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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.26)

       「放浪」を経た末に




・・・・ステパノは言った。「・・・・私たちの父アブラハムがメソポタミアに居て、まだハランに住んでなかった時、栄光の神が現れ、『あなたの土地を離れ、私が示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムは・・・・ハランに住みました。神はアブラハムを・・・・ハランから今あなた方の住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産を何もお与えになりませんでした。しかし、その時・・・・神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間・・・・虐げられる。』更に、神は言われました。『・・・・その後、彼らはその国から脱出し、この場所で私を礼拝する。』
                                        【使徒行伝7章1~7節】


「放浪の人」アブラハム
 「放浪」とは、様々な地を求めてさすらう(旅する、移動する)ことです。使徒行伝の記述者ルカは、敵を前にしても、決して怯むこと無く、神のメッセージを大胆に伝えた、ステパノの信仰の土台(原点)を、具体的な記述が全く無い訳ですが、読み手である私たちに、聖霊様を通して霊的に描いています。


 ステパノが最後に語ったメッセージのベース(土台)は、多分に「詩篇104~106篇」の中に見出されます。彼は幼少の頃よりイスラエルの歴史、特に①主なる神が何故、アブラハムという名も無き、一人の人物を選び召して、②イスラエルの地に導いたのか?また③その後のイスラエル民族は、如何なる変遷を辿ったのか?その事に関心を持ちながら、詩篇を口ずさんだのではないでしょうか。


 今回のステパノのメッセージのキーワードは、①country(国土)、②land(地域、地方)、③place(特定の地)という、「土地」を表す言葉です。アブラハムが最終的に導かれた地は、実は③placeになります。彼はイスラエル民族にとって、「建国の父」ではなく、あくまで「信仰の父」と呼ばれています。彼には子孫に残す(相続する)べき、広大な土地はありませんでした。


 ご存じのように、イスラエル民族は歴史的に見て、長きに渡って民族移動を強いられる、「放浪(流浪)の民」でした。しかし彼らの信仰の土台にあるものは、主なる神が必ず「故郷の地に連れ上って下さる」という、確固たる確信(祈り)でした。その故郷とは、カナン地方やシオンの地という、特定の名称を指すのではなく、「神が特別に選んだ場所(place)」を意味します。


アブラハムの信仰の旅程
 このように「信仰の父」アブラハムの旅程は、今に生きる私たちキリスト者の、信仰の歩みの「雛型」であること、これが今回の記事から示される、第一の重要ポイントです。私たちは自分の力によって、また自分が望んだ(欲した)から、日本民族として生まれた訳ではありません。全てが主なる神の「選び」と、神が永遠に意図する「ご計画」の中で、あなた(私)は「日本国」に、日本人として「生(命)」を授かったのです。その事を信仰によって意識する時、自分の「歩み」が、アブラハムの「歩み」と同じように、神の偉大なる「選び」にあることが分かります。


 アブラハムに対して命じた、主なる神の最初の「召し(Calling)」は、①メソポタミア(country)のウルを離れて、②ハランの地(land)に移住することでした。ここで覚えて戴きたい点は、アブラハムが神から命じられたから、仕方なく移住したのではなく、主なる神が「主役(主君)」として命じ、その「ご命令」に対して、アブラハムが素直に信じて行動したことです。


 最終的にアブラハムが辿り着いた地(land)は、ベエル・シェバでした。その間彼は、シケム→ネゲブ→エジプト→マムレ→ゲラルと、各地を転々とする移動(放浪)の連続でした。最後の地であるベエル・シェバは、語源としては「井戸」を指す言葉です。その地において彼は、ようやく「安住の地」を見出し、真実の神に礼拝を捧げることが出来ました。そうです!生ける「命の水」が尽きること無く、豊かに流れ出る「場(this place)」、それがベエル・シェバです。


 主なる神は、ご自分を慕い求めて飢え渇く者に対して、神が備えて下さる特別な「場(this place)」を、必ず用意して下さいます。それが霊的なベエル・シェバです。ですから私たちの信仰の旅路にも、神が導かれる旅程(霊的ツアー)が転々とあり、私たちが霊と真をもって、真実の礼拝を捧げるべく、最終ゴールとしてベエル・シェバ(this place)が用意されるのです!イスラエル民族の歴史は、神ご自身が一方的にアブラハムを召し出し、彼を大いなる国民の祖(始まり)とすべく、最終場所は定まっていなかったにも関わらず、様々な地(land)を放浪することで、神が臨在する場所をベエル・シェバと定め、そこに祭壇を築いて礼拝を捧げたこと、この神との「契約」から始まっているのです。


「放浪」を経て学んだこと
 アブラハムが「放浪」の旅を経て学んだこと、これが今回の記事から示される、第二の重要ポイントとなります。彼が学んだこと、それは第一に①主なる神の一方的な「選び」と、神の偉大なる「召命」は、決して変わることが無いこと。第二に②次の地へと移動(放浪)する度に、様々な地を転々とした中において、神の「ご計画」が、全てを「益」とする為の、神の偉大なる配慮(取扱い)であること。第三に③彼(私たち)に用意される、最終的な「場(this place)」が、まさしく約束の地であることです。


私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海も無くなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁のように用意を整えて、神の元を離れ、天から下って来るのを見た。その時、私の玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共に居て、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死は無く、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、私は万物を新しくする。」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」と言われた。また、私に言われた。「事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価無しに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私はその者の神になり、その者は私の子となる。」
                            【ヨハネ黙示録21章1~7節】


 この預言の御言葉が、私たち「キリストの花嫁」に与えられる、最終的な「場(this place)」を教え示しています。永遠に私たちが創造主を崇める場、それが「新しい天」、そして「新しい地」です。そこは、決して滅びることの無い、主なる神の麗しい霊的次元、即ち真実の神の「聖さ」に満ち溢れ、「命の水」が豊かに流れる場です。そうです!これが、私たちが遂に掘り当てる、最後の「ベエル・シェバ」となります。


 アブラハムはベエル・シェバに辿り着いた時、如何に素晴らしい、創造主の「安息」を得たことでしょう。真の花婿なるイエス・キリストは、私たちにも命じられます。「渇く者よ、私の元に来なさい。私が無代価で、惜しみ無く命の水を飲ませよう。」聖霊様も、あなた(あなた)に命じます。「見よ、私は新しいことをする。今にも事が起こり、それが次々と成就するであろう。だから準備をしなさい!大収穫に備えて。


 私たちは何となく、この世を「放浪する(さすらう)」如き者です。しかしその信仰の「旅路」の結末(終点)は、聖霊様が結実して下さる、素晴らしい「ベエル・シェバ」です。ですから、先ずはあなたが、神の御言葉を純粋に慕い求めて、聖霊様が用意して下さる、一つ一つの「場(this place)」において、霊と真による「真実の礼拝」を捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの勝利の聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年9月10日のメッセ-ジ)


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Terminal Hope(プロローグ)

「光」が来れば「喜び」に変わる




闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。・・・・一人のみどり児が私たちの為に生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。・・・・万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
【イザヤ書9章1~6節】


「光」無き時代の中にあって
  ご存じのように世界中が、大変な騒乱の時代となり、益々「暗闇」の力が勢いを増し、その猛威を振っています。日本においても、不思議な現象(事象)が次々と起きています。社会情勢から政治界・経済界に至るまで、「希望」無き不安定な様相(闇の拡大化)を呈しています。


 「偽りの光」だけが増す時代の中で、「真実の光」は果たして見出すことができるのでしょうか?ご存じのように、「暗闇」だけが覆う状況においては、私たちは先に進むこが出来ません。光が無い、つまり一歩先が見えないからです。


 しかし私たちキリスト者は、今日のイザヤ書の御言葉(預言)を読む時に、抑えきれない程の霊的興奮(歓喜と揺るぎ無き希望)を覚えます。その理由は「真実の光が自分の元に訪れ、今も尚その偉大なる輝きは、暗闇の中でも、燦燦と麗しい力を伴って、永遠の輝きを放ち続けている!」ことを、私たちは知って(体験して)いるからです。最終的に「真実の光」が来られた時に、私たちは「真実の光」と共に、永遠の御国において住む(暮らす)という、偉大なる「喜び」の時を迎えるからです。


「偉大なる光」が来る時
 今日のメッセージの第一の重要ポイント、それは「陰(暗黒)」に覆われた今の時代に、今日のイザヤ書の御言葉を読む時、どのように受け留めるべきか?という点です。多くの人々は、いずれ地球が滅亡し、「終わりの時」を迎えることを、予感しながら生きてはいますが、他者(隣人)のことを顧みる余裕はありません。自分だけが、何とか必死に生き残ることしか、もはや考えられなくなったからです。


 1節の御言葉を直訳すると、「闇の中を歩いていた人々は、偉大なる光を、まさに今!見ることになった。彼らはそれまでは、陰の地にひっそりと暮らしていたが、まさに今!この時から、偉大なる光が彼らの上に輝き始めた。」となります。


 一歩先を歩くこともできない、それが暗闇の力です。しかし暗闇が支配する中において、今まで見たことの無い、大いなる「光」が出現した瞬間に、私たちは「現実」を正しく捉え(見て)、そして理解するのです。自分の心の中から、「不安」と「恐れ」が、もはや存在しないことを。すると、更に私たちは「安心して生きることが出来る!歩くことが出来る!もう二度と陰に怯えること無く、希望をもって暮らすことが出来る!」ことを、純粋に喜ぶことが出来るのです。


 1節の御言葉の、具体的な預言の啓示が、5節に記述されています。「一人のみどり児」とは、まさしくイエス・キリストです!このお方が、実際に地上にお生まれになる時には、「真実の光」として神の「救い」が輝き始めて、全ての人々を「暗黒(闇)」の支配から解放して下さいます。


 今日のメッセージの第二の重要ポイント、それは「偉大なる光」と「大いなる喜び」に、共通するキーワード、つまり「偉大なる(greate)」という素晴らしい次元です。しかもこの「偉大なる(greate)」二つの存在(神の事実)は必ず来る!、即ち「光(イエス・キリスト)」来りて、暗闇が退くことで、今まで経験したことの無い、大いなる「喜び」に変わるのです。「真実の光」の輝きが、永遠に働き続けて、私たちを常に導いてくれる!と、分かった(見て確認し、理解して受け取った)時から、心が温まるだけではなく、力強く一歩、二歩、三歩と、先に向けて歩く(走る)ことが出来るようになる、それがイエス・キリストの誕生の時からです!


偉大なる光、その四つの「働き」
 では、イエス・キリストが「真実の光」として来られる時、その素晴らしい「光の力」は、如何なるもの(存在)として、偉大なる「働き」を現わされるのでしょうか?イエス・キリストの「誕生」と、偉大なる「神の事実」が、私たちの人生を導く時には、次の四つの「働き(人格)」をもって、責任ある務め(救い)を完成されます。第一に「驚くべき指導者」の働きです。この名称を新改訳では「不思議な助言者」と表現していますが、新共同訳の英語の表記としては「Wonderful Counselor」、つまり「不思議に満ちたカウンセラー」となります。主なる神が、イエス・キリストを通して、私たちとカウンセリングする(相対する)時には、実際に私たちの置かれた状況より更に下部に座して、私たちを底支えする為に、ありとあらゆる「力」、そして優れた「知恵」をもって、着実に責任を果たされます。その「働き」そのものが、私たちにとって「不思議」に満ち溢れているから、素晴らしいのです。


 第二に「力ある神」としての働きです。この場合の「力」とは、世的な「権力(権勢)」や、物理的な「力(軍事力、経済力、勢力)」の次元の言葉ではありません。「力ある(Mighty)」とは、この世にある様々な力を超越した、創造主なる神が保有している「天の力」です。即ち「無」から「有」を産み出す際に用いる、霊の次元にある「力」です。全てを破壊しても、直ぐに建て直すことの出来るもの、本来の正しい状態へと、全てを打ち立てることの出来るもの、それが「天の力」です。ですから「力ある神」は、必ず「天の力」をもって、私たちの人生を建て直し、責任をもって正しい状態へと、全てを補償(補完)して下さるのです。


 第三に「永遠の父」としての働きです。ご存じのようにイエス・キリストは、私たちの霊的長子であり、また麗しの花婿でもありますが、実は「父親」の如くに、私たちと真剣に向き合い、実際に(親子として)関わって下さる方です。この世の父親は、その関わり方が「有限的」であり、大人になれば距離感を持つなど、(幼少期の頃と比較して)希薄な関係になります。しかしイエス・キリストの場合は、「永遠の父(Eternal Father)」の代理として、私たち霊的な弟妹に対して、永遠に愛し続け、かつ密接に関わって下さいます。我が子の為であるなら、たとえ悪さをしていても力強く抱きかかえ、立ち直るまで「永遠の忍耐」をもって、関わって下さるのが、「真実の父」の如きイエス・キリストです!


 第四に「平和の君(皇太子)」としての働きです。主なる神が「真実の王(King)」であるなら、自動的に私たちは、イエス・キリスト(真実の皇太子)に連なる「神の子」、即ちプリンス及びプリンセスです。と言うことは、イエス・キリストが居ます所には、全ての麗しい王国の品性(品格)が、当然の如くに満ち溢れて故に、そこには「争い」が全く無い、即ち真実の「平和(平安)」だけが存在するのです。


万軍の主の「熱意」
 結論になりますが、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(7節)の預言には、非常に重要な霊的指針が記述されています。「万軍の神」とは英語で「Almighty」と言い、全ての力(Mighty)を束ねることの出来る、最高次元の「力」を有した神、即ち「全能なる」創造主を意味します。今まで「暗闇」の力(圧政)に怯えていた(何も為し得なかった)あなたの元に、イエス・キリストが「真実の光」として訪れた(誕生した)!という神の事実は、「もはや恐れるに非ず!何故なら、この真実の光は永遠に輝き続け、私の行く先々を照らし続けてくれるから。」という、神の「永遠性」と「全能性」に、全ての「望み」を置く、つまり神に自らの「命」を託す(委ねる)信仰の、揺ぎ無き土台となります。


 このように「全能の神」が、一人一人に「真実の光」として来られる、偉大なる神の目的(熱意)は、「あなたを真実の光の中に、招き寄せるばかりではなく、この光を帯びる者として、暗闇の陰に生きる人々に、真実の光を届ける」という、重要な役目(務め)を与える為です。そうです!全能なる神は、「あなた(私)」という個人を通して、神の「永遠の愛」、神の壮大なる「救い」を、完成したく働いて下さるのです。ここに万軍の神の「熱意」が現わされています。しかも神の「熱意」は、一時的な興奮から生じるものではなく、永遠に守り導きながら、「あなた(私)」と共に働くことで、完成式典を迎えるなど、永遠に続く熱情の「意思(御思い)」から来るものです。


 「万軍の主」の熱意は、未だ終了(修了)していません。これからも「あなた(私)」を通して、完成へと進行中です。ですからイエス・キリストの「訪れ(誕生)」は、一度限りのものではなく、毎瞬!毎瞬!、多くの人々の元へと、「あなた(私)」を通して、その「真実の光」が届けられるのです。「万軍の主」の熱意から見れば、誰一人として「無用の者」はいません。全てが神によって形造られた、重要なパーツとして、イエス・キリストの中に組み合わされて行くからです。


 どうぞ「あなた」が神の「真実の光」、即ちイエス・キリストの「証人」として、全ての暗闇を打破する程の、神の「全能の力」を帯びながら、多くの人々に「大いなる喜び」を、届けることが出来ますよう、主イエス・キリストの偉大なる聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2023年12月24日のメッセ-ジ)


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Terminal Faith(No.25)

       「戦い」の火蓋が切られた




そこで、彼らは人々を唆し・・・・民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて・・・・訴えさせた。・・・・最高法院の席に着いていた者は皆、ステパノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
                            【使徒行伝6章11~15節】


「迫害」の先駆けステパノ
 ステパノの人物像に関して、詳細なデータが記録されていませんが、彼が人生の最後において、如何なる「戦い」に導かれ、殉教(死)に臨むにあたって、死を恐れること無く、神の賜る「勝利」の栄光を掴んで行ったのか、ここに力点を置きながら、筆者(ルカ)は記述したと思われます。


 ステパノは純粋に神の「言葉」を紐解く上で、イスラエルに対する神の「救い」の歴史を、淡々と語り伝えただけにも関わらず、何の理由(根拠)も無く処刑(石打刑)されました。只一つの理由があるとすれば、それはサタンの霊的妬み、例えば「この者を生かしておいては、我らの計画がストップしてしまう!」などの、明かに創造主の「御心」が、地上に拡大するのを妨害する為です。


 しかし聖霊様の場合は、サタンの迫害工作を見越した上で、ステパノを神の「戦い」の先駆け(急先鋒)として、後に続く私たち(後続隊)の為にも、雛型的な使徒に任じたのではないでしょうか!ですから私たちは、ステパノに起きたのと同じプロセス(流れ)で、理由無き迫害を被ることになりますが、同時に神の「勝利」の栄冠にあずかることを、良い意味で覚悟しておきましょう。


ステパノの「戦い」
 今回の記事から示される第一の重要ポイントは、ステパノの「戦い」が、今に生きる私たちの為に、聖霊様が前もって用意したものである!という点です。そうです!聖霊様は私たちキリスト者を、神の「兵士」として整え、日々訓練し、神の「勝利」を掴み取る一軍として、直々に選び召し出しています。敵は必ず「偽証人」(13節)を立てて、戦いを挑んで来ますが、私たちの場合は永遠に真実なる方、イエス・キリストの「証人」として戦うのです。


 ところでイエス・キリストの「証人」は、何を語る(証言する)のでしょうか?①イエス・キリストが、紛れも無い「神の子(皇太子)」であり、②全ての人々の「罪」の贖いの生贄として、十字架上で屠られた唯一の小羊であること、そして何よりも③イエス・キリストは、三日目に「死の淵」より蘇られた、復活の「救い主」として、④御子を信じる全ての者に、「永遠の命」を無代価で提供して下さること、これを堂々と証言するのです。


 真のキリスト者は、自分が戦うべき場所が何処にあり、そして証言する「時」と「場」が、如何なるプロセスで用意されているのか、それら全てを聖霊様から知らされるのです。そしてステパノの場合は、自分が最後に戦うべき場所が何処にあるのか、それを分かった上で戦い抜きました。サタンの妨害工作の手口は、いつも同じパターンです。①多くの人々を唆し、②偽りの証人を立て、③「キリストの証人」を屈服させることです。


「戦い」の最終ゴール
 第二の重要ポイントは、「その時」に私たちは、必ず「Back to Mark chapter13 !(マルコ福音書13章に立ち返る)」ことです。たとえ最終的な場所が、「屠り場」であったとしても、そこにおいてキリストの「福音」が語られ、この世の事実には無い、明かな「神の事実」が、間違い無き「真実(真理)」として、聖霊様が私たちの唇を借りて、最終弁論として証言して下さるのです。


 私たちのゴールは、イエス・キリストとの「再会の時」です。ステパノは分かっていました。「再会」イコール、自分が「この世」から召される!こと。そして自分が「イエス・キリスト」を語るだけで、恐らく処刑されることを。しかし彼は、最終ゴールのイメージ(焦点)を、麗しい花婿の「御顔」に向けて、霊的照準を合せていたが故に、「死」は単なる通過点にしか映りませんでした。


 結論になりますが、ステパノの「その時」とは、いよいよ聖霊様が用意する「最終弁論」を、キリストの代理人(大使)として語ることでした。語る前の彼は、偽証罪で訴え出ている、多くの敵集団を前にして無言を貫きました。しかもその顔は、敵を恐れて怯むことが全く無く、さながら天使のように、凛々しく端整なものでした。「主よ、いよいよ時が来ました。あなたとお会いする、その素晴らしい時を前にして、私は最後の証言(メッセージ)を語りますが、聖霊様が共に居て下さることを、心から感謝致します!」と、無言で祈りつつ。


 イエス・キリストも私たちの為に、十字架上の「死」という、身代わりの「生贄」となって、父なる神の「救い」を示されました。ステパノは、断わる度に使徒たちから、師イエスの「生き様(死に様)」の証言を聞きました。そして彼は聞く度に、「私もお会いしたい!あなた方が羨ましい。イエス様が復活為されて、栄光の父の御座に帰られるシーンも、現実の眼で見ているからです。イエス様が私の為にも、また帰って来ることを知ってはいますが、私は早いこと、あなたにお会いしたいのです!」と、飢え渇きが更に激しくなりました。


 敵は、私たちがうろたえて、恐れるかどうかを、じっと見ています。しかし恐れないで下さい!サタンと敵どもが、たとえ私たちを監視したところで、私たちが見上げて、慕い求めるべきお方は、イエス・キリストだけであり、イエス・キリストは常に、私たち花嫁を見守り続けて下さいます。聖霊様が私たちに臨まれる時、私たちは偉大なるイエス・キリストの「証人」として、至る所に導かれることになります。いよいよ「その時」が近付いています。


 「地上において、キリストのような人生を送ろうと、不完全ながらも最善を尽くそうとするならば、迫害も受けるでしょう。迫害を受け、それがもたらす痛みと苦しみにも関わらず、前進しましょう。迫害を喜びましょう。それは神があなた方の信仰を強め、神に近付く為に、迫害を益として用いられることを知りながら、その迫害を平安に受け入れることを意味すると、私は信じています。あざけられ、友人や家族からも見放され、仲間外れにされ、嘘のターゲットにされ、また偽りの攻撃に晒されることは、楽しい事ではありません。もしあなたが、イエス・キリストの信者であるなら、敵からあなたを守りつつ、迫害を通して、あなたを導いて下さる故に、あなたは常に平安でいられます。あなたが平安でいられるのは、主の御名の為に苦しみ、迫害に耐えていることを知っているからです。イエス・キリストと共に生きる所には、天国での永遠の命と、新しい天と地が待っています。底なしの穴と火の池のある地獄で、永遠に過ごすことを選ぶのは、本当に狂った人間だけです。敵の為に祈りなさい。全ての人の為に祈りましょう。そしてイエス・キリストを賛美し、礼拝し、敬いなさい。イエス・キリストは、あなたへの愛から、あなたに救いと、永遠の命を与えて下ったのです。」(リン・ウッド氏のテレグラムより抜粋)


神が私をあなた達より先にお遣わしになったのは、この国にあなた達の残りの者を与え、あなた達を生き永らえさせて、大いなる救いに至らせる為です。私をここへ遣わしたのは、あなた達ではなく、神です。【創世記45章7~8節】


 「残りの者」が、私たちの日本にも用意されています。それは主なる神が取っておいた、神の素晴らしい「働き人」です。彼らがイエス・キリストに再び信仰を回帰し、聖霊様に導かれたステパノの如くに、「死」を恐れず出陣する「その時」、イエス・キリストの「救い」にあずかる、多くの日本人が興されます。私たちが「今の時代」に先に生かされ、聖霊様により訓練されているのは、神の偉大なる「救い」に至らせる為です。


 そうです!大いなる神の「救い」が、必ず日本に訪れます。たとえ迫害を受けても、私たちは「その時」の為に準備しましょう!イエス・キリストの麗しい御顔と相まみえる、素晴らしい「交わりの時」が、更に高い次元で整えられ、私たちが御言葉を読む時にも、御霊にあって祈る時にも、聖霊様が正しい方向へと、常に導いて下さいますよう、主イエス・キリストの勝利の聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年8月27日のメッセ-ジ)


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