に演出しようとします。これが「人」の持つ「罪」の特徴です。「己の舞台」の中にある罪とは、先ず第一に「私の計画(My plan)」です。人は必ず、何らかの「計画」を立てようとします。第二に「時」のスケジュールを、自分で様々に練ることです。第三に、これは第一と第二の行動の結果出てくるものですが、「私の行動(My action)」です。


 そして最後が、「自分の利益」を求めることです。「利益」そのものは、決して悪いものではないのですが、「利益」を追求し過ぎると、必ず「自分の欲」が、その中にはらんで来ますので、「もっと、もっと!」と、己の「肉」を駆り立てるものへと変質します。何故なら、私たちは「先」に対する不安が、「罪」故に増しているからに他なりません。


 このように「自分(己)の不安」を優先しながら、「利益」を追い求めますと、必ず「自分の舞台」を、必死に建て上げようと努力するのです。しかし、自分の「予定(予想)」通りに、「事」がうまく運ば(進ま)なかった時に、「人(己)の道」が崩れ落ちたかの如くに、殆どの人が錯覚するのではないでしょうか!主なる神は、このような私たちの「罪」深き、弱さの「全て」をご存知の上で、今回の御言葉を通して、「しかし・・・・」という、「天」からの恵みをもって導いて下さいます。


 私たちは知識として、今回の御言葉を知っています。ところが現実は如何せん、実際の生活の中に起きる、様々な不測の事態に対して恐れおののき、私たちはあたかも、演劇の舞台役者になったかの如くに、信仰とは懸け離れた次元の中で、愚かな役を演じることになります。


真の舞台監督「聖霊様」
 「しかし」主なる神は、このような身勝手な私たちを無視するどころか、むしろ憐れみ深い取扱い(恵み)をもって、私たちの歩みを軌道修正して下さいます!また主なる神のみが、私たちの歩みの一歩一歩を、確実に備えていて下さる!のです。今回の御言葉を直訳するならば、「あなたは、あなた自身の立てた計画を、完成(造り上げること)しようとするだろう。ところが(しかし)真の父なる神のみが、あなたの歩みと行動の全てを導き、正しく指示して(direct)下さる!」となります。


 確かに私たちは、神の「下僕」として生きていますが、神のリモコンによって動く、ロボットの如き存在ではありません。但し、だからと言って私たちが、「己の舞台」を演出して生きようとしますと、それは「人の道」という、罪の支配の下に導かれます。「罪」の法則は、己の肉の力によって完成したものを、この世の人々に見せながら、「見えるもの」に望みを置き、「見えるもの」にのみ平安を抱こうとします。


 しかし私たちキリスト者の場合、今回の御言葉を通して、次のことを再認識しなければなりません。それは真の神だけが、私たちの「人生」の歩みを、最高の神の舞台に導き、最高の人生を演出して下さる!ことです。優れた舞台監督(Director)というものは、各「役者」の持つ心情や、演技上の性格の全てを熟知しながら、演劇全体のバランス(構図)の中で、彼らを巧みに指導して(direct)行きます。


 そして各「役者」は、監督の指示する演出イメージ通りに、行動(action)を起こしながら、ある時は「いや違う。もっと~のように演じなさい!」などと、演出が何度にも渡って軌道修正されていく過程で、ようやく最高の演出として「完成」に至るのです。同様に私たちが、「神の舞台」に立つよう軌道修正される時、まず第一に助け主なる聖霊様が、私たちの真のディレクターであることに気付かされます。そして第二に、聖霊様が様々に私たちの持つ、愚かな「人の道」という舞台道具の一つ一つを、捨て去るように指示されます。第三に聖霊様が、「命の言葉」を届けて下さり、私たちに「真の道」を示して下さいます。「命の言葉」は、「命の源」なるフィールド、つまりイエス・キリストの「十字架」の御元から、いつも流れ出ています。


 「己の力」ではなく、上よりの神の「力」を戴きながら、私たちは「神の舞台」に立ちましょう!そのためには、聖霊様の「指導」に対して、素直に従順することが求められます。聖霊様の「御声」に対して、幼子の如くに聞き従う時に初めて、私たちの先に対する歩みの「重荷」は軽くなるのです。それ故私たちは、「全て」を聖霊様に明け渡し、主なる神の最高の「演出」の中で、私たちに約束された、輝かしいイエス・キリストの「花嫁」として人生が完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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