バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.29)

          二つの「ラブコール」




四十歳になった時、モーセは・・・・(イスラエルの子ら)の一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し・・・・仇を打ったのです。・・・・しかし、(イスラエルの子から)理解してくれませんでした。・・・・モーセは・・・・逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に・・・・四十年経った時、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で・・・・主の声が聞こえました。「私はあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。・・・・履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。私は、エジプトに居る私の民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救う為に降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。」人々が・・・・拒んだこのモーセを、神は・・・・指導者また解放者としてお遣わしなったのです。
                                               【使徒行伝7章23~35節】


モーセの「失敗」
 今回の記事には、モーセが「プリンス(王族)」という立場から、「逃亡者」という身分に落ち、その後40年という長き年月を経て、如何なる人物になって行くのか?この点について、ステパノは重要なメッセ-ジを、今に生きる私たちにも、聖霊を通して投げかけています。私たちは現実的には「皇族」でも、身分高き「貴族」でもありませんが、主なる神の側から見れば、「神の国」の王族であり、イエス・キリストを長子とする、「神の家族」の重要な一員です!


 しかし悪魔サタンは、真のキリスト者に与えられている、この霊的アイデンティティ(身分)を、私たちが信仰をもって目覚めることを妨害します。実は今回のモーセの生き様(行動)には、私たちが聖霊様を通して、彼同様に取扱われる(訓練される)など、私たちが霊的に学ぶ(見倣う)べき要素が示されています。


 今回の記事から学ぶべき重要ポイントは、私たちの「霊」には、常に呼びかけて来る、二つの「声(ラブコール)」がある!という点です。そして私たちは、その二つの声に対して、魂(感情)的に取り込む可能性があることです。つまり私たちが「肉」の思いから、二つの声を安易に聞き分けてしまう時、私たちはモーセ同様に、霊的に失敗する(ミスを犯す)のです。


 ではモーセは、如何なる失敗を押したのでしょうか?本来であるならば、モーセの立ち位置(身分)は、エジプトの法を遵守する(尊ぶ)、模範的なリーダーであるべきです。しかしある時、彼は自分の法的立場を忘れる程の、堪え難き事件に遭遇した為、彼はエジプト法を逸脱し、不可抗力とは言え、殺人を犯すことになりました。その時から、彼は指名手配犯となり、エジプトから逃亡する身分に落ちました。


二つの「ラブコール」
 さて、「二つの声」とは如何なるものでしょうか?第一の声が、この時のモーセの失敗に見られる、私たちの心の内側から、いつも感情的に聞こえて来る「魂(肉)の声」です。これは霊的には、「この世(エジプト)」から生じる、ラブコールの如きものです。私たちは「この世」に生きている以上、世的な「思い」をもって、また人間的な「憶測」や「詮索」などを、頻繁に繰り返すところが多々あります。決して「この世」と調子を合わせなくても、「この世」との関係を、感情的に忖度する弱さがあることも事実です。


 「その時」に私たちの「魂的なもの」が、次第に敏感になる為に、ある声が下から聞こえて来ます。それが「この世」からのラブコールです。実際にはサタンが、私たちの「魂」に囁くものです。「あなたには素晴らしいものがあります。世において認められる程の、素晴らしい才能に恵まれているから、それをもって、神に栄光を現わしてみたらどうですか?」などと。


 それに対して第二の声が、私たちの「魂」にではなく、「霊」の領域に向かって、か細く投げかけてきます。そして第二の声は、必ず天(上)より聞こえてくるもので、その「真のラブコール」の発信者は聖霊様です。聖霊様は、私たちの「願い」や「思い」、また「望み」や「欲求」などを超える次元の中で、主なる神の「御心」と結び合されることを、いつも霊的に呻きながら働きかける時に、必ず「上」よりのラブコールを届けて下さいます。「いや違う!あなたが立つべきポジションは、神の聖なる領域であり、そこに立って、静かに神の臨在を仰ぎ求め、神があなたに何をしようとしておられるのか?をひたすら待ち、神の声が聞こえたら、その御声に聞き従うことが肝心です!」と。


 ところでサタンは、世に向けて宣教活動を開始される、直前のイエス・キリスト、つまり荒野(砂漠)に導かれ、聖霊様に訓練されているイエス・キリストに対して、如何なるラブコールを発したでしょうか?「神の御子であり、貴いご身分である方よ、お腹すいただろう?」と、先ずは彼をねぎらう声でした。実は、この甘い「囁き」は、「エデンの園」に暮らしていた、エバに投げかけたものと同じです。サタンは続いて「あなたの空腹は、痛いほど分かるよ。どうだろう、あの石ころ見てごらん!パンに見えないかな?あなただったら神の力を使って、一つ命じてごらん。パンになれ!と。」


 「この世」からのラブコールは、確かに砂漠(荒れ野)の如き、悲観的に見える「現実」に対して、先ずは神の「奇跡」を願う、それが魂的なものと分かっていても、「この世」と妥協するのが、私たちの「弱さ」です。しかし聖霊様は、イエス・キリストに対して「否!あなたは大事なことを、今思い出すべきである。聞き従うことこそ、全ての生贄に優るのです。神の声を先ず聞く、神の声を聞くこと無しには、何も為し得ない(始まらない)ことを、いつも覚えるべきです。神が直接あなたに語りかける、一つ一つの命の言葉によって初めて、あなたは生きることが可能です!」と、か細い声で叱咤激励します。


 当然モーセに対しても、この二つの声が聞こえてきました。先ず「私が今立って、自分が持つ力(エジプト的権力)をもって、同胞(イスラエル人)を苦難から救済するのだ!」と、第一の声に従いました。そしてある時、実際に行動に移りました。しかし結果は、同胞から「疫病神」扱いされ、失意のうちに荒野に逃亡することになりました。しかしこの時から、40年間という神の「取扱い」が始まったのです。


聖霊様の「ラブコール」に聞き従う時
 結論になりますが、モーセは40年を経て、ある時「燃える柴」の中から、神の語りかけ(第二のラブコール)を直接聞きました。神はこの時、先ずモーセに対して「あなたの靴を脱ぎなさい!」と命じられ、続いて「あなたの立っている所は、聖なる場所だから。」と、モーセに対して諭しました。


 その瞬間、モーセは急いで靴を脱ぎました。そして「主よ、何でしょうか?どうぞ正しいラブコールを、このしもべに語って下さい。あなたの聖なる場所に座して、私は聞き従います。」と、謙虚に膝を屈めたのです。すると主なる神は「モーセよ、私はいよいよ、あなたをエジプトに遣わす!今度エジプトに行くと時には、あなたは魂的に何もする必要が無い。イスラエルの民に、私が大いなる事を起こす時、私はあなたをイスラエルの救済者、指導者、解放者とする。」と、預言的な言葉(勅令)を授けました。


 聖霊様は、あなた(私)に対しても、神の言葉(真実のラブコール)を発信しています。「あなたの立っている所は何処ですか?」と。私たちが、世からのラブコールを聞いている間は、私たちは「この世」に重心(自分の足)を置いています。しかし聖霊様が、私たちに対して呻きをもって語り、私たちがその御声に耳を傾ける時、私たちは「この世」から離れて、ある方向(立つべき正しい場所)を目指して歩むことになります。


 その場所とは、主なる神が用意される「聖なる場所」です。そこにおいては、自分が履いていた靴(世を渡り歩いてきた人間的なもの)は、もはや必要ありません!神が与えて下さる、麗しい履物(聖なるサンダル)を履いて、私たちは神の御前に座すだけでよいのです。「この世」に頼って生きる人々は、私たちキリスト者のことを、「少数派(弱小集団)」と言って見下します。しかし聖霊様が、私たちを「この世」から選び召し出し、真の「キリストの兵士」として訓練する時、この時のステパノのように、自分の命を懸けてまで、神の御言葉を大胆に伝える、神の「精鋭使徒(最強のキリストの証人)」となるのです!


 覚えて戴きたいことは、聖霊様を通して私たちに与えられる、「神の国」を説き明かす「言葉(唇)」の賜物には、悪魔サタンが震えおののく程の、偉大なる「天の力」が注がれていることです。しかし「その時」、私たちが「魂的な思い」から、神の言葉を語ったとしても、何も起こりません。聖霊様は一言、私たちの「霊」に命じます。イエス・キリストの「ラブコール(真実の声)」を土台として、彼らに直接命じるのです。「イエス・キリストの聖なる御名により、この世から贖われ出なさい!聖なる場所に帰って来なさい!」と。


 聖霊様は今の「終わりの時」、必死になって主なる神の「御思い」を、真実のラブコールとして、必ずあなたに日々届けて下さいます。これが神の偉大なる「召集」です。どうぞあなたが、神の偉大なる「召集」に対して、瞬時に聞き従うことの出来る、神との親しい「交わり」の時が、朝起きた時から、夜眠る時に至るまで、豊かに備えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月8日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村

Terminal Hope(No.3)

     「光なる方」が遣わされる時




神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される。
                   【ヨプ記12章22節】


神は「光」を必ず遣わされる!
 「光なる方」が闇の中に、まるで全権大使の如くに遣わされる時、一体何が起きるのでしょうか?また遣わされる訳ですから、その方には必ず重要となる、ある「目的(ミッション)」があります。しかし「その時」、闇の中には①「光なる方」を受け入れる者、または②「光なる方」を拒絶する者、この二種類に分たれます。


 先回学んだことですが、創造主なる神の天地創造における、「神の秩序(統治)」の第一原則は、混沌とした大地の上に、神は先ず「光」を置いた(set)ことです。そして「光」が置かれた瞬間に、闇は追いやられる(退散する)存在になったのです。私たちは、この「神の秩序」の第一原則を、信仰の歩みの最大標語として、常に掲げる(或いは告白する)必要があります!


 さて今回、私たちが学ぶべき第一の重要ポイントは、「神の秩序(統治)」の第二原則として、創造主なる神は「光なる方」を、闇に支配された領域(悪しきフィールド)の、隅々に渡って遣わされる(send)ことです。この場合の「遣わす」とは、実際に「人の子」として、この世に送り出す訳ですから、そこには重要な「任務(使命)」がありました。即ち「光なる方」は「人の子」として、イエス・キリストという「救い」の御名を帯び、彼は全ての人と共にある方、インマヌエルの神として地上に来られたこと、これが「光」のミッションです。


ヨブの「光」に対する理解
 今回の御言葉に登場するヨブは、「光」と「暗闇」に関する、創造主なる神の普遍的「秩序」を、いつも信仰を働かせて確認していました。即ち「暗闇」に生きる人々の中に、「真実の光」が遣わされる時には、必ずそこには偉大なる神の、「栄光の御業」が現れ出る訳ですが、「真実の光」を受け取る者と、逆に頑なに拒み続ける者という、二種類の生き方があることを、ヨブは理解していました。


 私たちは「暗闇」という概念を、三次元的に知ってはいても、霊的に正しく捉えることが出来ません。例えば「今の時」が、まさしく暗中模索の如き、正しく理解できない程の、「暗闇」に覆われていると言えるでしょう。多くの人々が「その時」、別の道を求めるなどして、「肉の力」を頼みとして彷徨いますが、それがサタンの仕掛ける「罠」であることに、全く気付いていません。


 しかし覚えて下さい!その方が遣わされる時には、「心配(不安)」や「恐れ」が全く無い次元の中で、私たちは「正しい道」へと、安心して歩むことが出来るのです。何故なら、その方の持つ「偉大なる光」が、私たちの前(先)を、必ず照らし出して下さるからです。


 今回の御言葉を詳訳しますと、「主なる神は、まるで死の如き、闇が覆う全ての世界(場)の中に、光を遣わされる。」となりますが、この御言葉には明らかに神の「意図(目的)」が、霊的に浮かび上ってきます。即ち私たちが如何なる状況下にあっても、「真実の光」なる方、御子イエス・キリストが、私たちと共に歩む為に必ず遣わされるのです!


 ところがヨブは「何故、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(ヨブ記3章20節)と、不信仰の言葉を吐いていますが、創造主なる神が「真実の光」を、労苦する者に対しても、「天の恵み(賜物)」として与えて下さる、その明らかな「意図(目的)」を、彼はこの時に見失っています。にも関わらず彼は、次の「神の事実」は知っていました。つまり「真実の光」は、常に(如何なる時にも)遣わされている!ことを。


 さて「言(御言葉)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1章4~5節)の御言葉には、「光」の働く目的が、「命」そのものを生み出す、明らかな神の「御心の源泉(意図)」であることを示しています。神の言葉には、当然のことながら「命」があります。しかし「命」そのものを生み出す為には、主なる神が「光」に対して、暗闇の中に登場して(置かれて)、実際的な「働き」を遂行すべく、闇が覆う全ての世界(場)の中に、遣わされる必要がありました。


 ここで覚えておくべき、即ち私たちがヨブ同様に、常に知っておくべき重要な奥義は、私たちが「命」ある者として、「この世」に産み出される以前より、「真実の光」は全ての人の為に、等しく遣わされている!ということです。これが創造主なる神の不変的な「意図(目的)」です。これを知る者は、たとえ苦しみ嘆くことはあっても、「闇」そのものを決して恐れません。何故なら、私たちは「真実の光」と共に、前(先)を目指して進み行く存在だからです。神の言葉の中に「命の光」があり、この「光」が全ての人に、豊かに与えられ(遣わされ)ていること、これが神の創造の秩序における、偽らざる「意図(目的)」です。


二種類の反応
 今回の御言葉の第二の重要ポイントは、「真実の光」が暗闇の中に遣わされる時、人々は如何なる反応を示すのか?という点です。第一の反応は①「待っていましたー!」と、素直に「光なる方」を喜び迎え入れる人、そして第二の反応が②「いや結構です!私は既に自分の光を持っていますから。」と、あからさまに拒否して受け入れない人、この二種類に分かれます。このタイプの人々は、「終わりの時代」に特に増加しています。


 第一のタイプの人々は、ヨブが告白したように「私は暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めているのに、何故、滅ぼし尽くされずにいるのか」(ヨブ記23章17節)、即ち詳訳しますと「たとえ闇が私を盲目にしたとしても、私が恐れるのは闇そのものではなく、神だけを畏れるのである!」という生き方(信仰姿勢)です。この御言葉には、「光」という言葉は用いられていませんが、神が暗黒の「真の支配者」として治め、ヨブ自身の中に「光」の存在が、明確な臨在をもって遣わさてれいる!ことを、彼は知っているからこそ、あえて用いる必要が無かったのではないでしょうか。


 それに対して第二のタイプの人々は、ヨブが紹介しているように「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序は無く、闇がその光となる程だ」(ヨブ記10章22節)、つまり「闇の王国」に生きる人々を描いています。詳訳しますと「そこは暗黒だけの地、また光無きフィールドであり、混乱たけが支配している。そこにおいて人の光(偽りの光)自らが、暗黒となっている。」となります。「暗黒」に生きる人々が、何故「真実の光」を拒むのか?その理由は、自分の中には既に「光(イルミナティ)」がある!と信じているからです。


 またヨブは「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず、光の射すところに留まろうともしない。・・・・(彼らは)暗黒に紛れて家々に忍び入り、日中は閉じこもって、光を避ける。このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。」(ヨブ記24章13~17節)と、更に彼らの「闇」に生きる特質を描きます。しかし結局のところ、彼らの生き方は「光も無く、彼らは闇に手探りし、酔いしれたかのように彷徨う」(ヨブ記12章25節)だけです。


 結論になりますが、創造主なる神は忍耐の限りを尽くして、今も尚「光なる方」に対して、「我が独り子イエスよ、あなたをインマヌエルの神として、闇に覆われた地上に遣わす!あなたを通して、漏れること無く全ての人々が、真実の光の元に回帰し(立ち返り)、私が用意する新しい天と地に凱旋して来ること、これをあなたに託す。」と下知しておられます。


 それ故に「あなた(私)」が、多くの人々が神の「救い」、即ち真実の「光なる方」の元に立ち返ることを、日々聖霊様の導きの中で、忍耐の限りを尽くして、祈り続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月14日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村

Terminal Faith(No.28)

        「この時」の為にあなたは




この王(ファラオ)は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにした。この時(の為)に、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後・・・・ファラオの王女が・・・・自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、素晴らしい話や行いをする者になりました。
                         【使徒行伝7章19~22節】


あなたは「神の器」である!
 私たちは私たちは「モーセ」程の器ではありませんが、聖霊様を通してモーセ同様に、素晴らしい「働き」が用意されています。その「働き」とは、神の偉大なる「救い」を現わす(表明する)ことです。そうです!「あたな(私)」は神にとって、「待っていたー!」と言わしめる程の、霊的に重要な「秘密兵器(戦いの器)」です。


 今回のステパノのメッセージは、端的に言えば「モーセの如くに、あたな(私)はその(この)時、必ず召し出されて行く!」ということです。今回私たちが学ぶべき、第一の重要ポイントは、「主イエス・キリストは、私たちの如き弱き小さな器であっても、輝き続ける真鍮として、私たちを今も尚、霊的に磨いて(訓練して整えて)下さっている!」という点です。


 しかしサタンの場合は、イエス・キリストの私たちに対する「働き」や、聖霊様の霊的「取扱い」というものを、常に忌み嫌い恐れています。この点に関して、モーセの出生した時代と、今の時代とをリンクする時に、霊的には非常に似通った事が起きていると言えます。


「モーセの時代」と「今の時」
その頃、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配して、国民に警告した。「イスラエル人という民は・・・・あまりにも数が多く強力になり過ぎた。・・・・これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば・・・・この国を取るかも知れない。」エジプト人はそこで、イスラエル人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。・・・・しかし、虐待されればされる程彼らは増え広がったので、エジプト人は益々イスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し・・・・重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
                      【出エジプト記1章8~14節】


 今の時代に、ファラオの如き暴君(独裁者、君主)は見受けられませんが、世界中の至る所において、同様の経済的圧政により、一般の人々が苦しんでいます。特に日本国は、殆どの日本人が気付いていませんが、他国と比べて所得レベルにおいて、奴隷の如き扱いを受ける程の、労働条件下にあると言っても過言ではありません。


 モーセが出生した頃の時代は、過酷を究める労働条件下のもと、恐らく「安息日」において、十分な休息(疲労回復)を得られない程、疲労しきった六日間(労働時間)が、イスラエルの人々に科せられました。今の日本はどうでしょうか?「ダブルワーク」や「トリプルワーク」が、当たり前の時代になっています。給料が少し増えても、税金ばかりが増えている為、何となく着ぐるみ剥がされた、奴隷の如き感覚です。この状態は、霊的に言えば「世の奴隷」です。


 しかし私たちキリスト者には、確かな「希望」があります。『出エジプト記』の歴史的事実と同じレベル、否!それ以上の神の「栄光」の訪れの時が、いよいよ目前に迫っているなど、直前の時代に生きているからです。故にサタンは恐れるのです。サタンが恐れる次元は何なのか?この点について、私たちが霊的に熟知していれば、私たちの主イエス・キリストこそが、私たちの先を行かれる、「真実な方」である!と、明確に信仰表明できるのです。そうです!私たちは「世の奴隷」ではなく、「キリストの証人(大使)」として、常に勝利できる「自由人」です!


サタンが恐れる三つの次元
 サタンが恐れる次元は、先ず①イスラエルの成長が、いずれ脅威となること、即ちキリストを信じる民が増加し、不屈の信仰スピリッツに立つ、信仰者が拡大して行くことを、サタンは恐れるのです。私たちの信仰が成長すればする程、イエス・キリストを土台(信仰の礎)とし、イエス・キリストの揺るぎ無き、真実の愛の中に生きる者は、何者をも恐れなくなる、だからサタンは「不安」、そして「恐れ」と「疑い」をもって、私たちの「霊」を支配しようと試みてきます。しかし、私たちキリスト者は気付き始めました。今の時代が、いよいよ「終わり」の時を告げ、偉大なる神の御子、イエス・キリストの足音が近付いていることを。それ故に、私たちは「賢い花嫁」として、更に信仰心が増し加わることを、切に待ち望む訳です。


 サタンが続いて恐れる次元は、②霊的に目覚めた「真のキリスト者」の数が、リバイバルを通して急激に増加することで、悪しきサタンの支配(勢力)圏が、益々縮小化して行き、最終的に支配権を失うことです。第三に恐れる次元は、③イスラエル民族を屈服させることで、「エジプト国家」に頼らなければ、もはや生き永らえることが不可能という、不信仰レベルにまで貶めたい所を、彼らは決して妥協しない!つまり「世の君」に膝を屈めようともしない!不動の生き方、即ち「天の国家」に国籍を置く姿勢(生き様)に対して、サタンは極端に恐れるのです。


 ですからサタンが、具体的に私たちに対して迫害する手順は、先ず①何の理由も無く嫌悪する(12節)こと、続いて②世の人々よりも酷使する(13節)こと、最後に③私たちの生活を脅かして妥協させる(14節)こと、この三つのプロセスです。このプロセスに対して、尚も抵抗するキリスト者に対して、サタンは最終的な迫害として、抹殺(処刑)という方法をもって、正しきキリスト者の群れ全体を、霊的に浄化しようとします。


「この時」の為にあなたは・・・・
 しかし私たちは、次の偉大なる奥義を覚えておきましょう!私たちはモーセの如くに、神の「救い」の初穂として、今の「この時(時代)」の為に遣わされているのです。「この時にモーセが生まれた」(使徒行伝7章20節)とは、「大迫害という大変な時代の中にあっても、主なる神はモーセを、まさにこの時の為に遣わして下さった!」と、ステパノは強調した表現をもって、今に生きる私たちにも、メッセ-ジを投げかけているのではないでしょうか。


 そうです!神が定めた「この時」の為に、あなた(私)は生かされ、世(エジプト)に遣わされているのです。また信仰に磨きがかかるべく、霊的に訓練されいるのです。母ヨゲベドは、我が子モーセが生まれ、その子を見た瞬間に、赤子から放たれる顔の輝きが、今まで見たことの無い程の、神の麗しい①品性(聖さ)と、②神の「御心(ご計画)」となって、滲み溢れ出ていることに、思わず「何とこの子は立派な赤ちゃんだこと!」ともらし驚愕したのです。それ故にモーセを「敵に渡してたまるか!」と、信仰をもって隠したのです。


 私たちは自分の「今の姿(生き方)」を見る時、「小さな(弱き)器」と過小評価しますが、聖霊様はその時、次のように叱咤激励します。「創造主なる神から見て、あなたは何と麗しい、神のご計画が満ち溢れた器か!」と。そうです!私たちは「後の大収穫」の為に用意される、立派な(優れた)収穫人です。だからこそ「今の時」、私たちは聖霊様を通して、朝起きた時から聖書の御言葉に精通し、行動においても信仰が満ち溢れるよう、日々霊的に訓練されているのです。


 神の「救い」は、今の「この時」の為に、モーセの時代と同様に、偉大なる神の素晴らしい「現れ(臨在)」となって実現します。そういう意味で私たち日本人は、決して「滅び」に至る民族ではなく、むしろ神の「栄光」の訪れの時を、更に大胆に語り伝える「立派な(優れた)収穫人」として、今召し出されている民族です!


 ペテロは私たちキリスト者に対して、「あなた方は、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受ける為に、神の力により、信仰によって守られています。」(Ⅰペテロ書1章5節)と、力強く記していますが、この御言葉にある「守られている」とは、「その時」の為に、私たちが抱く「不安」と「脅威」、また「妬み」の全てを、完全に取り除くことの出来る、神の偉大なるバリヤー(守り)が満ち溢れている、即ち私たちの信仰の「歩み」において、神の「安全(安息)」が維持されていることを意味します。


 故に、私たちは霊的に「今の時」のモーセ(神の器)として、世(エジプト)に遣わされているのです!また、いずれ来る「その時」には、世から脱出する(引き挙げられる)のです。そういう意味で私たちには、多くの民をカナン(新しい天と地)へ連れ上る、天の責務(ミッション)が課せられているのです!


 いよいよ訪れる、霊的な大収穫の「その時」の為に、あなた(私)が更に召し出され、かつ「立派な(優れた)収穫人」として、聖霊様を通して日々訓練されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月1日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村