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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.25)

イエス・キリストのEyes⑫


       父なる神の「栄光」のみを見上げる時




ある病人がいた。マリヤとその姉妹マルタの村、ベタニヤの出身で、ラザロといった。・・・・姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」・・・・さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。・・・・墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取り除けなさい」と言われると、・・・・マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もう匂います」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。・・・・イエスは天を仰いで言われた。「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。私の願いをいつも聞いて下さることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
                                                                                               【ヨハネ福音書11章1~44節】


 今回のストーリーは、事実としてはラザロの「死」という、二人の姉妹にとって悲しみの記事ですが、神の「栄光」とは如何なるものであるのか?この点について私たちは、聖霊様を通して霊的に学ぶ必要があります。実は私たちが、この世の様々な出来事にのみ、焦点(視点)を当てて行きますと、神の「栄光」という素晴らしい霊の次元を、正しく見ることが出来ません。


 暗闇に至る問い「神はどうして?・・・・」
 ラザロは、突然死んだ訳では決してありません。恐らく、何らかの「病い」に犯され、次第に体力が失せていく中で、最終的には寝たきり状態になったのではないかと推測できます。その最中で、ラザロの姉妹たちは「イェス様が訪問して下されば、何とかなる(きっと癒して下さる)だろう!」と、ある面肯定的に「現実」を捉えていたのかも知れません。しかし予想とは裏腹に、イエス・キリストが訪問される前に、ラザロは急死したのです。ですから彼女たちは、ラザロの「死」を非常に悔しがり、「どうして?どうして?・・・・」などと、「死」の意味付けを求めて、深く悲しんでいたのではないでしょうか。


 同様に私たちにも、次のような経験が必ずあることでしょう。例えば、イエス・キリストを「救い主」として信じて、神に「栄光」を帰すべく、新しい「信仰の道」を歩み始めたにも関わらず、つい「自分自身(己の現実)」を見て、「果して今の自分が、神の栄光を現す器とは到底言い難い。むしろ(ラザロの如くに)、干からびて死につつあるような、そんな情けない姿ではないか!今の私には、栄光を現すものが何一つない。」などと、霊的に深く打ちひしがれる経験。


 覚えて戴きたいことは、イエス・キリストは私たちの「全て」をご存知で、尚かつ父なる神の、あなたに対する「ご計画」を、確実に成就して下さる方です。私たちが、この「真理」に立たなければ、確実に「自分の計画」が途中で挫折し、遂には霊的な「死」を迎えることになります。「どうして私の人生は?・・・・」などの問いは、ある面で「自己」が描き出す、暗闇の世界です。この「暗闇」の中に自分が埋没してしまうと、たとえイエス・キリストを信じていても、イエス・キリストの「真の光」が、暗闇の領域で薄れてしまい、最終的には「霊」そのものが暗闇に支配され、「どうせ私は・・・・だから」、「結局は・・・・でしょう」などと、希望ある将来像を描き出すことが出来ない程の、霊的な「死の病い」に至ります。


あなたに対する「完成の姿」
 しかしイエス・キリストは、いつかは死ぬかも知れない、この時点でのラザロの「病い」の進行状況をもご存知でした。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)イエス・キリストの生きる「目的」は、常に一つでした。それは「父なる神の栄光が、必ずこの地に現されるために、私が遣わされている!」ことです。それ故にイエス・キリストにとって、ラザロは「死」で終わった訳ではなく、必ず父なる神の「栄光」が、この後ラザロに現れ出る!ことを、イエス・キリストは確信していたのです。


 神は「始め(アルファ)」であり、「終わり(オメガ)」の方です。私たちにとって、「終わり」という概念は「エンド(End)」、つまりハッピーエンド(良き結果)か、アンハッピーエンド(悪しき結果)という、二元論的な発想しか描くことが出来ませんが、オメガなる神、それは「始め」を創造された以上、必ず完成して下さる方である!このように正しく描き直しましょう!


 父なる神の、あなたに対する「完成の姿」とは、神の「栄光」があなたの人生の全てに渡って、まるで共に歩いているかの如くに現し出される、つまり「あなたは本当に、神に愛されている人ですね!神の栄光は、何と素晴らしいですね」などと、どの人が「あなた」を見ても、分かるものとして現われ出ているものです。


 イエス・キリストの、この御言葉(4節)を聞いた弟子たちの反応は、次のようなものでした。「え!ラザロは眠っているのですか?」、「一緒に死にましょう!」など。このような愚かな弟子たちや、集まって来た人々の中にあっても、イエス・キリストの「御心」に一番近かった者が、実は姉のマルタでした。マルタは次のように告白しました。「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」(27節)それでも彼女は、弟ラザロの「死」という現実に、やはり塞ぎ込みました。


 イエス・キリストは、ラザロの「死」の出来事に塞ぎ込む人々に対して、重要な奥義(御言葉)を語っています。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光が無いからである。」(9~10節)「この世」がもたらす光とは、神の「栄光」のことではなく、「暗闇」に負けることがないようにと、必死に「血肉の力」に頼って、「己の光」を現し出そうとする人々の生き方を指します。


 私たちの人生は、まさしく「暗闇」の中で、その「真価(光の姿)」が問われます。それが「己」の中から出て来る「光」なのか、それとも「イエス・キリスト(真の光)」が現し出す、父なる神の「栄光」なのか?それが問題になるのです。「この世(三次元的世界」には、「真の光」は存在しません。私たちは「暗闇」の中で、一生懸命に努力しながら、「己の光」を頼りに歩いて来ました。しかし覚えて下さい!イエス・キリストが「暗闇」の全てを、ご自身の十字架の「死」をもって一掃した瞬間に、父なる神の「完成の光」が出現し、神の「栄光」が全てを覆い尽くしたのです。


わが魂と霊よ、出て来なさい!
 「暗闇」は、「真の光」が到来(訪問)した時に、全てが後退(消滅)します。それ故に父なる神の「栄光」が、常に「あなた」を支配し覆っているのです。イエス・キリストは、死んだラザロの「霊」に対して、たった一言命じました。「出て来なさい!」と。同様に聖霊様は、私たちが次のように命じるよう促しておられます。「イエス・キリストの御名によって、我が魂(自己)と霊に命じる。お前は今打ちひしがれて、もう何も為し得ない。私の問題は、どうしようも無いほどの巨大な壁である。将来には、何も希望と思えるものが一つも無い!と思っているかも知れない。しかし今、お前に命じる。イエス・キリストの御名によって、父なる神の栄光が現れ出る時が、必ず用意されている。それ故お前は今、イエス・キリストの御前に出て来なさい!」と。


 私たちが聖霊様の促しに聞き従い、すぐに決断して自分の魂と霊に、信仰をもって命じない限り、私たちは立ち直ることが出来ません。「自己」を明け渡すことは、非常に難しいことです。「救い主」イエス・キリストが、あなたの「霊」に「真の光」として訪れる時、あなたを霊的に支配していた「暗闇」が後退し、最終的にはあなたの「決断」によって、「暗闇」は完全に消失するのです。


 私たちは、様々な問題に打ちひしがれ、むくろ状態になった「己」を見つめることは、いとも簡単なことです。しかし、イエス・キリストは常に父なる神の、「栄光」のみを仰ぎ見続けたのです。ならば私たちも、「父なる神の栄光のみが、自分の人生の全てを支配し、最終的に自分を必ず、神の御心通りに完成して下さる!」ことを信じて、「天(上)」を仰ぎ(霊の眼をもって見)ましょう。父なる神の「栄光」の現れと、御子イエス・キリストの、永遠に変わらぬ「愛(恵み)」の注ぎと、聖霊様の「助け」と「慰め」が、豊かにあなたの「霊」に訪れることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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