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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.20)

                 神の「第三のリフォ-ム」




・・・・ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右の手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。・・・・ヨセフは父に言った。「父上、そうではありません。・・・・」ところが父は、・・・・「いや、分かっている。・・・・弟の方が彼(マナセ)よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。」
                                                                                                       【創世記48章12~19節】


神の偉大なる「ご計画(シナリオ)」
 奴隷としてエジプトに売られる前、ヨセフの見た第二の「幻」は、太陽と月と十一の星が、自分の方に向かってひれ伏す!という、第一の「幻」とは違った、具体的な「数字」の付く描写が示されました。彼が皆の前で、二つの「幻」を披露した時、父ヤコブは「お前は兄弟ばかりか、私と妻まで馬鹿にするのか!」と、彼に対して怒りを顕にしました。つまりヤコブは、自分を「太陽」、そして妻を「月」として解釈した訳です。


 しかし、果たしてそうでしょうか?今回の記事の中には、いよいよ第二の「幻」が実現する、その偉大なる神の「ご計画」が、具体的に描かれています。不思議な事ですが、実際上は記事の中に、「兄弟」の姿(存在)が描かれていません。彼と共に居る者は、父ヤコブと自分の二人の息子(マナセとエフライム)の、計4人の面々です。


 今回の記事に関して、私たちが憶えておくべき「神の事実」、それは今回の出来事「以前」、そして「以後」の全てを調べてみても、第二の「幻」が実現している記事が存在しない点です。と言うことは、今回の出来事には、私たちが霊的に正しく知る(理解する)ことで、主なる神の驚くべき「ご計画」が秘められているが故に、私たちも自分の「人生」の全てを、創造主に委ねる(明け渡す)ことで、素晴らしい神の次元の中に、私たちもあずかり、日々感謝することが出来るのです!


 ご存知のように、ヨセフが父親と再会した時、実際にはヤコブは彼を拝んではいません。むしろヨセフの方から、待ち望んでいた父親の前で泣き崩れ、老いた父親をいたわる格好で、優しく抱きかかえたはずです。つまり第二の「幻」通りには、全員が彼を拝むスタイルにはなっていません。


 さてヨセフは今回、第二の「幻」に関して、如何なる「シナリオ」を描いていたのでしょうか?それは父親ヤコブ、そして継母(ヤコブの妻)、兄弟たち全員が、自分の元に来て謝罪することで、「再会」を祝福し合う、そんなハッピ-・エンドでした。そのシナリオの中で、特にヨセフは自分の長子(マナセ)を先ず(第一に)、ヤコブから直々に祝福してもらう!という、特別のシナリオも描いていたはずです。


 ところが、彼のシナリオ通りには進みませんでした。二人の息子(ヤコブにとっては孫)を前にして、何を思ったのか定かではありませんが、ヤコブは両手を交差しながら、つまり右手(祝福の手)は「エフライム」の頭に、左手は「マナセ」の頭に、萎えたように見える両手を、二人の上に同時に置いた訳です。


 当然その様子を見ていたヨセフは、突然の出来事に驚きました。そしてヤコブが、マナセとエフライムに対して、神の「祝福」を祈り始めた時、思わずヤコブの右手を掴んで、その右手をマナセの頭に、持っていこうとしたのですが、全く動きません。つまり物凄い神の御力が、ヤコブの両手に漲(みなぎ)っていた為、ヨセフには何も出来ませんでした。


 そしてヤコブが「息子よ、(お前が言いたいことは)分かっている。しかし、これが神の為さる方法なのだよ。」と言った瞬間、ヨセフはその場に崩れ伏しました。つまり自分の描いていた「シナリオ」が、もろくも破り裂けたからです。


ヤコブの為した「交差(クロス)」
 私たちが世に産まれる以前から、主なる神が計画しておられる、その「御心(神のシナリオ)」は、私たちの「思い(人のシナリオ)」を、遥かに優った次元の中で働いています。そしてそれが何の為にあるのか?という点が、非常に重要となります。


 私たち一人一人の「人生」を考えてみて下さい。「あ-!あの時・・・・だったら、こういう人生のシナリオがあったのに。」などと、自分の人生を振り返りながら、シナリオの「書き直し」を図る習性があります。ヤコブの人生もヨセフの人生も、まさしく私たちの人生を物語っている、言わば「雛形」です。


 「人」という生き物は、自らの「欲望」と「願い」を基準にして、様々な人生のシナリオを描きますが、その殆どが「徒労(失敗)」に帰します。その時に、私たちキリスト者が学ぶべきポイント、それは「神のシナリオに対して、私たちは決して修正(書き直し)をしてはならない!」ということです。


 ヨセフは自分の目の前で始まった、神の「シナリオ」の現れ(神の事実)に対して、到底受け入れることが出来ませんでした。彼の描いていた「シナリオ」とは、全く逆(正反対)の展開だったからです。


 ところで、「太陽」と「月」の関係を考えてみて下さい。その現れ方(明りとしての存在)は昼が「太陽」、そして夜が「月」ですが、関係性は「太陽」の光があっての「月」の光です。即ちヨセフが、父なる神から示された第二の「幻」の奥義は、「太陽」がすべての光の源であると同時に、「月」も夜の光の源である!という点です。そして「太陽」と「月」、お互いが各自の「時」の中において、光の源として地上の生物を導いています。


 と言うことは、十一の星々がヨセフの兄弟を指すのであれば、「太陽」と「月」は、「マナセ」と「エフライム」の関係を表しています。そして十一の星々、及び「太陽」と「月」が拝んでいるシ-ンは、決してヨセフに対して拝むことを意味するのではなく、ヨセフの背後で働かれる、偉大なる神に対して礼拝し続ける、つまりイスラエルの「将来」に対する預言的啓示です。


 ですから、ヨセフが描い(期待し)ていた「マナセ」が、人のシナリオを表すのに対し、父ヤコブが右手を置いた「エフライム」は、神のシナリオを表しています。そしてヤコブが両手を交錯した、その不思議な奥義とは、主なる神の「ご計画」のみが、私たちの全てを支配し、人生そのものばかりではなく、私たちの全人格的な領域にまで、聖霊様による「聖め」の働きを始められ、そして遂には完成に至らしめるなど、豊かな「祝福(結実)」を用意して下さることを物語っています。


 私たちには、自分の意志(欲)から描きたい!と望む、霊的弱さが多くあります。しかし私たちは、霊的にはイスラエルの民同様に、主なる神の「贖われた民」として、イエス・キリストを長子とする、「神の家族」の一員です!それ故に、あなたの右手に力強く持つ、ペン(或いは絵筆)を放棄しましょう!そして、あなたの左手に与えられる、神のシナリオに期待し、日々感謝の生贄を捧げて参りましょう!


 そうすれば、これから如何なる事が起きるのか、全く分からない時代の中にあっても、唯一の「希望の光」、即ちイエス・キリストが、あなたの人生に渡って、永遠に灯し続けて下さいます。そしてあたなは、神の偉大なる「シナリオ」通りに、必ず大きく拡大して行きます。主なる神の豊かな「油注ぎ」が、あなたの信仰生活全般に、素晴らしく満ち溢れることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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