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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.20)

イエス・キリストのEyes⑦


                あなたは何を見ていますか?



 私たちの「人生」には時々、「どのようにして生きていくべきか?」などと、将来に対して疑問に思うことが多々あります。特にそれは、行く手を阻む「大きな壁」が、立ち塞がるような状況に陥った時です。その時に私たちは、頭の中で「〜したら、・・・・だろう」、「〜したから、(今の)私は・・・・である!」などと、様々に「?マーク」がよぎります。また私たちは、行く手を阻む「もの」に対して、「困難」を覚えたり、前進するのに躊躇したり、またある時は「あきらめ」の境地に陥ったり、未だ「先」にあるものを見ずして、「ため息」をつく時が多くあります。


 しかし、「上(天上)」から与えられる神の「命の言葉」は、そのような三次元的な「思い(言葉)」と違って、私たちの「霊」に直接語りかけ、聖霊を通して大いなる「励まし」を与え、私たちが生きていく上での、真の「術(方向性)」を指し示して下さるものです。それ故神の「命の言葉」は、私たちに「命あるもの」として息づき、一人一人の「人生」を、まさしく豊かに「実り」あるものとして創造していくのです。



朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何も無かった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「何故、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが出来るばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
                                                                                             【マタイ福音書21章18〜22節】


神の「創造の法則」
 このストーリーの時期(シーズン)が、果していつ頃であったのか定かではありませんが、恐らく「過越祭」のシーズン(四月頃)中ではなかったかと思われます。イエス・キリストが、ある「道」を歩いておられる時、急に「空腹感」を覚えられ、道端に何か果物でも実っていないかと、「食べもの」を捜し求めました。まさに「その時」、たまたま豊かに生い茂った一本の「いちじく」の木を、イエス・キリストは発見しました。


 日本では「いちじく」の木は、夏から初秋にかけて豊かに実りますが、イスラエルを含む中東地域では、春頃にかけて豊かな「実りの時」を迎えます。ですから、イエス・キリストが発見された「いちじく」の木は、遠くからでも目立つ程の、豊かな葉に覆われていたものですから、確実に「空腹感」を一掃させる程の、多くの「実」が本来は実っているはずでした。ところが実際に木の下に行き、生い茂る葉の中をくまなく捜せども、一つの「実」も見つけることが出来なかったのです。イエス・キリストは当然、「いちじくの木は必ず実を結ぶ」ことが、神の「創造の法則」の御業として受け留めていました。


 私たちに対する神の「御思い」は、例えばお百姓さんが野菜畑において、水を撒いたり肥料を混ぜたりするなど、収穫の時期にまで一生懸命に、手間をかける時に願う「思い」と、殆ど似通っていると言えます。つまり、父なる神が一人の「人間」を創造される際には、「豊かな人生を(各自が)全うし、その人にしか出来ない(産み出せない)、豊かな実を結びながら、平安に過ごして欲しい!」と必ず願いながら、「命の息」を吹き込まれている訳です。


 植物は「種」を蒔いたら必ず、「成長の法則」に従って「葉」を生い茂らせ、最終的に「結実(新しい種の創造)」の時を迎えます。それと同様に、私たちは神の「命の息」を吹き込まれた結果、同時に父なる神の「命の言葉(神の御心)」も、「命の種」として蒔かれているのです。私たちは、幼少の頃分からなかったことが、少しずつ成長して「大人」になっていく過程で、この世にある古き「言葉」が、如何に自分の人生を支配(左右)しているか、そのことに気付きます。しかし覚えて戴きたいことは、父なる神は私たちに対して、そのような三次元に属する「言葉」ではなく、本来の麗しい神の国の霊的な「言葉」を、前もって私たちの「霊」に蒔いて下さっているのです。


 神の「命の言葉」は、「時至りて必ず実を結ぶ!」という、単純な「創造の法則」によって動いています。つまり、あなたが「思い」も寄らなかった程の、素晴らしい「人生の実」が、必ず「御心」通りに用意されているのです。その「命の言葉」とは、次のような単純な御言葉として要約されるでしょう。「私主は、あなたを創造した真の神である。あなたが今まで、たとえどんな歩みをして来ようが、過去・現在・将来において、常にあなたを愛している。私は在りて在る、真の主である。私こそ道であり、真理であり、命である。私を信じる者は、誰一人として滅びることなく、永遠の命を保証(権利)として授けよう。これがあなたに対する、私の命の言葉である!」


「からし種」の信仰
 イエス・キリストは、この「いちじく」の木を見て、冷静な「思い」をもって、「枯れよ!」と命じられました。私たちが三次元的な「思い(判断)」から、この「ご命令」の真意(奥義)を読み違えますと、私たちは神が指し示している、「霊の次元」に踏み入ることが出来ません。覚えて戴きたいことは、イエス・キリストが語られたこの「命の言葉」は、「いちじく」の木に対する「言葉」というより、師と同行していた弟子を含めて、今に生きる私たちキリスト者に対して、ある非常に重大な「奥義」を伝えているのです。


 事実としては、この「いちじく」の木は確かに枯れました。イエス・キリストはその直後、弟子たちに次のように語られました。「あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが出来るばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(21〜22節)


 前述しましたように、私たちの「霊」のフィールドには、本来は神の「命の言葉」が蒔かれています。ところが私たちは、生まれつき自分の「我が言葉」、例えば「私中心の意思(自己中心)」という言葉が、一人一人の人生を支配しています。イエス・キリストが、「約束の言葉」として言及した「からし種」の信仰、つまり目に見えない程の小さな「信仰」であっても、その「信仰」を働かせるならば、「大きな壁(山)」をも、動かせることが可能なのです!「それ(命の言葉)」を信じるのか?、それとも信じないのか?それが私たちに問われているのです。


 その時に「私の人生には、今まで考えてきたような、苦労ばかりの人生ではなく、本来の豊かな人生が用意されるのですか?それを、あなたが与えて下さるのですか!真の主よ。あなたが真の神であり、私を本当に愛して下さるのであれば、私は信じます。神よ、私の霊に命の言葉を蒔いて下さっていることを、単純に信じます。成長させて下さい!神の命の水を注いで下さい!豊かな葉に覆われ、多くの実を結ぶいちじくの木として、私を創造主の御心に委ねます。明確なものとして、私を本来の自分に証明(明らかに)して下さい!」と告白することが、私たちの「からし種」の信仰表明になるのです。


 しかし次のような、二種類の愚かな「不信仰」の人々が必ずいます。例えば私たちは、立ちはだかる「巨大な壁(ハードル)」を目前にした時、三つの反応を示します。第一の反応は、「とてもじゃないが、これは無理だ!」と判断し、逆方向(過去も含む)に後退して行くパタ−ン。第二の反応は、「あー今は無理だから、しばらく様子を見ていよう。」などと、何となく最初は肯定的に反応するのですが、いくら待っても何も変化が無い場合に、遂にその人の「霊」を「我が言葉」が支配して、「これは私に与えられた、運命(定め)かも知れない。だから、この状況を受け入れよう!」と曲解し、前進を止めてしまうパタ−ン。この二つのパターンは、いわゆる「不信仰」に生きる、愚かな人々のことです。


 それに対して第三の反応は、この時のイエス・キリストの行動パターンの如くに、あらゆる状況に対して、常にハングリーである(飢え渇く)ことです。イエス・キリストは十字架上で、自らの「死」を目前にした時にあっても、「私は渇く!」と告白しました。このように、イエス・キリストはどんな状況においても、常に渇き続ける姿勢を貫き通しました。たとえ前進を阻む、「巨大な壁」が立ちはだかっとしても、「我が言葉」に頼らないで、自分の人生を支配して下さる、「真の創造主」が発して下さる、「命の言葉」に期待すること、これが第三の反応、つまり「上」からの信仰に立って前進し続ける人々です。


あなたは「何」を見ていますか?
 「我が言葉」を大事にする人々は、決して神に渇くことも無く、様々な状況にあっても、自分の「人生」をボンヤリと終えるだけです。しかし「真の神」は、あなたの「人生」に対して、麗しい豊かな「実り」を結ぶべく、ねんごろに見守り続け、愛して下さる方です!そして、今も尚「命の言葉」を発して下さることで、あなたを直接導いて下さっているのです。「私の愛する子よ、私の元に来なさい!そうすれば、命の水を豊かに、尽きること無く与えよう。それ故、私の命の言葉を求めなさい!」と。


 その時に私たちは、「もはや私には、何の力もありません!私の人生は今まで、このような実を結ぶことの無い、一本のいちじの木だったかも知れません。しかしあなたは、私に対して必ず実を結ばして下さる、新しい人生を用意して下さいます。真の神よ、働いて下さい!私は今、それを信じます!私に対する、あなたの命の言葉を、今受け取ります。」と応答するのです。


 あなたは「何」を見ていますか?神の「命の言葉」の実を見ることを、へり下って求めようとするのか?それとも「我が言葉」だけを頼りに、目前の「巨大な壁」を見て、そのまま終わってしまうという、この二種類の見方が用意されます。何度も繰り返しますが、「我が言葉」は確かに、過去と現在の人生プロセスを観察できますが、「巨大な壁」を前にしては、たちどころに消滅します。父なる神は、私たちの「弱さ(ハンディ、限界)」をご存知の方です。そして「信仰」は、「上」から与えられるものです。是非、正しい「信仰の眼」をもって、神の「命の言葉」を見ることの出来る、柔和な「あなた」に聖霊が仕立てて下さることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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