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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.27)

イエス・キリストのEyes⑭


                    霊の眼が開かれるために



さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。・・・・」
                                                                                                   【ヨハネ福音書9章1~3節】


実は何も見えていないのです!
 あなたは自分の「霊の眼」が、はっきり見えると断言できますか?仮に「はい、私は霊的な事柄の全てを、明確に捉えることの出来る、霊の眼を持っています!」と断言するのであれば、聖霊様はあなたに対して「?マーク」を促されることでしょう。


 イエス・キリストも、今回のストーリーの中で、執拗な嫌がらせの質問をあびせる、パリサイ派の人々に対して「見えると思っている人は、実は何も見えていない!」と断言されました。私たちは見えないからこそ、「真実な光」を求めて、見えざる現実を謙虚に受け留めながら、父なる神に寄りすがって行く時に、今まで見えなかった部分が、少しずつ見えるようになります。そしてそのことを通して、はっきりと主ご自身を、霊的に見るようになるのです。


 そういう意味で、仮に私たちの「思い」の中に、「私は聖霊のバプテスマを、すでに受けているのですから、明瞭に霊的な事柄を、いつでも見ることが出来ます!」などの自負心があるのであれば、今回のストーリーの中に記された、イエス・キリストの御言葉を通して、改めて私たちは霊的にへり下りながら、「父なる神の御前では、霊的に盲目に過ぎない者」であることを自覚しながら、次のように告白できる者に、造り変えられる必要があります。「私は、いつも見えざりし者です!私は霊の眼が、しっかり見えないために、あなた様の栄光ある御業を、自分の生活の中で見ることが出来ません。私は、不信仰から不平を吐き続けた、あの出エジプト後のイスラエルの民と、何ら変わり無き者です!」と。


 そうです!仮に私たちが、霊的な状態を明確に捉え、正しく判断できる者であるならば、神に対して「不平」を述べることも無く、自分の歩みの中における、様々な「苦しみ(試練)」に対しても、「父なる神の見えざる手が私の手を、常にしっかりと握って下さり、私の全てを覆っていて下さる!」と、神の「栄光の覆い」をも見ることが出来るのです。しかし私たちの「霊の眼」は、はっきり申し上げて「肉の眼」という、三次元の法則に縛られていますので、私たちはどちからかと言えば、「霊の眼」の判断よりも、「肉の眼」の判断を優先します。そして更に「肉の耳」、そして「肉の口(思い、詮索)」にまで波及することで、例えば「主よ、どうしてあなたはこのような事を、(この私の上に)起こさせるのですか?とてもじゃありませんが、私には必要無きものですから、一掃して下さい!」などと呟くのです。


「Ifの砦」から脱出しなさい!
 私たちは今まで、霊的に様々なことを、聖霊を通して学んできましたが、そのような私たちキリスト者と言えども、霊的に盲目である限り、私たちの「霊の眼」が一つ一つ開かれるためには、実は霊的な備えがあることを、今回のストーリーの中から、聖霊様の助けによって教示される必要があります。ところで、私たちの「思い」の中には、いつも「If(もし~であるなら)」という思考パターンがあるのを、あなたはご存知でしょうか?つまり私たちは三次元的に、必ず「~だったら、・・・・だっただろうに」などの、ある「仮定(仮の思い)」を発想することで、例えば「あの時~しておけば、今は・・・・だろう(しなくてもよいのに)」などと、自分の「人生」を過去・現在・未来に渡って、把握(認識)しようとする習慣がある訳です。


 私たちが霊的に、エドモン・ダンテス(注)の如くに、「イフ城(Ifの砦)」に幽閉されてしまったら、私たちは「If」という思いに縛られ、イエス・キリストの「贖い(救い)」の中にあずかることが出来ないでしょう。イエス・キリストは、生まれつきの盲人を見かけられ時、父なる神の「御心」を求めて、暫く「その時」を待っていたことでしょう。ところが弟子たちは、そんな師の様子を見て、三次元的にいぶかりながら質問したのです。「先生!何故彼の人生は、このように不憫なのでしょうか?先生は彼のことを、どう思われていますか?私たちは、彼が罪を犯したとは、とても思えない訳ですから。例えば、この人の先祖の誰かが、罪を犯したからですか?それとも血筋が悪いのですか?」などと。つまり、彼らは彼(盲人)の人生の、「今(現在)」の有様を三次元的に見て、彼の「過去」において、何らかの問題があったから、今も後(将来)も苦しまなければならないのか?という、「If」的な質問を師に投げかけたのです。


 私たちが、「今このように、私が苦しんでいるのは、あの時(過去)に起こったことが原因だ!」などの、三次元的に「イフ城(Ifの砦)」の思いの中に、霊的に幽閉されているとしたら、イエス・キリストの御言葉(命の言葉)に、今すぐ立ち返りましょう!イエス・キリストは、「私は、そのようなあなたのために、わざわざ招きに来たのです!私は失われた一匹の羊を、捜し出し見つけたように、私はあなたを今日、見出しているのだ!」と、聖霊を通して語りかけています。1節にある英語の「see」という言葉は、実際に「目」をもって対象物を見るという場合と、対象物がそこに存在しなくても、必ず「見つける(見出す)」という、強い意思を表す場足の意味があります。ところが私たちは、三次元的に存在しない場合に、必ず「過去(古い次元)」を穿り返して、「過去」から「現在」を見ようとする、愚かな習性があります。


 私たちは、「天上」から来る思い、即ち「強い意思」を与えて下さる、聖霊によって信仰を働かせながら、イエス・キリストの「Eyes(視点)」に立って、今の自分の人生を支配して下さる、父なる神の「ご計画」に委ねる!この思いに立ち返りましょう。エジプトの苦境から、奇跡的に贖い出されたにも関わらず、何度も「過去」を振り返った、あのイスラエルの民に見習ってはなりません。そうです!「主よ。あなたご自身を、はっきりと見ることの出来る、霊の眼を与えて下さい!過去のものを見ようとする、この古き肉の眼ではなく、新しい霊の次元を見ることの出来る、イエス・キリストの目をもって、この私の眼を覆って下さい!」と、へり下って祈り求めること、これが「イフ城(Ifの砦)」から解放される上での、大切な脱出の鍵となります。


「たまたま」ではなく、「わざわざ」見出すべく
 三次元的に「イフ城(Ifの砦)」に居座る、弟子たちの愚かな質問に対して、イエス・キリストは返答しました。「彼の取扱いは、あなた方の思っている、三次元には存在しない!彼が悪いのでもなく、両親や先祖などの血筋が問題でもない!あなた方が考えるような問題は、何一つ存在しない。彼の取扱いは、父なる神の主権にある。彼に父なる神の救いの御業が、はっきりしたものとして、現されるためである!」と。弟子と師イエス・キリストの会話を、静かに聞き入っていた彼は、「あ!このお方が、私がずっと待ちわびてきた、救い主に違いない!」と、「霊の耳」で悟ったのです。


 私たちが弟子たちのように、「イフ城(Ifの砦)」に幽閉されながら、「過去」を穿り返したり、「過去の出来事」を憎しみのバネとして、脱出しようと試みている間は、イエス・キリストの語りかけを聞くことが出来ません。しかし生まれつきの盲目の彼は、ひたすら待ちわびていました。その証拠に、イエス・キリストが「見かけられた」(1節)と記述されている部分を、私たちは「たまたま見かけられた」などと解釈しますが、他の共観福音書にも記述されている、イエス・キリストが主語として能動的に、「see」という動き(行動、導き)を採られる場合、「たまたま」という偶発的なものではなく、失われた羊たちを見出すべく、「わざわざ」訪ねて行ったことが、数多く記述されています。


 ですから、この時もイエス・キリストは、たまたま見かけたのではなく、わざわざ「彼(失われた羊)」を見出すべく、彼の元に直接やって来られた!と解釈し直すべきでしょう。つまり、イエス・キリストは以前より、聖霊を通して彼の霊的「叫び(祈り)」を知っておられ、イエス・キリストご自身も「いつかは必ず、父なる神のご計画の中で、彼と出会える!」ことを、心待ちにしていたのではないでしょうか!イエス・キリストの「see」は、失われた羊(彼)が今、どのような状態にあるのかを、「霊の眼」を通して明確に掴み、彼が「救い主」のみを欲して待ち続けていることを、正確に捉えていたのです。


 彼が飢え渇き求めていた次元は、神の「栄光」を霊の眼で見ると同時に、神の「救い」をもたらしたイエス・キリストご自身を、直接「肉の眼」で見たい!と欲する、聖なる「思い」に満たされていたこと、これは非常に重要な霊的備えです。主イエス・キリストが、わざわざ彼を見出すべく、聖霊を通して捜し求められたように、聖霊様は私たちに語りかけます。「あなたも、イエス・キリストご自身を見たいですか?イエス・キリストは、あなたの状態を全てご存知ですが、それでもあなたを直接見たい!と欲しておられます。それ故に、あなたの過去を完全に贖い、ご自身の貴い血潮をもって、あなたの霊の眼を聖めることで、互いに直接はっきりと見る、そのような親しい関係になることを、イエス・キリストは望んでおられます!」と。


 私たちの目前に、乗り越えることの出来ない程の、「苦難(困難)の壁」が立ち塞がったとしても、その先にある神の次元を見ることの出来る、「霊の眼」を私たちが持っているとしたら、私たちは「イフ城(Ifの砦)」に収監されることは、二度とありません。そうです!「今」の状況は、先にある霊的カナンに入るための「ゲート(門)」であると、私たちが「霊の眼」で見る時に、私たちの「唇」は彼の如くに、主イエス・キリストご自身を、慕い求める賛美へと変わるのです。


 イエス・キリストは今も、あなたの「霊の扉」を叩いて、「私を見てほしい!私も、あなたを見出したではないか。今のあなたが悪いのでもなく、過去のあなたが悪いのでもない。私の栄光が、あなたを通して現されるために、私はあなたを、今もなお見出し続けている!」と、強く訴えかけています。「御国」から投げかけられる、主イエス・キリストの豊かな「Eyes」が、あなたの「霊の眼」を少しずつ聖めて下さり、あなたが経験する一つ一つを、父なる神の「救い」の現われとして、あなたが「霊の眼」をもって、はっきりと見ることが出来ますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


注、エドモン・ダンテスとは、アレクサンドル・デュマ原作『モンテ・クリスト伯』に登場する主人公。


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