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Terminal Hope(No.3)

     「光なる方」が遣わされる時




神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される。
                   【ヨプ記12章22節】


神は「光」を必ず遣わされる!
 「光なる方」が闇の中に、まるで全権大使の如くに遣わされる時、一体何が起きるのでしょうか?また遣わされる訳ですから、その方には必ず重要となる、ある「目的(ミッション)」があります。しかし「その時」、闇の中には①「光なる方」を受け入れる者、または②「光なる方」を拒絶する者、この二種類に分たれます。


 先回学んだことですが、創造主なる神の天地創造における、「神の秩序(統治)」の第一原則は、混沌とした大地の上に、神は先ず「光」を置いた(set)ことです。そして「光」が置かれた瞬間に、闇は追いやられる(退散する)存在になったのです。私たちは、この「神の秩序」の第一原則を、信仰の歩みの最大標語として、常に掲げる(或いは告白する)必要があります!


 さて今回、私たちが学ぶべき第一の重要ポイントは、「神の秩序(統治)」の第二原則として、創造主なる神は「光なる方」を、闇に支配された領域(悪しきフィールド)の、隅々に渡って遣わされる(send)ことです。この場合の「遣わす」とは、実際に「人の子」として、この世に送り出す訳ですから、そこには重要な「任務(使命)」がありました。即ち「光なる方」は「人の子」として、イエス・キリストという「救い」の御名を帯び、彼は全ての人と共にある方、インマヌエルの神として地上に来られたこと、これが「光」のミッションです。


ヨブの「光」に対する理解
 今回の御言葉に登場するヨブは、「光」と「暗闇」に関する、創造主なる神の普遍的「秩序」を、いつも信仰を働かせて確認していました。即ち「暗闇」に生きる人々の中に、「真実の光」が遣わされる時には、必ずそこには偉大なる神の、「栄光の御業」が現れ出る訳ですが、「真実の光」を受け取る者と、逆に頑なに拒み続ける者という、二種類の生き方があることを、ヨブは理解していました。


 私たちは「暗闇」という概念を、三次元的に知ってはいても、霊的に正しく捉えることが出来ません。例えば「今の時」が、まさしく暗中模索の如き、正しく理解できない程の、「暗闇」に覆われていると言えるでしょう。多くの人々が「その時」、別の道を求めるなどして、「肉の力」を頼みとして彷徨いますが、それがサタンの仕掛ける「罠」であることに、全く気付いていません。


 しかし覚えて下さい!その方が遣わされる時には、「心配(不安)」や「恐れ」が全く無い次元の中で、私たちは「正しい道」へと、安心して歩むことが出来るのです。何故なら、その方の持つ「偉大なる光」が、私たちの前(先)を、必ず照らし出して下さるからです。


 今回の御言葉を詳訳しますと、「主なる神は、まるで死の如き、闇が覆う全ての世界(場)の中に、光を遣わされる。」となりますが、この御言葉には明らかに神の「意図(目的)」が、霊的に浮かび上ってきます。即ち私たちが如何なる状況下にあっても、「真実の光」なる方、御子イエス・キリストが、私たちと共に歩む為に必ず遣わされるのです!


 ところがヨブは「何故、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」(ヨブ記3章20節)と、不信仰の言葉を吐いていますが、創造主なる神が「真実の光」を、労苦する者に対しても、「天の恵み(賜物)」として与えて下さる、その明らかな「意図(目的)」を、彼はこの時に見失っています。にも関わらず彼は、次の「神の事実」は知っていました。つまり「真実の光」は、常に(如何なる時にも)遣わされている!ことを。


 さて「言(御言葉)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1章4~5節)の御言葉には、「光」の働く目的が、「命」そのものを生み出す、明らかな神の「御心の源泉(意図)」であることを示しています。神の言葉には、当然のことながら「命」があります。しかし「命」そのものを生み出す為には、主なる神が「光」に対して、暗闇の中に登場して(置かれて)、実際的な「働き」を遂行すべく、闇が覆う全ての世界(場)の中に、遣わされる必要がありました。


 ここで覚えておくべき、即ち私たちがヨブ同様に、常に知っておくべき重要な奥義は、私たちが「命」ある者として、「この世」に産み出される以前より、「真実の光」は全ての人の為に、等しく遣わされている!ということです。これが創造主なる神の不変的な「意図(目的)」です。これを知る者は、たとえ苦しみ嘆くことはあっても、「闇」そのものを決して恐れません。何故なら、私たちは「真実の光」と共に、前(先)を目指して進み行く存在だからです。神の言葉の中に「命の光」があり、この「光」が全ての人に、豊かに与えられ(遣わされ)ていること、これが神の創造の秩序における、偽らざる「意図(目的)」です。


二種類の反応
 今回の御言葉の第二の重要ポイントは、「真実の光」が暗闇の中に遣わされる時、人々は如何なる反応を示すのか?という点です。第一の反応は①「待っていましたー!」と、素直に「光なる方」を喜び迎え入れる人、そして第二の反応が②「いや結構です!私は既に自分の光を持っていますから。」と、あからさまに拒否して受け入れない人、この二種類に分かれます。このタイプの人々は、「終わりの時代」に特に増加しています。


 第一のタイプの人々は、ヨブが告白したように「私は暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めているのに、何故、滅ぼし尽くされずにいるのか」(ヨブ記23章17節)、即ち詳訳しますと「たとえ闇が私を盲目にしたとしても、私が恐れるのは闇そのものではなく、神だけを畏れるのである!」という生き方(信仰姿勢)です。この御言葉には、「光」という言葉は用いられていませんが、神が暗黒の「真の支配者」として治め、ヨブ自身の中に「光」の存在が、明確な臨在をもって遣わさてれいる!ことを、彼は知っているからこそ、あえて用いる必要が無かったのではないでしょうか。


 それに対して第二のタイプの人々は、ヨブが紹介しているように「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序は無く、闇がその光となる程だ」(ヨブ記10章22節)、つまり「闇の王国」に生きる人々を描いています。詳訳しますと「そこは暗黒だけの地、また光無きフィールドであり、混乱たけが支配している。そこにおいて人の光(偽りの光)自らが、暗黒となっている。」となります。「暗黒」に生きる人々が、何故「真実の光」を拒むのか?その理由は、自分の中には既に「光(イルミナティ)」がある!と信じているからです。


 またヨブは「光に背く人々がいる。彼らは光の道を認めず、光の射すところに留まろうともしない。・・・・(彼らは)暗黒に紛れて家々に忍び入り、日中は閉じこもって、光を避ける。このような者には、朝が死の闇だ。朝を破滅の死の闇と認めているのだ。」(ヨブ記24章13~17節)と、更に彼らの「闇」に生きる特質を描きます。しかし結局のところ、彼らの生き方は「光も無く、彼らは闇に手探りし、酔いしれたかのように彷徨う」(ヨブ記12章25節)だけです。


 結論になりますが、創造主なる神は忍耐の限りを尽くして、今も尚「光なる方」に対して、「我が独り子イエスよ、あなたをインマヌエルの神として、闇に覆われた地上に遣わす!あなたを通して、漏れること無く全ての人々が、真実の光の元に回帰し(立ち返り)、私が用意する新しい天と地に凱旋して来ること、これをあなたに託す。」と下知しておられます。


 それ故に「あなた(私)」が、多くの人々が神の「救い」、即ち真実の「光なる方」の元に立ち返ることを、日々聖霊様の導きの中で、忍耐の限りを尽くして、祈り続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年1月14日のメッセ-ジ)


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