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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.19)

イエス・キリストのEyes⑥


          イエス・キリストの言葉を見なさい



イエスがなお群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」
                                                                                             【マタイ福音書12章46〜50節】


理解し難いイエス・キリストの応答
 今回のストーリーに見られるイエス・キリストは、私たちにとって「イエス・キリストは、何と難しいことを言われる方だろう!」などと思われる、変わった一面を描いています。このストーリーに登場する、イエス・キリストの兄弟と母(マリヤ)は、多くの群集に取り囲まれた、イエス・キリストの御元に、何らかの緊急の用事(用件)を携えて来ました。しかし彼らの訪問は、多くの人々の雑踏の中で無視され、中々イエス・キリストの元に行くことが出来ず、その用件は届けられませんでした。


 そこである人が、イエス・キリストの御元に近づき、彼らの緊急の「訪問」を伝達した訳です。「イェス様、あなたのお母様と御兄弟の方々が、緊急の用事があるとかで、今ここにいらしてますよ!」と。ところが、それに対してイエス・キリストは、私たちの期待とは裏腹の応答を、弟子たちを前にして言い放ったのです。「私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か。・・・・見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」(48〜50節)と。


「古い言葉」の束縛
 私たちの語る言葉の中には、例えば私たちが様々に思い浮かべる、何らかの「概念」や「イメージ」にしても、実はアダム(エバ)の犯した「罪」の結果、それは霊的に束縛された、「古い言葉」に過ぎません!三次元的に理解する限り、イエス・キリストに対して、身内からの緊急の「用件」を届けた弟子たちの行為は、師イエス・キリストから誉められて然るべきものです。彼ら(弟子)の採った行動は、イエス・キリストの「身内」を最優先に思いやる、確かに素晴らしい行為です。私たちが、自分の「家族」を優先すること、これは極当たり前の行為で、人道に沿ったものです。


 しかし覚えて戴きたいことは、イエス・キリストが故郷(ナザレ)において、福音宣教を開始された時、それは「喜ばしい体験」ではなく、逆にナザレの人々から迫害されるという、「悲しい体験」であったという事実です。「家族」というものは、良い面も多くあるのですが、逆に私たちを三次元的に、一番束縛するフィールドにもなります。「家族」は一致団結すれば、、「力」ある業を展開することが出来ます。ところが例えば、私たちの語る「言葉」や、考え巡らす「思い」の中に、悪しき「不和」をもたらすサタンによって、他者から「古い言葉」の攻撃や中傷、偽りの情報(噂)などが入りますと、すぐにも家族の中に骨肉の「争い」が生じるという、弱い一面もあるのです。


 何故「麗しい家族」の中に、すぐ「不和」が生じるのでしょうか?それは、私たちが他人の語る「言葉」を、三次元的に「知る(受け取る)」という、「善悪の木」の実を食したアダム(エバ)の「罪」がもたらす、「古い言葉」の束縛の中に、実は私たちも生きているからです。それ故、私たちは「家族」という概念一つとっても、父なる神の「御心」よりも、自分の「家族」を優先するために、家族の中に現される神の「ご計画」に対して、正しい判断を下すことが出来ません。


 聖霊様が私たちに言われる、「正しい言葉」のイメージは、「いつも新しくなりなさい!」ということです。つまり、父なる神の聖なる「イメージ」の中で、私たちが今まで「家族」に対して抱いていた、三次元的な「イメージ」を、聖霊様によって新しく変えて戴けなければ、私たちは「家族」の方を、ついつい優先してしまうなどの、霊的ジレンマに陥ることになります。三次元的な「言葉」は、ある時は「魔物」のように生きて働き、私たちの「霊」の中心にある、神に対する聖なる「イメージ」を汚し、遂には神の「命の言葉」をも腐敗させます。


 父なる神が与えて下さる、正しい「家族」のイメージが、実はこのストーリーの中で語られる、イエス・キリストの「言葉」と「行動」の中に、霊的に詳しく記述されています。イエス・キリストは先ず、「父の許しが無ければ、私からは何も出来ない!」という、「父なる神」を最優先に考え、その通りに「命の言葉」を語っています。イエス・キリストは常に、一歩下がった者として「父なる神」に服従しました。イエス・キリストが「父なる神」を第一とし、そして次に「何」を優先したのか?これが重要ポイントです。


 私たちは「自分(自己)」という存在を、完全にコントロール出来ないことを知っています。勿論イエス・キリストの「血潮」によって、この「自分(自己)」を聖めて戴き、聖霊様の導きによって支配して戴くことも可能ですが、これも一時的なものです。何故なら私たちは、すぐに聖霊様を運転席からどけて、「私がやります!」などと、自分が運転することを欲する存在だからです。これが私たちの持つ「自分」という、自己意思の現実の有様です。しかし覚えて下さい!イエス・キリストは常に、私たちの「意思」の弱さ全てを、ご存知の方です。


父なる神の「御心」を優先する
 この時のイエス・キリストは、弟子たちの「意思」の弱さに対して、不思議な「言葉」を発しました。「私の母とは誰か。私の兄弟とは誰か。」(48節)と。師のこの「言葉」を聞いて、弟子たちは驚愕しました。「何と冷たい言い回しだろうか!」などと。ところが、イエス・キリストが返答されたこの「言葉」の中に、ある面で私たちに教え示している、重要な奥義があるのです。私たちは何か「問題」が起きる度に、必ず「何故、このような事が起きるのですか?」、「主よ、早くこの問題を解決して下さい!」などと、「事(問題)」の有様(現実)にのみ、焦点(視点)を当てようとしますが、イエス・キリストの場合、彼は私たちの三次元的視点には無い、つまり父なる神の「御心」と、「神の国」の秩序(権威)という、私たちの「意思」を遥かに優った霊の次元の中で物事を捉え、このような不思議な発言を為される方です!


 即ちイエス・キリストは、ご自分が常に優先しているものが、弟子(私たち)の欲している三次元的「要求」よりも、優ったレベルにあることを教え示しています。イエス・キリストが、何よりも一番に欲しておられる「要求(用件)」とは、父なる神の「御心」通りに、自らへり下って「行う(実行する)」ということです。彼は、父なる神の「御心」無くして、自ら何も為し得ないことを、常に弟子たちに教え説きました。「私の母や弟が、要求している次元というものを、父なる神は既にご存知である!それ故、あなた方が言っている要求に対して、私は父の御心を優先する立場にあるから、ちょっと待ってくれないだろうか?私が、今一番に耳を傾けるべき言葉は、父なる神の御心である!」と。


 しかし弟子たちは、イエス・キリストの「言葉」を理解しないまま、続けて三次元的な「要求」をしました。「見て下さい!あなたの母上や弟君が、必死にお願いしている姿を!」などと。するとイエス・キリストは、「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」(49〜50節)と、再び不思議な(理解し難い)言葉を発せられたのです。


 実は、イエス・キリストのこの不思議な言葉の中に、私たちの視点とイエス・キリストの視点に、大いなる差(次元の違い)があることが分かります。悪魔サタンは、目の前の現実の姿(有様)を、極端に「大いなるもの」として写し、私たちの「意思」をイエス・キリストから遠ざけようと、様々に試みて来ます。その時に、私たちはすぐに自分の「経験」や「判断」、そして「古い言葉」から来る三次元的視点をもって、「あー、もう駄目だ!」などと、「自分」という意思が挫ける訳ですが、この時に聖霊様が「ちよっと待ちなさい!目の前の現実に対して、三次元的に直視するのではなく、父なる神に対して御心を示して戴くように祈り、神の国の権威をもって、神の御心を仰ぎ見る!という、信仰を働かせなさい。」と、必死に訴えかけていることに、私たちは気付いていません。


神の「御心」を見せて下さい!
 イエス・キリストの視点というものは、私たちが普段見ているような、三次元レベルを対象としません。彼は、常に私たちに対して「この世の言葉を聞いてはなりません!また、この世の言葉を通して、現実を見てはなりません!あなた方が何を求め、見るべきか?そして触れるべきか?このことを先ず、父なる神に願い求めなさい!」と語りかけています。イエス・キリストは、「誰でも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。」(50節)と述べていますが、この御言葉は同じく弟子ルカの福音書によれば、「父なる神の命の言葉を優先しながら(聞いて)、実際にそれを実行する者のみが、私の母・兄弟(姉妹)である!」と記述しています。


 私たちにとって、この命題は非常に厳しいものです。何故なら、私たちにとって神の「御心」ほど、分かりにくい(捉え難い)ものは無く、理解できないレベルにあるからです。しかしそれ故に、聖霊様がいらっしゃるのではないでしょうか!聖霊様は、私たちの「言葉」の限界を知っておられます。また私たちが、例えば「知っている!」などと主張する、自己の「高ぶり」や「思い上がり」、そして「自尊心(プライド)」の全てを、聖霊様はご存知です。それ故に聖霊様は、私たちがイエス・キリストの如くに、「正しい道」を歩んで欲しく、イエス・キリストの生き方(求める方向性)に見習うことを望んでおられます。イエス・キリストは常に、父なる神の「意思」、そして父なる神から発せられる「命の言葉」が、実際にご自分の歩み(働き)の中に託され、それが神を求める人々の中に、豊かに現されることを求めたのです。


 私たちは確かに、イエス・キリストの「救い」を無償で得ることができ、そして父なる神の「恵み」にあずかっています。ならば私たちは、この時の弟子たちのように、「古い言葉」の罠に陥ることが無く、更に正しい言葉の回復を戴くべく、へり下って「父なる神の命の言葉を、私にも見せて下さい!」と祈り求めようではありませんか!主イエス・キリストの御元に私たちが行かなければ、あなたに与えられている人生の本当の「目的(ご計画)」、そして神があなたに託しておられる、これからのあなたに対する、神の素晴らしい「御業」は見出すことができないでしょう。「父なる神の意思を行う者が、私(イエス・キリスト)の家族である!」と言われた、イエス・キリストの約束の御言葉は、今もあなたに対して投げかけれているものです。あなたも、「神の家族」として更に迎え入れられるべく、私たちの語る(思う)「言葉」が、新しい神の霊的次元の中で回復され、「新しい言葉」を求める飢え渇きが益々起きますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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