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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.30)

「過ち」を繰り返さぬ為に




この人(モーセ)が・・・・四十年の間、荒れ野でも・・・・人々を導き出しました。この人が荒れ野の集会において・・・・天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造ったのはその頃で・・・・自分たちの手で造ったものを祭って楽しんでいました。・・・・それは預言者の書にこう書いてある通りです。「イスラエルの家よ、・・・・お前たちは・・・・モレクの神輿や・・・・ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、私はお前たちをバビロンの彼方へ移住させる。」
【使徒行伝7章36~43節】


「過去」から学び、どう生かすのか?
 私たち人間は、「過去」における数々の失敗を、歴史的教訓として学んだにも関わらず、同じ失敗を繰り返すところがあります。特に今の「終わりの時代」にあっては、霊的イスラエルの民である、私たちキリスト者の全てが、過去の「失敗(過ち)」を繰り返さぬべく、来たる霊的「戦い」に向け「いざ出陣!」と、身を慎んで備えるべきところでしょうが、世界的な「災い」と、迫り来る世界大戦の如き「戦争」の足音に、逆に震え慄くキリスト者も増加しています。


 しかしステパノが、今回の御言葉を通して、今に生きる私たちキリスト者に対して、激しくメッセ-ジを投げかけている理由は、アダム(エバ)の子孫である以上、私たちも「過ち(罪)」を繰り返す、その可能性が「いつでも有り得る!」と、神の御前に謙虚に生きる為です。そうです!私たちは「今」主なる神から恵みを賜っても、「数分後」には(戴いたことを)すぐ忘れて、別のものを求めるなど、神ではなく「他のもの」を追い求める、霊的に姦淫し易い「罪の性質」があります。


 ステパノは明確に、私たちが過去の「過ち」を、現在及び将来において、再び繰り返さぬ為に、私たちが今置かれている霊的ポジションを、いつも謙虚に受け留めながら、「助け主」聖霊様の導きに、素直に聞き従うこと、即ち①私たちの一歩「先」を行かれる、主イエス・キリストの「足跡」を確認し、②主イエス・キリストに全てを委ね、③主イエス・キリストから差し伸べられた、その御手を私たちは掴んで行くなど、信仰の「一歩」が重要であることを訴えています。


「荒れ野」における学び
 ステパノのメッセ-ジには、主なる神は各時代ごとに、「神の民」であるイスラエルに対して、先見者を遣わしている、例えば信仰の父アブラハム、前もってエジプトに遣わされたヨセフ、またその後エジプトの圧政下から開放すべく、モーセを選び召し出して、偉大なる民族大脱出を図るなど、その神の歴史が記されています。そこで今回私たちが学ぶべき、第一の重要ポイントは、私たちもモーセ同様に、霊的な「荒れ野(砂漠)」を通過させられること、そしてそれには正しい「理由(意味付け)」があります。


 ステパノはその理由を「天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれた」(38節)と述べていますが、第一に①モーセは「仲介者」として、即ち主なる神と民の間を取り持つ、代弁者(取りなし手、和解の使者)というポジション、次に②「神の言葉」を命を懸けて受け取る者、即ち「大祭司」としての雛型(立ち位置)、そしてこの二つの霊的ポジションをもって、③今通過させられている「荒れ野」において、創造主なる神の「偉大さ」を学び、あまねく知らしめる(伝える)為です。


 「けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造った」(39~41節)、つまりイスラエルの民は「荒れ野」において、神から遣わされた「先見者」モーセを侮り、その語る「言葉」と「指導」に対して、ことごとく反抗しました。その理由が「荒れ野」における、神の偉大なる「導き」を尊ぶのではなく、逆に「エジプト(この世)」を懐かしく思って、再び慕い求め始めたからです。


 彼らの犯した「過ち」は、具体的に四つあります。第一に①従うことを拒絶しました。第二に②先見者の指示を後回しにしました。第三に③過去(エジプト)を振り返って、そこに戻ることを求めました。最終的に④唯一の創造主ではなく、自らが鋳造した「偶像(金の小牛)」に、膝を屈めて礼拝したことです。その結果、彼らは「約束の地」に辿り着くこと無く、「荒れ野」にて死に絶えました。


 ところで今に生きる私たちも、彼ら(イスラエルの第一世代)同様に、霊的に死に絶える存在なのでしょうか?否、今の新約の時代においては、イエス・キリストが和解の「先見者(救い主)」として、既に遣わされています!イエス・キリストは、私たちが「過ち」を繰り返したとしても、真の「助け手」なる聖霊様を遣わして下さり、私たちの「歩み」を正すべく、「荒れ野」において訓練し、かつ聖別して下さいます。そして私たちが最後の一歩、つまり御国へと凱旋する「その時」まで、丁寧に付き添って下さいます。


「過ち」を繰り返さぬ為に・・・・
 では、私たちが「過ち」を繰り返さぬ為には、どうすべきでしょうか?具体的には、一つ一つの「過ち」に対して、①どう受け留めて(自らのミスや失敗を真摯に認めて)、次に②どうしたらそれを防ぐことが出来るか?を熟考(分析)し、最終的に③「過ち」を犯す手前で、それを回避する「手立て(対策)」を構築することです。しかし、これらの三本柱では足りません。人は「過ち」を忘れる!という、愚かな習性があるからです。


 不信仰に走った彼らは、最終的に「金の小牛」を造り上げ、それを担いで歩くことを実践しました。これは全て、近隣の諸民族が為していた、偶像礼拝のシンボルであり、特にモレク神やライファン神などは、「牡牛」の顔(頭部)を造形化しています。これはサタン礼拝(悪魔崇拝)の象徴です。実は、この悪魔崇拝の儀式は、今も尚盛んになりつつあり、歴史的に継続して行われています。


 ここで覚えて戴きたいことは、私たちが悪魔崇拝を為すことはありませんが、私たちの霊的生活の「流れ」の中に、神の「促し」や「取扱い」があるにも関わらず、それを隅(脇)において、自分の肉の「計画」や「判断」を優先して行きますと、いつしかそれが「金の小牛」になるのです。しかし次々と迫り来る「試練」において、主なる神は私たちに対して、唯一崇めるべき方(救い主)、「イエス・キリスト」を示して下さいます。


 キリストの花嫁である、エクレシアを監督される方は、今の「先見者」聖霊様であり、そのエクレシアの長(頭)は、牧師という「人」ではなく、神の御子イエス・キリストです!イエス・キリストが、エクレシアの大幹(主権者)として、ここ(神の選びの地)に打ち立てられている以上、私たちはイエス・キリストの「枝(パーツ)」です。


 私たちが「過ち」を繰り返さぬ、最終的かつ最善の方法は、次の御言葉に要約されます。「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠も無く思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節(ふし)と節(ふし)、筋(すじ)と筋(すじ)とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ書2章18~19節)


 この御言葉に示されているように、私たちが大幹なる主イエス・キリストに、しっかりと結び合わされている限り、神の御体の監督である聖霊様を通して、私たちの中にある不要な部分は、その都度霊的に剪定され、大幹の元でバランス良く成長し、「小枝」から「大枝」として形造られて行きます。


 仮に私たちが、肉(魂)的に信仰を働かせて行きますと、例えば様々な「幻」を見たり、預言的な「しるし」などに、次第に精神(感情)的に倒錯するなどの、霊的な「罠」に陥る可能性があります。この種の思考(判断)は、悪魔サタンがもたらす「思い上がり(高慢)」です。一番大切(正常)な思考(判断)は、「自分が常に、しっかりと大幹につながっていなければ、枝に過ぎぬ自分は何も為し得ぬ!」という、真実の謙遜です。


 つまり「主人(大幹)」を超えて(離れて)は、「しもべ(枝)」として成り立たない(存在しえない)ことを、常に意識する信仰姿勢が大事です。そうです!私たちが「過ち」を繰り返さぬ為に必要なことは、一にも二にも主導権を聖霊様に委ねつつ、主なる神が毎日与えて下さる「命の言葉」を、自分の「命」に優るものとして、激しく慕い求めて行くことです。


 どうぞあなたが、今置かれているポジションを、聖霊様を通して何度も示して戴き、「主よ、私の先にあるものは何でしょうか?仮に人間的なものであるならば、それらは全て偶像です。私が一番に慕い求めるものは、主イエス・キリストよ、あなたの麗しい御顔と、その唇から語られる命の言葉です!」と、心から祈り求めて行くことの出来る、賢い乙女として聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月29日のメッセ-ジ)


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特別メッセージ

          今、何かが起こる!




世界の只中、諸民族の間で、オリーブを探して打ち尽くすような事が、収穫の後に尚、ぶどうを探すような事が起こる。彼らは声を上げ、主の威光を喜び歌い、海から叫び声を上げる。それ故、あなた達は東の地でも主を尊び、海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れあれ」と。
                                 【イザヤ書24章13~16節】


「2024年」の初めに・・・・

 2024年の初めに起きた「能登半島地震」に関して、「終末の時代」に生きる私たちは、霊的に如何なる「捉え方」を為すべきでしょうか?三次元的には、想像を絶する広範囲の自然災害ですから、それは巨大な「災い」と捉えがちですが、このことを通して、偉大なる神の「贖い」のご計画が、日本民族に事前(既)に用意されている!と、信仰をもって捉える時に、驚くべき、かつ不思議なる「神の事実」が、その中に見出されるのではないでしょうか!


 然り!今の「悪しき時代」の中にあって、霊的な「エジプト(この世)」に向けて、神の「使徒」として私たちが出陣する時に、「モーセ」や「ヨシュア」の如くに、川や海に向かって「神の偉大なる救いの御業よ、直ちに現れ出よ!」と、信仰をもって命じる時、必ず何かが起こる!のです。創造主なる神が、あなた(私)の「前(先)」を進み行かれる時には、神の偉大なる御業を見て、救われる(贖われる)人々の為に、神の「しるし」が必ず前兆として現れ出るからです。


 そういう意味で、日本民族は神の「救い」から、決して見放されていません!神の「贖い」が、必ず今回の巨大地震を通して、日本民族に用意されています。今回の御言葉にある「海の地」と「東の地」とは、何処の国を指しているのでしょうか?いずれ来たるであろう、世界の「終焉の時」に、私たちはイスラエル国家から見て、つまりイスラエルを中心とした地図上では、「東の地」か「地の果て」にある極東の国々の一つでしょう。


何かが必ず起こる!
 今回の御言葉から学ぶべき、第一の重要ポイントは、「海の地」と「東の地」において、必ず「何」かが起こる!という点です。「その時」に主なる神によって、召し出された二つのグループの一つ、即ち「海の地」に暮らす人々が、偉大なる神の御業を称えるべく、喜びの叫びを上げ始めます。続いて「東の地」に暮らす人々、彼らは四方を海に囲まれながら、同じように神の「救い」を喜び称えるのです。


 然り、偉大なる神の「救い」の御業が進み行く時、私たちはヨシュアに引率された、イスラエルの第二世代の如くに、「祭司グループ(レビ人)」を前衛に配置し、神の御名を称えながら、共に信仰をもって前進するのです!そうすれば「何」かが起こり始めます。「この世」においては、悪しき事が次々と起きます。しかしそれ以上に、神の偉大なる「救い(贖い)」の御業が、必ず起こるのです!


 第二の重要ポイントですが、最終的に「地の果て」(16節)から、何が聞こえてくるのでしょうか?それは「一番遠くにあり、何の魅力も無い土地に暮らすグループ」からも、イスラエルの賛美を「住まい(住処)」とされる、主なる神の「正義」が、如何に素晴らしいものであるのかを、花婿を待つ花嫁のように喜び称える大音響、即ち「賛美(歓喜)」の叫び声です。


 そうです!私たちは「地の果て」に至るまで、「キリストの証人」として、イエス・キリストの「救い」の福音を携え、父なる神の御名を高らかに称える、霊的イスラエル人でもあります。そしてイスラエルから見て、私たち日本民族が「地の果て」に暮らすグループですから、ここ(日本)から大リバイバルと共に、賛美の大号令が発せられる時、いよいよクライマックス(何かが起こる時)を迎えるのです。


主を賛美する為に創造された
 「国々は主の御名を恐れ、地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。主はまことにシオンを再建し、栄光のうちに顕現されます。主は全てを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。後の世代の為に、このことは書き記さねばならない。『主を賛美する為に民は創造された。』主はその聖所を、高い天から見渡し、大空から地上に目を注ぎ、捕われ人の呻きに耳を傾け、死に定められた人々を、解き放って下さいました。シオンで主の御名を唱え、エルサレムで主を賛美する為に。諸国の民は一つに集められ、主に仕える為に、全ての王国は集められます。」(詩篇102篇16~23節)この御言葉の中に、主なる神が最終的に、ご自分に従う民を如何にして集められ、如何なる形で「栄光」の訪れを実現されるのか?その方向性が描かれています。


 その全ての鍵は、イスラエルの民にある訳ですが、彼らが回復する為には、先ず第一に①「海(西の地)」と「東の地」、そして「地の果て」に生きる、霊的「イスラエルの民(キリスト者)」が、一つに集められる事が前提です。続いて②「主を賛美する為に民は創造された。」(19節)の御言葉にあるように、常に(いつも)共に居て下さる、創造主なる(霊的な父である)神を、聖霊様にあってキリストと共に、偉大なる創造の御業を賛美(礼拝)する為に、私たちは創造されていること、これが霊的回復の「礎(いしずえ)」です。


 パウロを収監したローマの看守長は、ある時突然に襲った巨大地震により、収監施設の大部分が崩壊している、その大惨事を見た瞬間に、「あ!もう駄目だ。囚人たちの生き残りの殆どは、この出来事により脱獄したはずだ。私は責任を取って、自決あるのみ!」と判断し、すかさず剣を取って自決を試みました。しかしその瞬間、「待ちなさい!看守長の方。私たちは全員生きて、一つ同じ所に居る!」という、堂々とした男性の声が聞こえ、彼は思いとどまりました。


 彼らは何故、脱獄という最大のチャンスを、この時為さなかったのでしょうか?それは偉大なる神の御業が、パウロを始めとする使徒たちの歌う、その賛美の中に豊かに現れ、他の囚人たちも共に賛美を捧げていたからです。ですから、たとえ外部的に何かが起きても、彼らの捧げる礼拝の空間には、物理的損害(破壊)は何も無く、むしろ神の「栄光」のみが、彼ら全てを覆い尽くし、神の「贖い(救い)」が出現していたのです。


 それを確認した看守長は驚愕し、その場に座り込み、一言パウロに乞い願いました。「(私たちが)救われる為には、どうしたら良いのですか?」と。今の日本人は霊的に見て、この看守長と何ら変わり無き、霊的な縛り(収監状態)にあります。しかし私たちには、何故パウロ同様の「自由」があるのでしょうか?この世の「縛り」から解放されている、その最大の理由は「私たちはマモン(経済的に縛る偶像)の霊に仕える奴隷ではなく、イエス・キリストの贖いにより、逆に悪霊をことごとく縛ることの出来る、聖霊様に仕える自由を与えられている「神の子」だからです。


 すかさずパウロは、看守長の「霊」に対して、神の御声(福音)を届けました。「主イエス・キリストを信じなさい!そうすればあなたも、あなたの家族も、全員が救われ(贖われ)ます。」と。この奇跡の出来事(神のイベント)は、過去の物語ではなく、この日本にも必ず起こります。そうです!私たち日本人も、創造主なる神を賛美(礼拝)する為に、益々贖われて行くのです。それ故に、如何なることが「世」に起きたとしても、「神の事実」のみが日本を救い、偉大なる神の「救い」が、「地の果て」に生きる日本人の上に、豊かに現れ出ることを、純粋に信じて祈り続けましょう。


 結論になりますが、今回の記事の16節の後半以降において、「何かが起こる!」ことを、イザヤは霊的に描いて(預言して)います。「(神の裁きの後に)万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現わされる時」と。つまり主イエス・キリストの来臨の前には、あらゆるもの(大地、社会全体)が、次々と揺り動かされることで、「災い」に呑み込まれ破壊されるグループと、神の「救い」にあずかる看守長グループの、二つに選り分けられる!ことになります。


 いよいよ2024年から、神の偉大なる「救い」の御業が、この「(東の)地の果て」にある日本において、必ず現れ出ることを、信仰をもって期待して、祈り備えて行きましょう!私たちの乗船する「日本丸」が、正しい舵取りを為し、真の創造主なる神、王の王なるイエス・キリストに、忠実に従うことが出来ますように。また真心から「救国」を祈り求めて、新しい「天」と「地」を受け継ぐ、「地の果て」の神の栄光が、豊かに現れ出ることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月21日のメッセ-ジ)


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Terminal Hope(No.4)

       今、「光」は輝いている!




光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。・・・・
                       【創世記1章5節】


主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じる程にしなさい。」モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分の居る場所から立ち上がることも出来なかった。イスラエルの人々が住んでいる所には何処でも光があった。
                      【出エジプト記10章21~23節】


第三の「秩序」
 「真実の光」の源なる方、主なる神の栄光の訪れには、神の創造の第三の「秩序」として、「輝きを投じ、輝きを与える」為に働くこと、この素晴らしい役割(ミッション)があります。然り、輝く為に光は存在します!ところで創造主なる神は、ご自身が大地と定めた(領域区分した)、光が投じられるフィールドのことを「昼」、そして光が投じられないフィールドのことを「夜」と、それぞれに命名した訳ですが、この「夜」の暗闇が去った後に、必ず「昼」の輝きが訪れる時代、それがまさしく「今の時」かも知れません。


 創造主なる神の栄光の「輝き」は、最初のアダム(エバ)の創造を通して、偉大なる神の御業が一旦は開始されました。しかし、彼らが「暗闇の声」を聞いた(受け入れた)が故に、「真実の光」の拡大が終了したように見えましたが、主なる神はそれを「良し!」とはされず、むしろ彼らの「失敗」を通して、神の「救い(贖い)」の次元を、新たに開始する(切り開く)ことになります。


光の「輝き」が臨む時
 では主なる神は、具体的に「真実の光」の輝きを、どのように臨もうとしておられるのか?それが今回の記事から学ぶべき、第一の重要ポイントです。「神の事実(歴史の流れ)」としては、「真実の光」なる御子イエス・キリストが、天の御国に還って行かれた訳ですから、私たちが神の光の「輝き」を「どのように運べばよいのですか?」などと思って、中々進み行くことが出来ないかも知れません。


 しかし、イエス・キリストは昇天される直前に、不信仰に悲嘆する弟子たちに対して、偉大なる預言的勅令(遺言)を宣言されました。「しかし聖霊が、あなた方の上に降られる時、あなた方は天よりの力を必ず受ける!その時から、あなた方はエルサレムに始まり、果ては地の隅々に至るまで、(死から復活し、今も尚生きて働く方)、然りイエス・キリストの証人となる!」と(使徒行伝1章8節参照)。この御言葉には、「輝き」という言葉は用いらていません。しかし私たちは、次の「神の事実」も知っています。即ち、バプテスマのヨハネを通して、イエス・キリストが洗礼を授かった時に、聖霊が降って来て、彼の上に留まった、まさに「その時」、イエス・キリストの御顔に、天上の「輝き」が灯された(臨んだ)!ことを。


 そういう意味で、モーセの時代に起きた神の「栄光」の訪れ(輝き)を、私たちが霊的に学ぶことで、①私たちが最終的に何処に向かって進んでいるのか?②私たちが「輝き」を戴いた以上、誰に対して「輝き」を届けるのか?この二点について、私たちは正しく知る必要があります。


闇が臨むとは?
 神に反抗し続けるエジプトに対して、主なる神は偉大なる創造の御業を、この時のモーセに託しました。「あなたの杖を握る手を天に挙げよ!そして命じなさい。『闇よ、エジプト全土に臨め!』と」。モーセはその瞬間、思わず驚愕しながら問います。「え!その闇って何ですか?」と。すかさず聖霊様は、躊躇するモーセに命じます。「あなた方の考える闇(夜の闇)ではない!それは手に掴むこと出来る闇であるが、あなた方には決して追い払うことの出来ない闇である。その闇が臨む時、恐怖のみが全てを支配し、暗闇の中で身動きが取れない程の、まるで凍り付いた状態に、全てのものが闇に縛られる。だからあなたは信じて、ただ一言、闇に命じなさい!」と。


 モーセの「唇」を通して、全能なる神が遣わした(送った)「闇」が、エジプト全土に放たれた瞬間、国家として成り立たなくなる程の、絶望(国土壊滅)的状況が出現しました。しかも「三日間」だけ。しかしエジプト国民は、この「三日間」を耐え切ることが出来ませんでした。恐らく「闇」が臨み始めて、数時間経っただけで、「もう駄目だ!我々には死あるのみだ。」などの、絶望的な心理状況に追い込まれました。


輝き続けたイスラエルの民
 しかしイスラエルの民の中(生活環境)には、創造主なる神の「真の光」が、更なる「輝き」を伴って、燦燦と照らし続けたのです。これが第二の重要ポイントです。ですから彼らは、「平安」から「平安」へと導かれ、敵(ファラオ勢力)からの「罵り」と「嘲り」などの迫害は、この「三日間」一切ありませんでした。そうです!この時から彼らの「霊」から、「恐れ」「不安」「悲しみ」などの暗闇の次元が、完全に追い払われました。神の偉大なる「光(栄光)」の次元だけが、彼らの全てを覆うことになったからです。


 私たちの生きる「今の時」にも、この時の神の奇跡の「輝き」が臨んだとしたら、どれ程の素晴らしい、「キリストの証人」としての御業が、全てに満ち溢れることでしょう!私たちは彼ら同様に、神の栄光の訪れを体験し、聖霊様は神の「真実の光」、即ちイエス・キリストの品性を、霊的に帯びる(着せられる)証人、即ち光輝く「神の器」に仕立てられるのです。


 「今の時」は、イエス・キリストの再臨を、激しく飢え渇き求めて準備している、真の花嫁(賢い乙女)の「祈り」を通して、「三日間」どころか、イエス・キリストの来臨の時まで、神の「真の光」が、更なる「輝き」を伴って燦燦と照らし続ける、最終の時代に入っています。


 結論になりますが、神の「真実の光」の輝きが行き着く先、即ち「最終ゴール」は、何処にあるのでしょうか?「もはや、夜は無く、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕(しもべ)たちを照らし、彼らは代々限り無く統治するからである。」(黙示録22章5節)この御言葉を詳訳すると「もはやそこには、夜と呼ばれているものが一つも無く、彼ら(キリストを信じる者たち)には、灯や昼の光が不要である。何故なら、主なる神が彼らの光となって、彼らは永遠から永遠へと、神の支配の中で生き永らえるからである。」となります。


 この御言葉には明確に、「昼」という状態が必要なく、神が用意される新しい「天」と「地」において、如何なる「最終形」で、「真実の光」が完成される(ゴールを迎える)のか、その方向性(真実の終着点)が描かれています。結論から言えば、私たちは「真実の光」に覆われ、完全に「真実の光」と共に生きる、即ち聖なるキリストとの「一体化」が、聖霊様の最終仕上げのもと、御国の婚礼式典の時に成就(完成)します。そうです!私たちは「真実の光」の輝き、そのものの中に包まれ、真の「輝き」に覆われる存在、即ち新しい体(キリストの花嫁)として、父なる神が用意した、新しい「天」と「地」を受け継ぐのです。


 何故なら私たちには、イエス・キリストを長子とする「神の家族」として、当然の「報い(相続)」を受け取る、素晴らしい特権が付与されているからです。神の「真実の光」の輝きが、ゴール(終着点)に辿り着いた時に、その麗しい「輝き」の称号として、私たちは「キリストの花嫁」と呼ばれることになります。


 「偽りの光」を放つ悪魔サタンは、益々この世の権力者に働きかけて、多くの人々を支配し苦しめます。だからこそ私たちキリスト者は、「肉の戦い」ではなく、「霊的な戦い」へと、更に聖霊様を通して駆り出されるよう、益々祈り求めて行きましょう!真の「輝き」を、永遠に灯して下さる創造主なる神の、新しい天地創造の最終的的な「秩序」の完成が、いよいよ目前に近付いています。


 そうです!私たちは、主イエス・キリストの「来臨の時」に備えて、熱心に倦むこと無く祈り続けましょう。イエス・キリストの偉大なる「輝き」が、全地に満ち溢れて拡大するよう、私たちは更に召し出されて行くのです。暗黒の冬の時代は、間もなく「終わりの時」を告げます。イエス・キリストの近付く「足音」が、更に大きく響き始めた「今の時」に、あなたがイエス・キリストの、「真実の光」の輝きを放つ者として、聖霊様を通して更なる「祈り」に専念できますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月28日のメッセ-ジ)


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