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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.35)

                     祝福に至る唯一の門




またその頃・・・・人々が安息日に・・・・あらゆる種類の荷物も同じようにして・・・・エルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、私は彼らを戒めた。・・・・私はユダの貴族を責め、こう言った。「何という悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。・・・・あなた達は安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」そこで・・・・私はその扉を閉じるように命じ、安息日が過ぎるまで、それを開けないように言いつけ・・・・部下をその門に立たせ、安息日には荷物が決して運び込まれないようにした。・・・・また・・・・レビ人に身を聖めて門を守り、安息日を聖とするように命じた。
                                                                                   【ネヘミヤ記13章15~22節】


ネヘミヤの第四の「改革」
 今回の記事のキ-ワ-ド、それは「とき(時間)」です。そして、ネヘミヤが断行した第四の改革が、「安息日」という神が定めた「時」に関することです。何と愚かにも、外国人ならいざ知らず、イスラエルの民が堂々と、「安息日」を商売の時としていたからです。


 ネヘミヤは、自分たちの先祖の罪が、如何なる事から始まっているのか、即ち神が忌み嫌う悪しき「汚れ」を、聖所(神殿)に持ち込み始めたことによる!ことを、十分に知っていました。


 ネヘミヤは数々の改革を通して、「神の宮」に関しては、次々と聖めてきた訳ですが、人の「動き」に関しては、手つかずの状態でした。ご存知のように、人の動きを支配するのは「時間」です。本来ならば、「時間」を創造された神の法則に、私たちが従うのであれば、週の始めの日、即ち「安息日」を尊ぶ(何よりも優先する)ことが、すんなり出来るはずです。


 ところが現実は、多くの日本人が無意識の内に、ある勘違いをしています。週の始まりは「月曜日」である!と。しかし、主なる神が示している、「時間」の法則に関して、私たちが正しく知るのであれば、神の祝福の次元に立ち返ることが出来るのです!


 ネヘミヤが着手した第四の改革とは、「時間」の聖別です。ご存知のように「時間」は、私たちが「何」に重きを置くかによって、その使い方が変わってきます。ある者は「時間」が勿体ないからと言って、一生懸命に働きます。さて私たちが、本来は神の次元にある「時間」の中に、自分自身を置くのであれば、毎瞬・毎時・毎日が素晴らしい「神の時」です!


安息日を「聖」とする
 ですから、主なる神が定めた(休まれた)第七の日(主日)を、私たちが「安息日」として聖別するのであれば、神の麗しい次元が必ず現れます。しかし、この日を商売の時として、即ち一番の「儲け時」として、人の次元を優先させると、今回の如き「神の宮」が汚される事態に陥るのです。


 たとえエルサレム神殿が、外見的に再建されたとしても、霊的に「神の宮」が汚れた状態にあるのであれば、異教の力によって、再び内側から霊的に破壊されることに、彼らは気付いていませんでした。つまり内側の至聖所である、主なる神との「親しき交わり」の時を後回しにして、「商売の時」を優先する限り、それは異邦人の好む「偶像崇拝」と何ら変わりません。


 復習になるかも知れませんが、「安息日」とは如何なる時でしょうか?新共同訳聖書では、「この日(第七の日)に、神は全ての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し聖別された。」(創世記2章3節)と記され、つまり主なる神が、「第七の日」という時間の全てを、自らが祝福した!と明確に述べています。それも「時間」に対して、生きた生物の如くに、「第七の時間よ、お前に私の祝福を授ける!」と。


 続いて主なる神は、更に「第七の時」に対して、「お前を、神の時として聖別する!」と命じられたのです。本来であるならば、神ご自身が「聖なる方」であり、神が創造された「時間」も聖い訳ですから、いちいち聖別する必要はありません。と言うことは、神の創造した「時間」の全てが、ある対象者、即ち「人」のために存在するからこそ、その用途如何によっては、汚されることを物語っています。


 ご存知のようにペットは、いちいち「神の時」を気にしながら、生きてはいません。「時間」を気にしながら生きる動物は、そう!私たち「人間」だけです。勿論彼らにも、彼らなりの「寝食の時」、「盛りの時」等がありますが、私たちみたいに「休みの時」、「祝福の時」等の概念はありません。


 と言うことは、主なる神が定めた「第七の時」、即ち「安息日」の時は、私たちにとって、物凄く祝福される特別な時であり、一週間の中でこの日が、祝福されるための「最高の時」です!如何なる者も、神が定めたこの「安息日」に、自らを置く(横たえる)のであれば、必ず祝福される時になります。また身を置いた者に対して、神は「聖い者!」として宣言されるのです。


祝福に至る唯一の門
 具体的に私たちは、この「安息日」という、神の麗しい次元の時に中において、自らの「信仰」行動を、今までと違った形で変える必要があります。その方法は、一つしかありません。そうです!神の祝福に至る「門」は唯一つです。この唯一の方法を、私たちが信仰をもって求める(行動する)こと、これが重要となります。


 ネヘミヤが実際に改革した信仰行動、それは安息日に①エルサレムの「城門」の全てをシャットアウトし、②それを終日開けることなく、更に城門の全てに③見張り(監視役)を配置させたことです。霊的にエルサレムの「城門」は、私たちの生活圏の全てを意味します。時間、労働(勉学)、計画、業務等のことです。


 さてあなたは、この霊的「城門」の全てを、安息日に見張っていますか?そして「世的な汚れ」が侵入すること無きよう、常にシャットアウトしていますか?そして何よりも重要なこと、即ち至聖所に至る「唯一の門」を通り、主なる神との「親しい交わり」を、最大の祝福の時として聖別していますか?


 「安息日」に関して、主なる神が聖霊様を通して、私たちに対して強く促されることは、第一に①「自分の時間」、「自分の計画(予定)」、「自分の願い」等をシャットアウトする(捧げる)!こと、次に捧げた以上は、それらを②開けてはならない!こと、最後に③霊的見張人である聖霊様に委ねる!ことです。この三つの「ご命令」を守ることで、私たちの目前に「唯一の門」が、必ず見えてきます。


 そうすれば、たとえ如何なる事が「安息日」に起きたとしても、「私はこの日(時)を聖別したから、必ず祝福される!」という、上(天)よりの大いなる「信仰」が注がれるのです。


 憶えて下さい!私たちの「祈り」の時と、「礼拝」の時を奪うのは、全て悪霊の働きによるものです。しかし私たちの助け主なる聖霊様は、今回のネヘミヤの如くに、緊急的に「直ちにシャットアウトしなさい!」と、私たちの全生活圏に働かれます。また「開けてもならず、あなた自身を神の時間の中に、ひたすら置き続けなさい!」と、強く促されるのです。


 主なる神の豊かな「祝福の時」が、あなたの全てを支配し、あなたが神の「安息」の中に、喜んで(進んで)身を投じることの出来る、賢いキリストの花嫁へと、聖霊様の取扱いによって整えられ、かつ聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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