バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.10)

             「下からの泉」を求められる方




 旧約の中に現された、父なる神の「命の水」としての麗しい働きは、新約の世界においても同様に現されています。又、その働きはユダヤ人ばかりでなく、異邦人(例・スカルの女性)の中にも、聖霊を通して永遠の命に至る「命の水」を、公平に流して下さることを、私たちは知っています。


女たちが水汲みに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。「主人アブラハムに慈しみを示して下さい。私は今、ご覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水を汲みに来た時、その一人に、『どうか、水瓶を傾けて、飲ませて下さい』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲み下さい。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせて下さい。そのことによって私は、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」僕(しもべ)がまだ祈り終わらない内に、見よ、リベカが水瓶を肩に載せてやって来た。・・・・彼女が泉に下りて行き、水瓶に水を満たして上がって来ると、僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水瓶の水を少し飲ませて下さい。」すると彼女は、「どうぞ、お飲み下さい。」と答え、すぐに水瓶を下ろして手に抱え、彼に飲ませた。彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水を汲んで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、すぐに瓶の水を水槽に空け、また水を汲みに井戸に走って行った。こうして、彼女は全てのらくだに水を汲んでやった。
                                                                                                        【創世記24章11〜20節】


聖霊様が要求するもの
 このストーリーは、私たちと聖霊様との関わり方において、改めて私たちが霊的に「知る」べき、重要ポイントについて教えています。私たちは聖霊様に対して、必ず次のように祈ります。「聖霊様!私は今、このような状態(有り様)にあります。ですから、どうぞ贖い出して(助けて)下さい!スカルの女性に与えた命の水を、私にも注いで下さい!私も飲みたいのです!私は聖霊様に飢え渇いています!聖霊様の油注ぎを、もっと与えて下さい!もっと更に、奥深く・・・・」と。このような「懇願の祈り」は、霊的に重要な祈りの一つです。


 聖霊様に直接願い出て、心からへり下って求める祈り、特に「命の源」イエス・キリストを求めて止まない祈りは、聖霊様が非常に喜ばれるものです。しかしそれと同時に、実は聖霊様ご自身も私たちに対して、求めるものがあることを、私たちは「知る」べきです。え!?聖霊様が私たちに対して、「要求するもの」があるのでしょうか?然り!あるのです。その時に私たちは、「あ、分かりました!それは私たちが、もっと更にイエス・キリストの御元に行くことでしょう。そしてイエス様に対して、更に愛の言葉を直接表すことでしょう!」などと返答します。確かに、それも「正しい答え」です。しかし聖霊様が、もっと命じられることがあります。「父なる神があなたの中に与えた、その豊かな創造性に富んだ、あなたの泉を私にも飲ませて欲しい!」と。え!聖霊様が「私たちの泉」を、要求することがあるのですか?然り!聖霊様は、私たちの「何か」を欲しておられます。それは「行動(アクション)」ですか?「奉仕」ですか?「ミニストリー(宣教活動)」ですか?否!私たちが覚えなければならないことは、聖霊様ご自身も私たちに対して、ある「水(泉)」を求めておられることです。


 砂漠地帯において、転々と移住生活している人々にとって、「井戸(泉)」と「オアシス」の所在地を、知っているか否かということは、非常に死活問題となります。そうです!砂漠に暮らす人々にとって、「水」のある場(フィールド)こそが、「命のフィールド」になります。「命の水」が無ければ人はおろか、あらゆる生物は生きられません!このことを知って下さい。そして、「井戸(泉)」や「オアシス(川も含めて)」などの、いわゆる「水」を貯えたフィールドは、高き台地や丘陵地帯、山の頂きには殆ど存在しません。又「水」は生物学的に見て、「人」が生きていく上で摂取する、様々な補給物質(食糧)の中で、非常に重要な働きを担っています。つまり「水」こそが、私たちの「命」を生き長らえさせるものです。


 このストーリーに見られるように、当時の人々にとって「水」を大量に運搬することのできる、主要な道具は「水瓶」でした。そしてこの「水瓶」は、ペットボトル(二リットル)程度の、「水」を貯える大きさではなく、肩や頭の上に載せて運ぶなど、かなり大きい「器」であったと推測します。この大きな空になった水瓶を、肩に載せて貯水場まで下って行き、たっぷり「水」を満たし、かなり重くなった水瓶を、今度は逆に上って運ばなければならないという、女性にとって非常にきつい重労働を、あのスカルの女性も為したことでしょう。勿論、ラクダやロバを所有している者は、その家畜に運搬させているはずですが・・・・。


へり下ったリベカの行動
 アブラハムから遣わされた「しもべ」は、ご主人様の御曹司イサクの、花嫁としてふさわしい乙女を捜し求めて、遂にハランの地に辿り付きました。沢山の未婚女性が、ハランにも住んでいますから、その中からイサクにふさわしい花嫁を、如何なる規準で選んだらよいのか、当然彼は思い悩んだことでしょう。しかし彼は、ご主人様の「心」を知っていました。その「心」とは、本当にイサクと「愛の交わり」を為し、共に仕え合うことのできる「乙女(真の花嫁)」が、この地に必ず一人だけ存在することでした。


 イサクの将来の花嫁になる者とは、(もしかしたら)ついこの前先立った、アブラハムの妻サラのイメージに似通った者ではないかと、彼は思い描いていたのかも知れません。「サラ様は、確かに賢い方であったから、イサク様の花嫁になる方も、恐らく私が一々お願いしなくても、てきぱきと賢い行動を為される方であろう・・・・。」などと。とにかく彼は、ご主人様の「心」に適う乙女を、必死に捜し求めていました。それ故、彼はある時聖霊を通して、一つの啓示(霊的ヒント)を得ました。「私が、この井戸の傍らで休憩している時に、街から必ず若い乙女たちが、水を汲みにやって来るだろう!彼女たちの中に、きっとご主人様の心に適った、真の乙女がいるはずだ!ならば、私はここで待つとしよう。」と。


 彼は何時間、或いは何日間待ち続けたのか定かではありませんが、ある日の夕刻時「今日も現れなかったなー」と待ちくたびれ、疲れ切った様子でいる時に、突然一人の乙女が井戸にやって来たのです。彼女は、今まで井戸で見てきた若い女性の中で、一番美しい娘(リベカ)でした。「おや?もしかしたら・・・・」と思った瞬間、彼はつい口走りました。「お嬢さん!私に水を、少し飲ましてもらえないかね?」と。あのスカルの女性に語りかけた、イエス・キリストの「命の言葉」も、同様のものでした。「水を飲ませて下さい。」(ヨハネ福音書4章7節)


 するとリベカの場合は、本当に「しもべ」の心に適う行動を為しました。彼女は、「どうぞ、お飲み下さい。」(18節)と語るや否や、肩に載せていた水瓶をすぐに下ろして、恐らく非常に重たい水瓶を両手に抱え、丁寧に彼に飲ませたと記述されています。しかし、彼が彼女に水を要求した時、もしかしたら水瓶の中は、殆ど「空」に近い状態であったと想像します。しかも、彼が座って休憩していた所は、その時「水」が貯えられた状況に無かったので、彼女は「水」が湧き出る井戸(泉)まで、わざわざ下って行ったことでしょう。恐らく、彼が座っていた「場」とは、公共の「水飲み場」のことであり、決して「水」が自然と湧き出る、井戸や泉ではなかったことが推測できます。ですから彼女は、「分かりました。今から直ぐにでも汲んで来ますから、お待ちになって下さい!旅の方よ。」と応じるや否や、「水」のある場へと下って行ったのです。


 戻って来るまでに、どれ程の時間を要したのか分かりませんが、彼女は持っていた「水瓶」の中に、水をたっぷり満たして、休憩している「しもべ」の所へと、喜んでこの重労働の務めを遂行しました。何故彼女は、わざわざ「水瓶」を満たして運んだのでしょうか?大抵の人は、この年配(しもべのこと)の者が、いくら「水」を飲みたいからと言って、せいぜいペットボトル程度の水(二リットル)の量で十分だろう!と考え、「水瓶」に少し汲むなどして、余り自分に負担のかかることは避けます。


 しかし彼女は、並みの人間と違った行動を、ごく自然に為したのです!彼女は、非常に重たい「水瓶」を両手に抱えながら、彼の座っている所まで運び終えた時、「さー、旅の方!この中に、たっぷり水がありますから、ご自分で(セルフサービス形式で)、自由にすくってお飲み下さい!」とは言いませんでした。わざわざ彼女は、自分で何回も何回も水をすくって、彼が十分に喉の渇きを潤し終えるまで、その行為を繰り返したのです。彼は、リベカの「心優しい行為」に触れ、物凄い感動を覚えたことでしょう。「私は、少しだけ水を飲めれば良いと思っていたのに、このお嬢さんは何と、冷たくて美味しい井戸水を、何度もすくって飲ましてくれることか!」と。


 彼が十分に水を飲み終えると、続いてリベカは質問してきました。「旅のお方、随分沢山のラクダを連れていらっしゃいますね!多分ラクダも疲れて、水が欲しいのではありませんか?私がラクダにも、水を飲まして差し上げましょう!宜しいですね?」と言いつつ、すぐに水瓶に余った水を「水飲み場」に空けると、再び井戸まで下って行きました。ここで覚えて戴きたいことは、主人アブラハムから親戚への贈答品が、かなり多かったものと推測しても、運搬用のラクダを「十頭」以上、引き連れて来たはずです。しかも、一頭のラクダが飲む「水」の量は、一人の人間が飲む水の量とは、比較にならない程の大量の「水」です。大きな水瓶一杯どころの量ではありません。私が想像するだけでも、彼女は数時間に渡って、この重労働作業を繰り返したことでしょう。とにかく、彼女が為した行為の全ては、アブラハムの「しもべ」にとって、期待していた以上の満足感を与えました。


聖霊様が求める「二つの泉」
 主人アブラハムに対する、この「しもべ」の忠実な一連の働きは、実は聖霊様の働きを象徴しています。では、このリベカ(イサクの花嫁になる乙女)の行為は、「何」を現しているのでしょうか?すぐお分かりになると思いますが、リベカとは「キリストの花嫁」の雛型ですから、このストーリーに見られる彼女の行為自体が、花婿イエス・キリストに対する、「真の花嫁」の霊的姿勢を現しています。果して、私たちはリベカの如くに、花婿イエス・キリストに対して、ふさわしい霊的姿勢を現しているでしょうか?聖霊様が、このストーリーから示して下さる、重要メッセージは只一つです。それは「聖霊様も、私たちキリスト者に対して要求するものがある!」こと、即ち「下からの泉」です。


 聖霊様は私たちに対して、常に「下からの泉」を求めておられます!聖霊様は、「与える方」であると同時に、「求める方」でもあります。私たち「キリストの花嫁」が、聖霊様の霊的促しに従っていく時に、「私は聖霊様に対して、いったい何を為すべきだろうか?又何を差し上げられるだろうか?」などと自らの霊的姿勢を問う、これが非常に重要となります。リベカのように、今ある所からわざわざ下って行き、自ら用意してきた水瓶の中に、たっぷり「井戸水」を汲んで、何度も何度も運び上らなければならない、つまり「自ら踏むべき働き(霊的行動)」が、私たちに要求されているのです!


 「その時」に私たちは、二通りの道が選択肢として与えられます。第一の道は、「あー分かった。聖霊様の求めておられることは、恐らくこれだろう(これ位だろう)!」などと、自分で勝手に計算(判断)した量だけをもって、聖霊様の前に出て来る行為(姿勢)です。ある面で、これは三次元レベルの判断に基づく、「世的な水」を汲み上げる行為と同じものです。それに対して第二の道は、「いや違う!聖霊様が私に求めておられる下からの泉とは、たとえ私の唇が汚れた状態にあり、私自身が気が塞ぎ込む(落ち込む)など、霊的に不信仰な状態にあっても、聖霊様が私に要求される度合いが百%、つまり完全に私を満たすべく、私の百%(全て)を求めておられることです!」と、リベカの如くに賢い選択をすることです。


 「しもべ」が旅の疲れで、どれ程の「水」の量を求めておられるのか、彼女には分かりませんでしたが、自分が為すべきことは、持っている水瓶を完全に満たして、この方に注ぐことだけは分かりました。聖霊様が求めておられるのは、「器(水瓶)」に汲み上げた「量」ではなく、私たち自身が有りのまま主の御前に出て、完全に「命の水」で満たされることを、何度も何度もへり下って求める姿勢です。ですから、例えば私たちが「異言の祈り」や、長期の「断食祈祷」をする際にも、何時間(何日間)にも渡って祈る、その「量(期間)」が問題なのではなく、聖霊様に対して「もっと更に完成(完全性)を目指して、命の水で満たして戴く!」という、「霊的飢え渇き」の方が大切です。


 つまり、聖霊様は私たちの尽きることの無い、その純粋な「渇き」を求めているのです。それは聖霊様ご自身が、永遠に尽きることの無い、又枯れることのない「命の水」を、常に私たちの「霊」に満たして下さる方だからです。ならば、限り有る命に生きる私たちであっても、生ける限り神の「御名」を愛し称えましょう。そうです!主ご自身を求める「私たちの泉(第一の泉)」を、聖霊様は欲しておられます。このように、私たちが霊と真をもって礼拝を捧げる時、聖霊様が私たちに要求される姿勢としては、「完全性」を目標としなければなりません。私たち自身が不完全な者であっても、私たちの「思い」と「霊の欲すること」など、全てを有りのままに捧げ尽くす姿勢で、へり下って御前に出ることを、聖霊様は強く望んでおられます。


 「しもべ」が、続いてリベカに期待した事柄が、実は聖霊様が私たちに要求する、第二の「泉」を現しています。「らくだにも水を汲んで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」(19節)リベカは「しもべ」に対して、「旅のお方。すいませんが、ラクダは全部で何頭いらっしゃるのですか?」などと、一々問い質していません!つまり彼女は、三次元的判断などの「計算」をせずに、自発的に行動しています。とにかく全てのラクダが、「コブ」にたっぷり水を貯え終わるまで、延々と「水」を運び続けました。


 例えば私たちの信仰生活には、時々次のような「問い(不平の一つ)」がないでしょうか?「えー!私は未だ(この奉仕を)続けなければならないのですか?主よ!」、「未だ私に、祈りを求めているのですか?」、「この状況が未だ続くのですか?十分に苦しんだはずですが・・・・。」、「あなたからのゴーサインは、未だ出ないのですか?」などと。このように私たちは神に対して、確かに何らかの「助け」を求めて祈ります。しかし、リベカの「思い」を捉えて離さなかったことは、「しもべ」自身も「水」を求めて、激しく飢え渇いていたのであれば、尚更ラクダにも「命の水」を満たして、その飢え渇きに応えたい!という、「愛の動機」があったことです。


 ところで『創世記』の筆者モーセは、「十頭のらくだ」と記述していますが、この「十頭のらくだ」の意味することは、父なる神が聖霊を通して、私たちに与えようとしておられる、素晴らしい天からの「賜物」と、私たち一人一人に対する「ご計画」の象徴です。私たちが、天から与えられる賜物の「意義」と「素晴らしさ」を、最初から知っているとしたら、大抵の人々は「私が喜んでやります!」と、積極的に行動を起こすでしょう!それ故に、「預言」を求める人々が多いのです。自分の将来に対する、父なる神の「ご計画」を求めて、「聖霊様!私はいったい、何に召されているのでしょうか?どうか教えて下さい!」などと祈ります。しかし、リベカは自分の行動に対する、何らかの結果(しもべの好意)を求めたのでしょうか?彼女は、「しもべ」から「らくだ」に至るまで、純粋に「命の水」を汲み上げ、彼らの「口」にまで運搬し尽くしたのです。その過程は、先ず「泉(井戸)」のある所まで下って行き、そして「命の水」を満たした重い水瓶を、「しもべ」と「らくだ」が休む場へと、何度も何度も上り運びました。


 同じ行為を繰り返すことほど、忍耐を要するものはありません!日々私たちが、霊と真をもって礼拝を捧げることも、ある面で同じ事の繰り返しです。私たちは愚かにも、「主よ、そのことも大事ですが、私に対する計画を見せて下さい!私は今まで、聖霊様から何度も命の水を戴きました!もう十分です。そろそろ、最終的な行為(使命)を教えて下さい!」などと、自分の側からの要求のみを主張します。しかし、聖霊様(しもべ)が見ておられる次元は、私たちキリストの花嫁が、どれ程(回数)礼拝を捧げたか、或いは何時間(何日)断食して祈ったか、又どれだけ多くの人に伝道したかなど、三次元的に「計算」できるレベルにはありません。


 聖霊様は必ず、私たちの「霊(真心)」だけを見られ、自分自身のことに捕われるのではなく、私たちがどれほど神に対して、純粋な「霊(真心)」を捧げているかを、何よりも見られるのです。つまり、聖霊様が私たちに求めておられるものとは、私たちの「霊」の中にある「意志(願い)」が、純粋に神を愛する方向にのみ、向けられているかということです。リベカにとって十頭のらくだも、「しもべ」のものであると熟知していましから、ごく当り前(自然)に、同じ行為を繰り返すことができたのです。実は、このリベカの持つ純粋な「美しい心」こそ、イサク(イエス・キリストの雛型)の花嫁にふさわしい、霊的資質だったのです。


「賢い乙女」として捧げる
 聖霊様が私たちに対して、如何に多くの「賜物」と「恵み」を、今まで用意して下さっているか!このことを改めて覚えようではありませんか。私たちはこの点について、すぐ忘れてしまいます。そして、私たちが霊的に前進すればする程、「私をもっと満たして下さい!更に造り変えて下さい!」などと、一方的に私たちの側からのみ要求する、「祈り」を捧げる傾向にあります。勿論このような「祈り」は、霊的に欠くべからざる大切な祈りです。私たちが霊的な「祈り」を捧げる際、非常に重要な姿勢が私たちに問われる訳ですが、それと同時に私たちの側からも聖霊様に対して、ご自身の「御心」を満足させる「下からの泉」、即ち霊的にへり下った姿勢(悔いた砕かれた魂)を、真心をもって捧げることで、私たち自身から(下がった立場として)流れ出す「泉(純粋な美しい心)」を、聖霊様に汲んで差し上げることが要求されるのです。


 「しもべ」がリベカに対して、期待し求められたのと同様に、聖霊様は私たちが「キリストの花嫁」として、花婿イエス・キリストにふさわしい者かどうかを探り、見定めておられることを知って下さい。もし、私たちがこのことを知らなければ、相変わらず「自分」だけを満たす「祈り(願い)」などを、聖霊様にし続けるでしょう!ですから、聖霊様が私たちに期待し求めておられることは、将来のイサクの花嫁となるリベカの如くに、有りのままストレートに、聖霊様(しもべ)の「御心」を満たすことのできる、へり下った「直ぐな心」であり、私たちが人間的に愚かな三次元的行為をするのではなく、主なる神だけを百%愛し、又へり下って仕え続けることのできる、「賢い乙女」として変革されることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する