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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.33)

                     神の宮に必要な供え物




・・・・トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、・・・・祭司のための礼物を納めることになっていた、その大きな祭司室をトビヤのために流用した。その頃、私はエルサレムにいなかった。・・・・エルサレムに帰り、エルヤシブが・・・・行った悪事を知った。私は非常に憤り、その祭司室からトビヤ家の器具類を全て外に投げ出し、その祭司室を清め、そこに再び神殿の祭具と見供物の献げ物と香を納めることを命じた。
                                                                                   【ネヘミヤ記13章4~9節】


ネヘミヤの第二の「改革」
 ネヘミヤは様々な改革を経る中で、いよいよ本丸、即ち「神の宮」の只中に蔓延る、悪しき慣例・習慣・行い等の、霊的一掃(改革)に邁進する決断に至りました。これは彼自身が、エルサレム城及び神殿の再建に、着手してから12年後のことでした。


 今回の記事に登場するエルヤシブは、ユダヤの祭司の1人です。その彼が、何故敵の策略に乗せられて、不正を働かせるに至ったのでしょうか?その理由がアンモン人のトビヤたちと、何らかの「縁(つながり、付き合い等の関係)」があったことです。


 以前からエルヤシブは、神殿の祭具・供え物等を収納する、数々の「祭司室」の一つを私物化していて、愚かにもある時、トビヤのために流用したのです。それ以来トビヤは、「しめた、これぞチャンス!」と喜び、聖なる神殿にズカズカと乗り込んで、自分の私財等を運び入れることを繰り返しました。つまり至聖所を中心とする、「神の宮」に汚れた者が侵入するという、霊的に非常事態が起きていたのです。


 このことを何故、ネヘミヤが気付かなかったのでしょうか?敵は「狡猾さ」を併せ持つ、世的な「賢さ」があることを、私たちも気付くべきです。恐らくネヘミヤが、「総督」の慣例業務として、約一年程ペルシャに帰還した時に、このことが為されたものと思われます。


 しかしある時、遂に部下からの「報告」で、この事案が露見しました。するとネヘミヤは、烈火の如くに怒りました。「何!あの同志と信じていたエルヤシブが・・・・。」と。しかし彼は、エリヤシブの「不正」を暴くべく、権力をもって「お縄頂戴」することはしませんでした。


 彼はその日から、神の御前に跪いて「祈り」を捧げました。「主なる神よ。どうしたら聖なる場所が、元に戻るのでしょうか?一つの汚れが、あらゆる場所を腐らせ、不浄な流れをもたらしています。」と。


「神の宮」に必要なものとは?
 すると聖霊様は、激しく祈り求める彼の「霊」に、一つの「知恵」を授けました。それは「神の宮に、一番大事なものは何なのか?」という、霊的問いかけでした。


 正しい「裁定」の方向性を示された彼は、直ちに第二の「改革」として、「神の宮」の霊的汚れを、隅々までクリ-ンアップするべく、先ず「不要物(神の宮に相応しくない物)」等を、完全に撤去しました。当然エルヤシブ管理の「祭司室」も、その例外ではありません。


 さて今回の事件は、実は私たちの信仰の歩みの中にも、悪魔サタンの仕掛ける、巧妙な策略を通して、いつでも「狐」の如くに近寄り、最終的には私たちの「霊」の中心、即ち御子イエス・キリストが座すべき場所に、私的「汚れ」を置く(納める)!ということを、霊的に教え示しています。


 ネヘミヤ同様、私たちもそれに気付きません。何故なら、私たちは「狐」の行動を、猟犬(大型犬も含む)や狼の如くに捉えることは無く、むしろ油断する程の愛着感をもって見る、その感覚に似通っているのかも知れません。しかしイエス・キリストは、葡萄園の「喩え話」の中で明言しています。「狐には十分注意しなさい!」と。


 またイエス・キリストは、エルサレム神殿の境内にて、「あなた方の宮を、強盗の巣にしてはならない!」とも命じています。即ち、強盗がいつでも侵入し、様々に変装しては善人づらを装う。そしていつしか「宮」の中心に居座る!ことを警告しています。


 聖霊様は、私たちにも問いかけます。「主なる神が住まう、私たちの霊(宮)の中心に、あなたは常に何を収納していますか?」と。すると私たちは、躊躇なく「勿論、それは神の命の言葉です!」、「神に対する愛です!」等と答えるでしょう。


 しかし覚えて下さい!私たちの「霊」の中には、本来一つの「ル-ム(神の宮)」で十分です。しかし気付かない内に、様々な「ル-ム」を用意するのが、私たちの罪の習慣でもあります。そして今回のエルヤシブとトビヤの如くに、悪しき者は「狐」を装って侵入し、「祭司室」の一つを流用して、私財(私的供え物)を運び込んだり、神殿の捧げ物の一部を盗むのです!


 何度も言いますが、トビヤの「行動」の全てが、霊的には「強盗」を指しています!「強盗」は必ず、私たちキリスト者をたぶらかし、「この世」と妥協させるべく、霊的「縁者」になろうと近付きます。仮に私たちの「霊」の渇きよりも、私的「思い(肉の意志)」が増している場合、それは敵の侵入を許していると言えます。そして私たちの「思い」が、この世の事に浸されて行く時に、自分で自分の「決まり」を造ろうとするなど、これが「強盗の巣」を指しています。


三つの「供え物」
 トビヤにとって神殿の「祭具」は、全く関心がありませんでした。彼にとって一番重要なもの、それは奉納物である「穀物」と、多額の「神殿税(献金)」でした。この時聖霊様は、直ちにその不正(汚物)を一掃すべく、ネヘミヤに「とにかく聖めよ!」と命じたのです。その結果、トビヤに組していた「一団(神殿のスタッフ)」の不正が暴かれ、彼ら及び私財の全てが神殿から撤去され、その後ネヘミヤは「祭具」、「穀物」の献げ物、「香料」を本来あるべき場所に戻しました。


 先ず「祭具」とは、霊的に「私たち自身」を指しています。第二の「穀物」の献げ物とは、私たちが如何なる状況にあっても、主なる神の「恵み」を常に感謝することです。最後の「香料」とは、私たちが捧げる「賛美」と「祈り」の香りです。この三つを、「神の宮」において、正しく収納する(捧げる)ことが、私たちが本来為すべき基本的礼拝です。


こういうわけで・・・・自分の体を神に喜ばれる、聖なる生贄として献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
                                                                                    【ロ-マ書12章1~2節】


 私たちが神に対して、「ありのままの自分」を捧げる時、私たちの「心」ばかりか「霊」の全てが、聖霊様の取扱いの中で、必ず聖められて行きます。しかし覚えて下さい!同時にサタンは、トビヤ(狐)を用いて、私たちの中に働きかけます。


 ですから私たちは、私たちの「霊」に侵入する「狐」を、心を新たにして自分を変えていただきつつ、常に見張り続けましょう!私たちが、自分の体を神に喜ばれる、聖なる生贄として献げ尽くす時に、全てが大切なものとして、霊の只中に納められて行くのです。


 「この世」という、慌ただしい汚れた流れの中にあっても、あなたが聖霊様の聖い流れの中で、日々心を穏やかに過ごし、イエス・キリストの御名を高らかに賛美し、真実の礼拝を捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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