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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.28)

イエス・キリストのEyes⑮


   誘惑に陥らないよう、目を覚ましていなさい!



イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、・・・・彼らに言われた。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに。」それから、弟子たちの所へ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。「あなた方はこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体も弱い。」・・・・
                                                                                             【マタイ福音書26章36~46節】


「復興」を祈り求めた弟子
 イエス・キリストが痛切なる叫び(願い)をもって、弟子たちに語られた「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(41節)の御言葉を、私たちは今の「自分」に対しても、聖霊様を通してイエス・キリストが語られている、重要な「ご命令」である!と受け留める必要があります。確かに私たちは、この時にイエス・キリストが被るような、差し迫る「命の危機」にはありません。弟子たちも、イエス・キリストが語られた、「十字架の死」に関する数々の話しを、決して本気には捉えることなく、「十字架」は単なる形式的な儀式であり、最終的には敵であるローマ軍を一掃し、ユダヤ国家を再建して下さる方である!と、この時も革命前夜の儀式として捉えていました。


 さて今に生きる、私たちの日本国の状況は如何でしょうか?「安全神話」が全ての分野に渡って、崩壊しつつある日本国家において、私たちは今後どのように生きていくべきか?この一点に意識(不安)を集中しながら、何となく必死に生きている、そんな毎日ではないでしょうか?そのような中にあって、私たちキリスト者も「この国が、更に揺り動かされますように!」などと、「リバイバル(霊的な日本国家の復興)」のために必死に祈り求めています。それはまるで、「ゲッセマネの園」に同行した弟子たちの「祈り」と、何ら変わり無き次元のものではないでしょうか!つまり「もう一度、我が国(日本)に力ある天の栄光を!」という、「復興の祈り」がテーマになっている点です。


 父なる神が、「日本」を霊的に揺り動かすこと自体は、とても素晴らしい「ご計画」です。しかし覚えて戴きたいことは、この時のイエス・キリストの「ご命令」に対して、私たちが霊的にへり下りながら、その「ご命令」の中にある神の「御心」を学んでいなければ、この時の弟子たちと同様に、誤った方向に傾いて行くことも、私たちは知る必要があるのです。父なる神は、まさしくこの時に、イエス・キリストを「贖いの子羊」として、十字架上で屠ることで、私たちに「永遠の命」という「救い」を与えて下さいました。それ故、今は「恵みの時」にありますが、いつかはその「救いの門」も、ノアの箱舟同様に閉じられる時が来るのです。つまり主イエス・キリストが、次に「この世」に再臨さるれ時、それは「終わりの時(The End)」です。


イエス・キリストの「うめき」
 では私たちは、この出来事から聖霊様を通して、「何」を教えて戴く(学ぶ)べきでしょうか?第一に知らなければならない点は、①私たちもこの時の弟子と、何ら変わり無き者である!と、へり下って自分の「姿」を見つめる必要がある!ということです。第二に②イエス・キリストは、「十字架の死」を前にして、その「恐怖」に対して父から贖われることだけを、必死に祈ってもよいところを、何と彼はこの時も、ご自分の「弟子」一人一人を気にかけて、執り成しながら祈っておられた!という事実です。


 この大いなる事実は例えば、本来イエス・キリストは「天国」に凱旋された後、父なる神と「勝利の時」を祝い、今では「Happy Time」を過ごしながら、完成(再臨)の時に向けて「あとは、聖霊様よろしく!」と、のんびりと事を構えてもよいところですが、何とイエス・キリストは「天の園」において、今も尚深い「うめき」をもって、私たちのことを気にかけて下さり、聖霊様を通して何度も何度も、「弱き私たち」の元に訪問して下さる方である!という事実です。


 今は「聖霊の働きの時」と言われています。しかし、聖霊様はのんびりと「おー、遂に地が揺り動き始めた!それ諸君、今こそ頑張る時だぞ!」などと、私たちを促される方ではありません。「イエス・キリストは、今も尚天の園において、全ての人々が贖われるべく、うめき苦しんでおられる!それ故、あなた方は眠っていないで、ずっと目を覚ましていて欲しい!」と、激しく訴えかける方です。この言葉は私たちにとって、非常に難しい命題です。肉体的にも眠らないで、過ごすことの出来る人は誰もいません。この時の弟子たちには、イエス・キリストの言われる、「眠らないで祈っていておくれ!」の言葉の持つ緊迫感は、全く伝わっていません。何故なら、彼らにとって「夜」が来たら、自然と眠ってしまう・・・・、そんな平常心だったからです。


 同様に今日の日本が、霊的にも物理的にも揺り動かされたからと言って、私たちはイエス・キリストの如くに、緊迫感の中で祈り続けることが出来る訳ではありません。「あー、確かにここ数年、日本は大地震が頻繁に発生し、揺り動かされている気がしますね。でも、これは単なる初期現象ですから、未々安心ですよ・・・・」などと安易に考えて行きますと、私たちは霊的に眠りこけるのです。


 「人は何故、このように簡単に眠りこけてしまうのでしょうか?」、私たちがこの点について、明確に把握していないのであれば、この時の弟子たちの如くに、最初は「じゃー、私も祈ります!」などと、イエス様に口先だけで応じるのですが、暫くすると眠りに陥る、これが私たちの現実の姿です。そして私たちの信仰生活の歩みには、このような事象はいつでも起こり得るのです。


霊的な「裏切り者」
 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(41節)の御言葉は、アダム(エバ)が罪を犯した後も、ずっと御使いや聖霊を通して、私たちキリスト者に勧告されている、父なる神の「ご命令」です。当然聖霊様は、私たちが「誘惑」に陥り易いほどの、霊的弱さがあることをご存知の故に、この時イエス・キリストが、弟子たちに対して催促したように、何度も何度も私たちに語って下さいます。不思議なことは、イエス・キリストは弟子たちに対して、再三に渡る「勧告」を発した訳ですが、決して叱りつけてはいません。それは幾度にも「助け」を求める、弟子たちへの「愛の懇願」だったのかも知れません。


 ところが弟子の誰一人として、師と共に祈る者が無い中で、イエス・キリストは最終的には、父なる神からの「杯(十字架の死)」を受け留め、眠りこける弟子の元に戻られた時、「時は既に、間近に迫っている。人の子は、罪人たちの手に引き渡される。立って行こう!見よ、私を裏切る者が遂に来た。」と、悲しみの声を発せられました。この「裏切り者」とは、イスカリオテのユダばかりでなく、イエス・キリストに付いて来た全ての弟子、即ち私たちのことでもあります。常に私たち自身が、イエス・キリストの御目の中に、「自分」を明確に確立していないのであれば、それはイエス・キリストに対する、霊的な「裏切り者」になるのです。


 今は「恵みの時」ですから、イエス・キリストの「御目(眼差し)」は、絶えず私たちに注がれていますが、それは決して際限無きものではありません。つまり「恵みの眼差し(まぶた)」は、いつか閉じられるのです。父なる神は、確かに聖霊様の働きを通して、私たちに「無限なる愛」を、イエス・キリストの御目をもって注いで下さるのですが、「御心の時」が成就した時には、「完了した!」と宣言され、イエス・キリストの「まぶた」を閉じられる、このことを常に覚えて下さい。それ故に何度も何度も、私たちの元(霊)を訪問して下さり、「眠らないで祈り続けるように!」と催促されるのです。私たちが、そのまま眠りこけていたら、「終わり時」が来たことにも気付かず、逆にゲヘナに投げ落とされた時に初めて、気付く(目覚める)ことになります。


「花婿」の切なる願い
 イエス・キリストの願いとしては、たとえ私たちが霊的に眠りこけて、神からの重要な「語りかけ」を、聞き逃すような「弱い者」であっても、聖霊様を通して目覚めて、再びイエス・キリストの「御目」の中に宿る、つまり「親しい交わり」のみを求める、賢い乙女(花嫁)になって欲しいのです。しかし愚かな乙女の如くに、聖霊様の警告(催促)を無視し、ひたすら眠り続ける者は、主人(花婿)が帰って来た時に、全てが「終わり(閉じられる)」です。つまり、主イエス・キリストの「御目」から離れ、霊的に眠りこけてしまった者は、最終的には「御国」の外で、歯ぎしりすることになります。


 勿論、主なる神は私たちの霊的「弱さ」、そして「不信仰」などをご存知です。私たちは「主人(イエス・キリスト)」が再臨される時に、「何」を為すべきか?が大事なことではなく、主人がいつ帰って来られてもよいように、常に「熱情の愛」をもって、イエス・キリストの「御目」の中に留まることを求めながら、忍耐の限りを尽くして待ち続ける(仕える)という、へり下った姿勢が何よりも必要となります。今年に何事が起きるのか、私たちは知る術もありませんが、一つだけ確かなることは、一秒一秒が過ぎ行くたびに、花婿(イエス・キリスト)が近づいて来て下さる!ことです。


 花婿なる方は「熱情の愛」をもって、「真の花嫁(賢い乙女)」を捜し求めています。「私の愛する聖なる乙女よ、眠らないで待っていておくれ!私はまもなく、あなたの元に帰って来るから・・・・」と。あなたが「真の花嫁」として、イエス・キリストが再臨された時に、責められる所が全く無いほど、「花婿」を待ち続ける「備え」が、今後も豊かに整えられることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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