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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.26)

イエス・キリストのEyes⑬


                   あなたの目は健全ですか?



「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところが無ければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている。」
                                                                                                 【ルカ福音書11章33~36節】


聖霊様の霊的「問診」
 私たちに「正しい光」を照らして下さる、イエス・キリストとの豊かな「交わりの時」を、私たちは何にも優って、更に求める必要があります。イエス・キリストご自身の「愛の眼差し」には、私たちの持つ「眼差し」とは、遥かに優った素晴らしい「聖い輝き(光)」があります。しかし私たちの「眼差し」が、今回の御言葉に記されているように、「澄んでいない(濁っている)」状態、つまりフィルターのかかった「眼(まなこ)」である限り、イエス・キリストの「正しい光」を、私たちは受け取ることが出来ません。


 ご存知のようにルカは、当時の「町医者」の一人です。ですから、今日の内科の医師が問診する時と同様に、ルカも病人の健康具合を診察する時は、先ず「両目」をじっと見てから、様々な問診を開始しました。実は、父なる神は聖霊を通して、私たちにも霊的な問診を為されます。「あなたの目は健全ですか?」と。しかし私たちの「霊」が不完全、つまりフィルターのかかった状態にある限り、父なる神の「問診」は行き届きません。それでも聖霊様は語り続けます。「真の光の源、イエス・キリストの御元に来なさい!」と。たとえ、私たちの「霊」の中に「暗闇」があったとしても、私たちが真の光(イエス・キリスト)に覆われる時、その「暗闇」は全て一掃されるのです。しかし、私たちが「暗闇」の中に、依然として生き続けるのであれば、父なる神が照らして下さる「真の光」は、私たちのフィルターのかかった「霊」の中に、ストレートに届くことが出来ません。


澄んだ状態とは?
 「目が澄んでいれば」(35節)に記された、この「澄んでいる」という言葉は、英語では「sound」という形容詞で、「健全である」ことを意味します。聖書の中で、この「sound」という形容詞が使用される時、それは単なる健康状態を表すものではなく、もっと奥深い領域(次元)にある、神の素晴らしい霊的特性を指す言葉です。つまり、「しっかりとしたものを土台とする」という意味(奥義)です。


 ご存知のように「土台」とは、家(建物)の基礎(foundation)のことです。基礎が安定した基準に無い限り、その上に建てられる「家(建物)」は、当然の如く不安定になります。そして私たちは、目に見える「土台(基礎)」ばかりでなく、その「基礎」の真下にある、見えざる「地盤」の状況が、更に強固な(しっかりとした)ものになっているか?この点をも、「家」を建築する時に見極める必要があります。この場合に、「地盤」の状況を調査する訳ですが、実質的なボーリング調査とは別に、「サウンディング試験」という、簡易的な調査方法を実施する場合があります。文字通り地中の地質の「安定値」を、音波探振による「波形値」で、ある程度の地質状況を測定する訳です。


 それと同様に、私たちの信仰の「土台」を、「何」にサウンドするのか、つまり「しっかりとしたもの」になっているか?が問われます。私たちの「霊」の中にも、実は「何か」を土台とすることで、「安心感(平安)」を得たい!と欲する思いがあります。その時に、私たちが据えるべき「土台」を、「この世」のものから選別して持ち込む限り、私たちの「目」は「not sound」、つまり「澄んでいない(濁った)状態」になるのです。私たちが一番、安心感をもって「土台」として据えているものの正体、それは私たちの内側にある、「自我」から生じるものです。しかし私たちが、「自我(エゴ)」から生じる、如何なるものを「土台」とする限り、霊的な「暗闇」が拡大して行くばかりです。


霊的異物を除去して下さる方
 では、どうしたら「澄んでいない(濁った)状態」ではなく、本当に「しっかりとした状態」、つまり父なる神が与えて下さる、「健全な基礎(sound)」となることが出来るのでしょうか?例えば私たちの「目」の中に、ある異物が混入しますと、「目」全体の組織ばかりでなく、肉体全体をも不健全な状態(気分)に追い込みます。同様に私たちの「心の眼」の中に、サタンの巧妙な手口(誘惑)により、世的な「安心保険」が持ち込まれますと、私たちの霊的領域がいとも簡単に、「暗闇」に支配されることになります。しかし、それでも聖霊様は励まします。「私が、あなた方に与えようとしているものは、生きた命の水である!そして父なる神が、一方的に絶えず投げかけて下さるもの、それは御子から現れ出る愛の光である!」と。


 ここで初めて私たちが、霊的な眼科医である聖霊様によって処置して戴く、つまり「世的な異物」を取り除くことによって、私たちの「心の眼」は、健全さを取り戻していくことが可能になるのです。私たちの「霊」の中に混入し、私たちと神との関係をフィルター化させる、「暗闇」という異物を除去するためには、聖霊様に直接来診して戴き、医療処置(霊的取扱い)を受ける必要があります。その時私たちは、素直に「聖霊様!どうか私に、はっきりとお示し下さい。私の心の中にある、如何なる小さな異物も取り除いて下さい!」と、祈り求めるだけでよいのです。私たちが常にへり下って、神の御前に出なければ、それは霊的に「不健全」です。


 神ご自身が用意される、麗しい堅固な「土台(イエス・キリスト)」が、私たちの「霊」の中に、しっかりと据えられるためには、私たちの中にある「暗闇」という異物全てが、聖霊様によって直々取扱われる必要があります。その時私たちは、聖霊様の「取扱い」に対して、「委ねる(捧げる)」という謙虚さが求められます。私たちの「霊」のフィールド、それは「異物」だらけのものです。しかし聖霊様が、私たちの「霊」の中に来て下さる時から、除去処置が施されますから、私たちは安心して委ねて参りましょう!


 「この世」が与える安心保障(保険)、それは霊的には「まやかし(偽装)」であり、一時的な安心に過ぎません。しかし、主ご自身は私たちに対して、決して偽ることなく、永遠に変わることの無い御子イエス・キリストを、しっかりとした「土台(真の安心)」として与えて下さっています。再度繰り返しますが、「全ての安心保障は、イエス・キリストにある!」のです。イエス・キリストを、あなたの全ての「救いの岩(土台)」とする限り、あなたは揺るがされることはありません。イエス・キリストは、あなたを決して見放すこと無く、また永遠に孤児とすることの無い「救いの保障」です。この「イエス・キリスト」を救いの「基礎(土台)」とし、聖霊様が用意して下さる「健やかな取扱い」の時を、へり下って受け取ることが出来るよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!

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