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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.26)

                  手取り、足取りの恵み




私たちの先祖がエジプトで苦しんでいるのを見、葦の海で叫び声を上げるのを聞き、ファラオとその家来、その国民の全てに対して、あなたは数々の不思議と奇跡を行われた。・・・・昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、私たちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。あなたは天からシナイの山に降って彼らと語り、・・・・優れた掟と戒めを授け、・・・・彼らが飢えれば、天からパンを恵み、渇けば、岩から水を湧き出させ、必ず与えると誓われた土地に行って、それを所有させると命じられた。
                                                                                                 【ネヘミヤ記9章9~15節】


エジプトからの「贖い」の恵み
 今回記された言葉は、前回に引き続き、八人のレビ人により、「祈り」の告白をもって始まった、数々の「悔い改め」の後に、まるで宝石を展示するかの如き、神の「恵み」と「愛」を表現しています。


 その中で自分たちの先祖が、エジプトの地から贖われ、約束の地(カナン)に導かれたこと、これは偉大なる神の「恩寵(奇跡の恵み)」に他ならないことを、力強く告白しています。如何に「エジプト時代」が、奴隷として苦役の中にあったかを、(私たちも含めて)決して忘れてはなりません。


 彼らの先祖はエジプトに在りし時、決して「鎖」に繋がれていた訳ではありませんが、肉体的にも精神的にも、そして霊的な面においても、「縛り」がありました。何故彼らは、そのような「縛り」の体験を強いられたのでしょうか?それには全て「理由」があります。


 実は私たちも、今回の御言葉に示されている、神の「恵み」と「愛」が、如何に偉大で素晴らしいものであるのかを、明確に知らされる必要があります。「え?私たちは彼ら程の、エジプト的な縛りは無いですよ!」などと弁解しがちですが、彼ら以上に「この世」の縛りが、実は様々な面であるのです!


 しかし覚えて戴きたいことは、私たちは自分の「意志」から、この世に出生し、「今ある地」に住むことを選択した訳ではなく、「神の事実」が常に自分を導いているという点です。そうです!「神の事実」から見る限り、私たちは神の「ご計画」により生(命)を授かり、神の「御心(目的)」通りに導かれているのです。ですから主なる神は、私たちが様々な「縛り」に苦しむのを「良し!」とはされず、必ず贖い出して下さること、これを私たちは信じて告白することが、日々求められているのです。


手取り、足取りの恵み
 私たちは主なる神の、永遠の「救い」の恵みを戴きました。そして更に主なる神は、「この世」という霊的エジプトを、私たちが一歩一歩進み行く中においても、私たちは気付いていませんが、「御目」をもって毎瞬単位で、見守り続けておられます。何故なら私たちは、幼児の如くに霊的に「転んだり(倒れたり)」、「ぶつかったり」するなどして、必ず「怪我する(傷を負う)」からです。


 そうです!私たちは自分の力で、毎日を生きている!と錯覚しがちですが、実は聖霊様の絶えざる「導き」の中で、毎瞬生かされています!即ち私たちは、目に見えざる神の「事実」によって、霊的に「かくまわれ(捕えられ)」、「導かれている」のです。そういう意味で、私たちが日々与えられる、神の「恵み」を体験し、かつ確認して行くことが、実は問われています。これが今回の「祈り」の告白になります。


 主なる神は、実に「母親」が幼子を導かの如くに、「手取り」「足取り」の恵みをもって、様々に手(足)助けをして下さいます。主なる神の「手取り」「足取り」の恵みとは、具体的に如何なる「働き」を指すのでしょうか?主なる神の「働き」は、エジプト(この世)で苦しむ私たちを、先ず「見る」(9節)ことです。母親は幼子の(危っかしい)行動ばかりではなく、先ずその子の目に注意を注ぎます。幼子の目から放つ「心の訴え」を、何とか見出そうと思うからです。


 そして次に、叫び声を「聞く」(9節)ことです。この主なる神の「御目」と「御耳」の働きを、私たちは余り意識することがありません。何故なら「その時」、私たちは主なる神の「存在」を、遠いものとして忘れているからです。逆に言えば、近い(親しい)存在として、常に意識しているのであれば、見つめられていること、聞いていて下さることを、絶えずキャッチできます。


 私たちは、実際上の「歩み」において、また信仰生活の「歩み」においても、霊的な父親である神に向かって、何らかの霊的シグナルを発しています。その時に聖霊様は、このシグナルを毎回見(聞き)逃すことなく、多いなる「恵み」の中で導いて下さっているのです。


 つまり助け主なる聖霊様が、私たちの一つ一つの歩みの中に、霊的シグナルを主なる神に向かって、安心して発信するよう促されているのです。私たちが霊的に正しく歩むためには、閉じこもったり、引きこもったりするなど、否定的な信仰に陥るのではなく、主なる神の「御目」と「御耳」、そして何よりも聖霊様が聞き届けて下さることを信じて、今回の「祈り」の告白を発しましょう!


 そうすれば主なる神は、実際に「事」を働かせるべく、先ず①昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、私たちを導いて下さいます(12節)。この「導く」という、主なる神の大いなる「働き(務め)」が非常に重要となります。例えば「親」の最大の務めは、「子」を正しい方向に導く(lead)ことです。


 続いて主なる神は、②天から降って来て、必ず私たちに対して語られます(13節)。そうです!聖霊様は緊急事態の時には、必ず様々な「啓示」や「預言」をもって、私たちに具体的に語られるのです。


 そして最後に主なる神は、私たちに対して惜しみなく、③「天上」の恵みを与え続けて下さいます(15節)。ある面で主なる神は、母親が惜しみなく育児に「命」を注ぎ出す如くに、私たちの事を絶えず抱きかかえ、天の糧を与えて下さいます。


 このように、私たちは決して「孤児」ではありません!聖霊様が常に、私たちの「霊」の只中に住まわれ、最高のガイダンスとして導いて下さり、私たちの背後では「御使い」が、悪しき敵の攻撃の全てから、絶えず防御していて下さいます。これらは全て、主なる神の「手取り」「足取り」の恵みです!


 私たちは中々、神の「恵み」を見出すことの出来ない、不信仰な弱き者でありますが、聖霊様の導きに従って、少しずつ「祈り」を告白することで、主なる神の「御目」と「御耳」、そして更に「御手」と「御足」の動きを確認することが可能になります。この確認していくという信仰の作業(務め)を、常に為して行かない以上は、私たちは霊的「大人」に達することはありません。


 そういう意味で、私たちが信仰をもって、神の「恵み」を確認して行くのであれば、如何なる荒れ果てた中にあっても、必ずそれを霊的に建て直し、破れを繕う神の働き人として、あなたは召し出されて行くのです!また主なる神が、あなたを「この世」に霊的に産んだ以上、あなたが必ず霊的「大人」に達するべく、「命」の限りを尽くして、その責務を全うされるのです!


 あなたが益々、主なる神の「手取り」「足取り」の恵みを、常に体験し確認することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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