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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.21)

                       とこしえに良き神




                                               恵み深い主に感謝せよ。
                                               慈しみは、とこしえに。
                                                                      【詩篇136篇1節】


「時」が良くても悪くても・・・・
 私たちは「時が良くても悪くても・・・・」という御言葉のフレ-ズを、十分過ぎる程知っています。つまり「時」の良し悪しに関わらず、私たちが為すべき、聖なる務めがある!という意味です。今回の御言葉を直訳しますと、「私たちは絶えず、主なる神に感謝の生贄を捧げよう。何故なら、主なる神は良き方であり、神の愛はとこしえであるから。」となります。


 実はこの「とこしえ」というイメ-ジが、非常に重要となります。「ある時」だけが良き方であるなら、私たちは「神様も私たち同様に、いい加減な方であるから、あまり(ずっと)信頼できないね・・・・」などと、その信じる度合いが低くなります。しかし覚えて下さい!私たちの信じる真の主(神)は、「常に(とこしえに)」変わること無き方です。


 それ故私たちが能動的、かつ積極的に「感謝」の生贄を、如何なる時にも捧げるのであれば、必ず「神の時」が始まる、即ち「とこしえの神」が、私たちに対して「良きこと」を為されるのです!しかし私たちは、全ての事において「感謝」を捧げることが出来ない、霊的「弱さ」があることも、素直に認めましょう。これが今回の御言葉の第一の奥義です。


 主なる神は、そのような私たちの「弱さ」を、常にご存知の上で、私たちに対して、「弱さ」を乗り越えることの出来る、神の領域へと導いて下さいます。例えば肉的な「感謝」は、良きことが起こった時だけに、私たちの魂的な領域から生じる感情です。これは誰もが為し得る行為(表現)です。ところが、真実の「感謝(喜び)」を捧げることは、肉的には為し得ない霊的生贄です。


 罪に満ちた私たちの「霊」の中からは、この真実の「感謝」の生贄が産まれないことを、主なる神は十分にご存知の上で、助け主「聖霊様」を遣わして下さっているのです。ですから「時が良くても悪くても・・・・」とは、私たちに義務的に課した言葉(命令)では、決してありません!


 再度繰り返しますが、だからこそ私たちは、自分の霊的「弱さ」を認めましょう。「感謝」を捧げられない時もある!それが自然な私たちの姿です。そのような「悪しき時」と思える場合に知る「神の愛」、これが今回の御言葉の第二の奥義で、実は非常に重要な霊的成長の「糧」となります。


放蕩息子が知った「神の愛」
 では「悪しき時」に知る神の愛とは、具体的に如何なる「愛」でしょうか?私たちの本音としては、「悪しき時」という体験を望みません。しかし、やはり現実は「悪しき時」の経験の方が、「良き時」よりも多いです。


 放蕩息子の「喩え話」に登場する父親は、恐らく二人の息子に対して、信仰上の大事な指針を常々語っていたはずです。「主なる神の恵みを知ってこそ、自らの人生の意義が見出されるのだ。それ故、如何なる時にも、創造主なる神を崇め、目の前の状況を感謝して受け留めなさい。たとえそれが悪しき時のように思えたとしても、その中にある神の御心を先ず求めなさい。そうすれば、神の御心が必ず現れ出て、それが自分の人生の豊かな導き(指針)となるはずだ。」と。


 そして放蕩息子(弟)は、最悪の状況下(悪しき時)に置かれた時に、父親の言葉が思い起こされ、父のもとに居た頃の「恵み」を、改めて知った(知らされた)のです。即ち「父の言葉を信頼し、その言葉に対して素直に聞き従いつつ、感謝を捧げるのであれば、如何なる時にあっても、そこは最良の我が家(父の家)である!」と。そして父のもとに、「下僕」として帰還する生き方を選択(決断)をしたのです。


 この「放蕩息子」の喩えでイエス・キリストは、「父なる神の愛は不変である!」ということを、私たちに教え示しています。では、何が変わらないのでしょうか?それは単純に言えば「常に(とわに)かつ無条件で、あなたを愛している!」ということです。


 余談になりますが、私は明確に次の如き「証言」を、五十年の歳月を経て、ようやく告白できるようになりました。「私の人生の9割以上は、失敗だらけのものであった。しかし、その失敗だらけの私を、主なる神は忍耐の限りを尽くして、今も尚愛して下さり、かつ取扱っていて下さる。何と主なる神は、その失敗を益として変えて下さり、今も私の傍らで生きて働いて下さる。だから(捧げ得るものは)感謝しかない!」と。


「とこしえ」に良き神
 ところで私たちは、自分の人生を振り返る時に、「放蕩息子(弟)」よりも、「兄」としのて部分が多くあったことに気付かされます。しかし「今」は、「放蕩息子(弟)」として、真の父(主なる神)の御前で、如何に自分が愛されている御曹司であり、いつでもその貴い「御恵み」にあずかれる者であるかを、人生の最終段階(父の御元)で知らされています。それ故に、「時」が良くても悪くてもという、霊的次元の中において、主なる神が「とわ(とこしえ)」に、私(あなた)を取扱って下さっているのです。


 人の目に「失敗」と見える人生を、主なる神は尚も取扱い、ご自分の「愛」の中へと導くべく、ねんごろに取扱って下さいます。それ故「失敗」だらけの人生を、必ず「益(良きもの)」として造り変えて下さる、「とこしえ」に良き神であることを、私たちは信じ求め続けましょう。また主に感謝しながら前進しましょう。神は必ず私(あなた)を、有益な者として完成して下さいます!


 結論になりますが、詩篇136篇1節の御言葉は、一つの霊的な信仰の扉(入口)です。私たちの主なる神は、(他人が)何と言おうが「良き神」です!また不変の神、即ち常に変わることの無きお方であり、とわにあなたを愛し守り、そして最終的には愛する、イエス・キリストの「花嫁」として、霊的に仕立て完成して下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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