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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.11)

                  井戸を掘る時に起こること



 私たちの信仰の領域に関して、聖霊様は今次のような緊急の問いかけを、私たちに投げかけておられます。「あなたは私が用意する、イエス・キリストの信仰という、天上から来る霊的フィールドを戴いた時に、そのフィールドに誰をお迎えしますか?」と。


 イエス・キリストは、ある喩えの中で「信仰」の領域を、「畑(フィールド)」として説明しています。神の国の「言葉」という信仰の種を、私たちの信仰フィールド(畑)に蒔く時に、それをどのように豊かに収穫していくのか?それが重要となります。イエス・キリストが語られたのと同様に、私たちの信仰フィールド(畑)を、アダム同様に霊的に耕していく使命が、私たちに課せられていることを、聖霊様は私たちに促しておられます。しかし、実際のフィールド(畑)を耕す時には、「道具」も要れば様々な「方法」と「計画」が必要になります。私たちはそれを神に求めながら、私たちの信仰フィールドにおいて、実際の「耕作」作業に着手する前に、「畑」の管理者である「オーナー(地主)」をお迎えして、この土地にふさわしい作業計画(進め方)、又何を植えるべきかなどの重要事項を、先ず「聞く」必要があります。


 そうです!私たちの信仰フィールドは、本来「自分のもの」ではありません。又私たちの信仰フィールドが、如何なる状態にあったとしても、私たちは自分勝手に判断して、「私はこのような、役に立ちそうにも無い畑は要りません!もっと別の、素晴らしい畑を与えて下さい!」などと、ロトが選択した如くに「いつでも水が飲める程の、潤ったフィールド」を、肉的に祈り求めるべきではありません。私たちの信仰フィールドが、常に潤いのある良い状態にあったにせよ、逆に荒れ果てて何も産み出し得ない、枯れた砂漠のような状態にあったとしても、「あなたは、誰をお迎えしますか?」と、聖霊様は先ず問われているのです。


 「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。」(詩篇42章1節)の御言葉にあるように、この作者は常に「ある方」を、自分の「霊」の只中にお迎えすることを、自分の生涯をかけて求めました。聖霊様は、私たちが朝起きた時から、「あなたは、今日一日誰をお迎えして、又あなたの信仰フィールドを、誰に管理して戴きながら、あなたが為すべき必要な作業を、教え導かれようと望んでいますか?」と問いかけています。前述したように「信仰」は、自分の中から生じたものではありません。それはあくまで、「天上」からのみ授けられるものであり、イエス・キリストの「信仰」が、唯一私たちを生かしているのです。


ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとく塞ぎ、土で埋めた。アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行って戴きたい。」イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれを塞いでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けた通りの名前を付けた。イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共に居る。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。我が僕アブラハムの故に。」イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。
                                       【創世記26章15〜25節】



敵の戦略を知りなさい!
 私たちが自分の信仰フィールドに、ある重要なVIPをお迎えするべく、様々な準備と計画をする際に必ず、それを阻もうとする「敵」が、直ちにやって来ることをご存知でしょうか?その時に私たちは、この「敵」が如何なる過程で出現し、如何なる「戦略」をもって、私たちに対して攻撃して来るかを、第一に知る必要があります。


 この「敵」の戦略パターンには、ある一つの特徴があります。アダム(エバ)が、罪を犯す以前の「本来の人」は、神との豊かな交わりの場「至聖所」が、無限に広大なフィールドとして与えられていたことを、私たちは「罪」故に忘れてしまっています。しかし、だからと言って父なる神が、彼らをエデンの園から追放した直後に、「あなた方は、もはや私の元に来る必要はない!」と命じられるなど、父なる神との「交わり」の道が、完全に遮断された訳ではありません。幸いなことに父なる神は、「唯一の門」だけを彼らに残されました。その証拠として、父なる神は一匹の「子羊」を屠り、その毛皮から「聖なる衣」を仕立て、彼らに直接着せられました。


 そして更に父なる神は、「あなた方は、この聖なる衣を見る時に、私があなた方を見捨てた訳でもなく、返ってより親しく交わることを、私が常に求めていることを知りなさい!ですからあなた方は、導かれたフィールドにおいて必ず、私と親しく交わるためのフィールド、つまり祭壇を先ず築きなさい!」と命じられました。彼らは神の「ご命令」通りに、行き着くフィールドにおいて、先ず①「祭壇」を築き、それから②「井戸」を掘り、更に③荒れ果てた地を耕す・・・・という三つの過程(作業行程)をもって、自分たちに与えられたフィールドを、必ず「聖別」して行きました。このように、霊的シオン(至聖所)に至る「唯一の門」は、今日でも尚「開かれている(open)」ことを知って下さい!


 しかし、神の宿敵サタンはこの「唯一の門」、至聖所に至る「命のパイプ・ライン」を、完全に塞ごうと様々に攻撃して来ます。これが「敵」の戦略です。私たちが、この「唯一の門」を求めれば求める程、「敵」はこの命のパイプ・ラインを、ことごとく遮断(破壊)しようと、必死に攻撃を仕掛けて来ます。イサクと彼の僕たちは、アブラハムの「信仰」を通して相続した、豊かな実りある「カナン」の地に帰還した時、当然あるはずの「井戸」を求めて、当初は何事もなく訪れたのですが、「敵」は既にこの地を占領し、全ての「井戸」を塞いでしまいました。


 私たちの信仰の歩みの中にも、このような体験はよくあります。例えば「私は今まで、父なる神との素晴らしい交わりを保ち、豊かな信仰生活を送っていたのだから、今後も更なる霊的祝福をもたらす井戸が、私の前には用意されるだろう。もう大丈夫だ!」などと思っていたのに、現実は様々な事柄に追われるなど、祈る時間もまま成らない状態に陥ることがあります。しかし父なる神は、私たちがこのような時にあっても、聖霊を通して「あなたは自分の信仰フィールドに、誰をお迎えしますか?」と問われています。私たちの直ぐな「願い(意志)」や、霊的な「渇き」を起こさせるのも、実は聖霊様です。聖霊様は、私たちが如何なる状態にあっても、仮に「敵」の戦略に欺かれ、「霊の井戸」が塞がれたとしても、「求め続けなさい!」と、励まし促して下さいます。


 このように、私たちが聖霊様から促される度に、イサクの僕たちと同様に、「井戸」を再び掘り直すよう導かれます。「ここは、敵が既に塞いでしまった後だから、もう水は湧き上がって来ないかも知れない?」などと疑う時にも、聖霊様は「否!再び掘り直しなさい!命の水が、必ず湧き上がります!」と言われます。イサクの僕たちは、実際に掘り直し始めました。すると「命の水」が、再び湧き上がって来たのです!彼らは「あー主よ、感謝します。もうこれで、先祖アブラハムに与えた約束の地が、回復し出すことでしょう。もう大丈夫ですね!」と喜んだことでしょう。しかし聖霊様は、「否!敵の攻撃は、終了した訳ではない!」と、尚も警告されました。実際に「敵」は、再び攻撃を開始しました。イサクの僕たちがアブラハムの「井戸」を、再び掘り始めたらしい!という情報を知るや否や、「敵」は大軍勢で押し寄せました。「命の水」が出たから押し寄せたのではなく、彼らが戦略的に塞いだ「井戸」を、イサク族(グループ)が掘り直すこと自体が許せなく、恐らく何処かで情勢を観察していたものと推測できます。そして「命の水」が出た途端に、油断していたイサクの僕たちに対して、一斉に攻撃を仕掛けて来たのです。そして遂に、「敵」との間に「エセク(争い)」が生じたのです。


何が起きるのか?
 私たちが「唯一の門」を通過して、「至聖所」に至る新しい「霊の井戸」を掘り進め、聖霊様を通して私たちの「霊」の只中から、「命の水」が湧き上がって来る時に、果して「何」が起きるのでしょうか?先ず第一に起きることは、「対立(争い)」です。原語で「エセク」と言いますが、「イサク(信仰の実)」という霊的概念に、相反する言葉が「対立(争い)」です。私たちの信仰フィールドに、聖霊様が「信仰の種」を蒔き、神の「恵み」を通して豊かに成長させ、遂に「実」を結ばして下さった時に起きること、それは先ず「霊的対立」であることを覚えて下さい。


 具体的に私たちの「霊」の内側で、如何なる「争い」が生じるのでしょうか?それは、三次元的に「肉の眼」に見えて来る、様々な「対立(迫害など)」も含むでしょう!しかし、私たちが先ず霊的に見張らなければならないことは、私たちの「霊なるもの」が求めていることに対して、必ず「肉なるもの」が塞いでくるなど、霊的に悪しき状態が必ず起きることです。パウロによれば、私たちの「霊」の欲する思い(願い)としては、神から見て「善なること」を求めるのですが、私たちの「肉」の欲する思い(欲)の部分で、「世的な善(霊的に悪しきこと)」を、無意識の内に為してしまう「弱さ」があるのです。つまり、「神の求める善」と「肉の求める善」とが、「霊」の中で対立し合っている訳です。


 私たちの「肉」から生まれ出るものは全て、神から見て「悪しきこと」であり、聖霊様も忌み嫌われます。もし仮に私たちが、「肉の求める善」に妥協してしまうと、三次元的に「肉」の欲する方向に傾き、もはや「対立(争い)」が起きる訳でもなく、「世の友」として平和的(順調)に事が進みます。私たちの「霊」の中で、「対立」が起きる場合に聖霊様は、「否!対立が起きることは当然のことですよ!あなたが、神の友となっている証拠です!」と、返って励ましを与えることでしょう。「対立(争い)」が起きない場合は、むしろ「?マーク」です。また私たちが、例えば何らかのミニストリーに携わっている時に、「自分の為していることは、果してこれで良いのだろうか?」などと、自分の「霊」の内側から、「見張人」の声(実は聖霊様の促しですが・・・・)が聞こえなかったとしたら、この時も「?マーク」です。あなたが、「霊の井戸」を掘り進めれば進む程、あなたの信仰フィールドには、必ず「対立(争い)」が起きることを知って下さい!


 続いて第二に起きることは、「敵意 (シトナ)」です。「敵意」とは、「敵」から投げかけられる理由なき「憎悪」のことです。私たちの主イエス・キリストも、「この世」から言われなき「憎しみ」を、公生涯に渡って余儀なくされた方です。言われなき「妬み」や「憎悪」は、一体何処から生じているのでしょうか?ご存知のように、父なる神が天地万物を創造する際に、「光」を出現させる過程において、先ず「暗闇」を利用されました。この「暗闇」と「光」は、決して共存(一致)できる存在ではありません。そうです!「暗闇」にとって「光」は、まさしく理由なき「憎しみ」の対象になります。何故なら、「暗闇」は「光」が出現することで、自分の存在が消滅するからです。しかし「光」にとって、「暗闇」は何の「憎しみ」の対象にはなりません。何故なら、自分が存在(出現)すると同時に、「暗闇」は既に消え失せているからです。しかし「暗闇」と「無秩序」、そして「破壊的存在」の象徴であるサタンは、「真の光」なる方が来られる時、それは自分が消滅する時である故、とても耐えられない訳です。


 神の愛する民が、主なる「真の光(イエス・キリスト)」を求めることによって、「光」の中に包まれる(覆われる)状態に対して、サタンと悪霊は理由なき「憎悪」をもって、盛んに攻撃を仕掛けて来るのです。サタンの「意志」は、常に「主の民」を自分の手中に置き(支配し)、「悪の奴隷」にすることです。ところが、「主の民」が悪から完全に離れ、主の「至聖所」に進み入り、「真の光(イエス・キリスト)」の中に一体化されることは、サタンにとって敗北になるのです。


 例えば私たちの祈りの中には、時折「エゴ(自己中心)」を優先させた、自分本位の「願い(欲)」を捧げることがあります。その時に、必ず聖霊様は「否!あなたが求めるものは、先ず主なる神の臨在(御国)と、その義(イエス・キリスト)です!」と言われます。私たちがイエス・キリストご自身を、純粋に求める「祈り」を優先している限り、私たちの信仰フィールドにおいて霊的「対立」は生じても、「霊の井戸」が塞がれることは決してありません。そのような「祈り」を捧げている限り、「至聖所」の光が私たちの「霊」を完全に支配し、「肉なるもの」が聖められ、肉的な「祈り」も次第に主を求める、聖なる「祈り」へと変えられて行きます。


 ところが、自分の「肉なる願い」を優先して祈りますと、「霊なるもの」が渇き求める状態を、「肉なるもの」が完全に塞いでしまい、その結果「暗闇」が支配することになります。このような時には、既に理由なき「憎悪」も「対立」も起こりません!何故なら、その時には「もっと更に、あなたの願いによって祈りなさい!」と、促す方(誘惑者)が囁くからです。あなたの「霊なる声」が、飢え渇き求めるべき「至聖所」の門前に、「肉の願い(欲)」を優先して置いた場合、それは全て神から見て「偶像」になることを覚えて下さい!私たちは「聖なる衣」を着つつ、主なる神の御前に進み出て、父なる神が用意して下さる「聖なる祭壇」上に、有りのまま身を横たえるだけでよいのです。このように、「神ご自身」のみを求める時に起きることが、霊的「対立」と理由なき「憎悪(反目)」であることを、私たちは常に覚えておくべきです。


「その場」から立ち去れ!
 神のみを追い求める者は理由なき「憎悪」の故に、必ず「この世」から聖別されます。イサクの僕たちは「対立」が起きた時に、すぐに「その場」から立ち去りました。彼らは、神の「御心」を優先していましたから、すぐに離れ去ることが出来たのです。これが「聖別」です!「その場(ポジション)」を、あえて固執して「否、違う!私はこれを守るんだ。この賜物をもって、もっと大きな働きをしたいのだ!」などと言う限り、霊的「対立」は継続します。返って事態は悪化し、霊的に更に苦しくなるばかりです。確かに「その場」を離れることは、何となく「敵」に敗北したかのように思われます。イエス・キリストも、ご自分の故郷ナザレにおいて、宣教活動を開始された時に、地元住民からの理由なき「憎悪」の故に、故郷の地を追われました。しかしイエス・キリストは、あえて「その場」に留まることは為されずに、すぐに立ち去りました。


 イエス・キリストの霊的行動の特徴の一つは、さっ!と身を引くことです。私たちの「霊」の中で、「対立」や理由なき「憎悪」が起きた時、私たちは如何なる行動をすべきでしょうか?それは、イエス・キリストの如くに聖霊様に促されるまま、「その場」から立ち去ることです。私たちが「聖別」される一番の近道は、私たちが大事にしている「その場」、例えば自分(エゴ)が守り続けているものから、立ち去る(離れる、廃棄する)ことです。私たちが霊的戦いにおいて、勝利し得る唯一の兵法は、「その場から、直ちに立ち去る(逃げる)」ことです!


 かつてD・ウィルカーソン師が若かりし頃、ペンシルバニア州フィリップバーグ市にて牧会に成功し、いよいよ自己の「目標(夢)」を達成しようと、更なる「教会発展(成長)」を願って、期待に胸をはずませっていった矢先に、聖霊様が彼の「霊」に囁きかけました。「デビッドよ、私はこれだけでは満足しません!あなたは、今のポジションを全て神に捧げ、私が示す地に行きなさい!」と。すると彼は、「え!?主よ、私はここに居れば、どれ程安定した牧会生活を過ごすことができるでしょうか!もっと更に、あなたの教会を大きくすることが出来るではありませんか?」などと問い質すのですが、聖霊様は「そこから立ち去りなさい!あなたを更に聖別し、神との奥深い親しい交わりへと導き出したいから、私が用意する場に行きなさい!」と厳しく言われました。(注・『十字架と飛び出しナイフ』より)


 成功した「神のしもべ」にも、このような霊的戦いが必ず起こります。「人」というものは、最初「小さきこと」から始めますが、それが成功して少しずつ成長し始めると、より「大きなもの」を求めようとするなど、肉なる「願い(欲)」が必ず生じます。私たちキリスト者も「小さき器」の時は、へり下って神を求める姿勢に徹するのですが、少しずつ豊かな「実」を結び、やがて収穫(成功)が見えてきますと、更に「大きいもの」を欲するなど、非常に肉的に「弱い器」であることを、改めて覚えようではありませんか!


 しかし、聖霊様は何度も命じられます。「その場から立ち去りなさい!そんなことで満足するのですか?それがあなたの霊の井戸を塞ぐ、肉の欲になることを知らないのですか?」と。覚えて下さい!「敵」は、あなた自身が「自己満足」に陥った時、小躍りして喜びます!「やったー、やったー!これであいつの井戸は、完全に塞がれたぞ!」と。しかし、それでも聖霊様は「否!もっと更に前進しなさい!ストップ(自己満足)してはなりません!渇き続けなさい!次なる井戸を掘りなさい!」と霊的に叱咤します。神が用意して下さる、次なる「新しい井戸」に行くことは、神の属性である「永遠性」を求めることです。私たちの霊的最終目標(ゴール)は、確かに「御国」ではありますが、そこに辿り着くまでには、限りなき(絶えざる)「飢え渇き」が必要となります。


 「敵」は、私たちが「井戸(神との交わり)」を掘れば掘る程、次々とそれを塞いで来ることでしょう。しかし感謝しようではありませんか!塞がれたら、聖霊様が次に導いて下さる、新しい「井戸」を掘りさえすればよいのです。「聖霊様!あなたは必ず、新しい井戸を用意して下さいますね。私は今、そこに導かれていることを感謝します。今、このような試練(対立、憎悪)が、私の霊の中で起きていることを感謝します。だからこそ、あなたを求めて止みません!」と祈り始めると、あなたが朝起きた時から、夜疲れて寝床に行く時まで、主なる神との「交わりの場(井戸)」が、豊かに用意されることでしょう。そして、日々「新しい井戸」においてあなたは、「前進しなさい!私は昨日(過去)の古い井戸ではなく、今日(現在)の新しい井戸を、あなたの前に用意している。それ故、あなたは信仰をもって掘り進めなさい!」という、聖霊様の励ましを受けつつ、スカルの女性の信仰の行動の如くに、もはや「古い井戸」に固執することなく、「その場」から立ち去ることが出来るのです。


「井戸」を掘る前に・・・・
イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。・・・・イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」(22〜25節)
 聖霊様は実に不思議な導き方を、イサクに為されています。私たちが、主なる神を百%純粋に求める限り、霊的「対立(争い)」は起こり得ず、むしろ霊的祝福が私たちの全てを覆い、聖霊様を通して全き平安(安息)の中に、私たちは導かれて行くのです。そうなると、今までの「不安」と「恐れ」、或いは将来に対する「心配事」が、全て馬鹿げたことのように思えるようになります。イサクとその僕が、「新しいフィールド」に導かれた時に、彼らは早々と「井戸」を掘った訳ではありません!彼らは、主人イサク(イエス・キリストの雛型)を中心として、その場を「レホボト(無限に広がる豊かな交わりの場)」と名付けました。つまり、彼らは「井戸」を掘る以前に、新しいフィールドへと召し出した、主なる神に感謝の祈りを捧げ、「これは、あなたが既に用意して下さっている、新しい井戸です!今後、如何なる敵も侵入することが出来ない、あなた様と一体化する聖なる場(至聖所)です!」という信仰の宣言をした後で、その場に「祭壇」を築いたのです。


 「井戸」を掘る以前に、神に「感謝の祈り」を宣言した彼らは、聖霊様の導きに従順しながら、主なる神を最優先に、彼らの「信仰フィールド」に歓迎しました。つまり、彼らは主なる神を歓迎した後に、神と共に「新しい井戸」を掘り進め、その場に留まったのです。その時、彼らは「あなたご自身が住まわれ、あなたご自身が豊かに臨在される、麗しい聖なるフィールドですから、私もここに住みます!あなたが用意されるレホボトに、私も共に住みます!主よ、どうかあなたが先陣を切って下さり、更に井戸を奥深く掘り下げるよう、お命じになって下さい!」などと、へり下った「信仰の宣言」を捧げたのです。


 「主の宮(霊的祭壇)」に、あなたは常に留まっていらっしゃいますか?あなたが、如何なる霊的状態にあっても、また現実的に「苦境」や「艱難」の最中にあっても、「私は主よ、あなたの宮に住みたいのです!そこに私を置いて下さい!」と、「信仰の宣言(祈り)」を捧げて下さい!その後彼らは初めて、主なる神から「GOサイン」が出たのです。彼らは過去の「信仰の井戸」を、再び汲み上げようと掘り直したのですが、それをすればする程「敵」との対立(争い)が生じて、聖霊様を通して本来の「正しい道」へと、霊的に導かれ(軌道修正され)たのです。「あなた方が求めることは只一つ、それは主の宮、つまり神が臨在される至聖所ではありませんか!」と。彼らは、この命令に素直に聞き従った結果、二度と「敵」との対立(争い)もなく、レホボトにて安住の生活がスタート出来たのです。


 あなたにも、聖霊様を通して新しい「レホボト」が、必ず用意されることを信じて下さい!主なる神があなたを、今の状況(状態)から必ず贖い出して下さることを、主イエス・キリストの御名で宣言して下さい!そして、主なる神が新たに用意して下さる、「レホボト(広いフィールド)」に導かれる時に、あなたは神から「新しい井戸(イエス・キリスト)」を与えられ、あなたがその井戸を掘り下げる時に、過去においてあなたが被った、様々な理由なき「憎悪」故に苦しんだことを、全て神が償われる(報いて下さる)ことでしょう!今までに見た(経験した)ことの無い、麗しい神との「親しい交わり」が、あなたの「過去の井戸」を瞬時に一掃する程の、霊的報酬として授けられることを信じて下さい!


 ですから、あなたに与えられている日々の務め(主への礼拝)を、決して怠ることがありませんように!主なる神との「親しい交わり」は、常にあなたの前に用意されています。「今日の井戸」を堀り、そして明日は「新しい井戸」が用意されていますから・・・・。


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