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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.36)

                             満願の献げ物




イスラエルの家の人であれ、イスラエルに寄留する者であれ、満願の献げ物或いは随意の献げ物として、焼き尽くして捧げる時は、主に受け入れられるように傷の無い牛、羊、山羊の雄を取る。あなたたちは傷のあるものを捧げてはならない。それは主に受け入れられないからである。・・・・牛や羊で手足の不釣合いのものや、発育不全なものは随意の献げ物とすることはできるが、満願の献げ物としては受け入れられない。
                                                                                                        【レビ記22章17~23節】


「満願」の献げ物とは?
 「満願」の献げ物とは、如何なる献げ物のことでしょうか?新改訳では「誓願」の献げ物と訳していて、何となくその「意味(イメージ)」が浮び上がってきますが、実は「誓願」という本来の言葉は、二種類の方向性によって、その意味合いが変わってきます。


 ご存知のように「願い(願望)」には、第一に私たち自らの「意志」や、「欲望」から生じるものがあります。そしてこの場合の「願い」は、私たちの自由な「意志」から、その都度発しているので、これを「随意」と言います。それに対して第二の「満願」とは、誓うという能動的な意味合いを持っていることから、強い「意志」を相互に交わすものというイメージが、色濃く生じてきます。つまり、献げる側(甲)と受ける側(乙)が、相互に信頼し誓約(契約)し合う「献げ物」、これが「満願」の献げ物です。


 ですから、今回述べられている「満願」の献げ物は、随意的なものではなく、主なる神(乙)に「私は必ず・・・・しますので、どうぞお願いします(受け取って下さい)!」と、献げる側(甲)が申し上げた以上、「甲」としては約束の実行(約束事を果たすこと)が、同時に伴ってくるのです。


 私たちはどちらかと言えば、「随意」の献げ物を捧げることが多いです。例えば「困ったこと」が生じたり、「苦難(悲しみ)」や「大事(問題)」が降りかかって来た時に、「主よ!どうか・・・・して下さい」などと、すぐに随意的な「お願い」の祈りを捧げます。それに対して、この「満願」の祈り(献げ物)は、その「願い(祈り)」が聞き届けられ、主なる神が応答して下さった場合には、私たちの側からも「必ず・・・・します!」という条件も、祈りの項目に付け加えなければならないのです。


キリストの道
 ところで私たちは、日本人キリスト者として生まれた以上、聖霊様が常に私たちの「霊」に、次のように語りかけています。「あなたはこれから、どのように生きるのですか?又、何を為すべきですか?そのことを主なる神に、正式な満願の献げ物として捧げなさい!」と。ところが私たちの中には、はっきり申し上げて、その「満願」の献げ物(祈り)がありません。


 覚えて戴きたいことは、主なる神が私たちに対して、いつも要求される「満願」の献げ物とは、目に見える「献金」や「奉仕(務め)」という、三次元的なものではありません。主なる神が「条件」として、私たちに示す「満願」の献げ物、それは「傷も無く、何ら欠陥無き献げ物」です。ちなみに「随意」の献げ物に関しては、何ら「条件」がありません。


 私たちが、不信仰から「不平」をこぼしたり、信仰の道から落ちこぼれ易い者であったとしても、主なる神は私たちの「随意」の祈りに耳を傾けて下さり、「救い」の御手を伸ばして下さいます。しかし「満願」の献げ物に関しては、「条件」としては簡単な文言ですが、実際に「傷の無い牛(羊、山羊)の雄」で、「欠陥が一切無きもの」を、「群れ」の中から捜し出すのは至難の業です。自分の持てるものの「全て」から、「最上のもの」を選ぶことは出来ますが、それが少しでも「条件」にそぐわない場合に、捧げることが不可能になるからです。


 このことは、私たちが「キリストの道」を歩んで行く過程で、最終的に「如何なるキリスト者としてのゴールに達するのか?」、これが問われてくるのではないでしょうか。はっきり申し上げて、私たちはイエス・キリストと同じ「道」を、歩める者では決してありません!仮に、私たちに示される「キリストの道」が、イエス・キリストと同じものであったなら、殆どのキリスト者が脱落(落第)します。


 しかし覚えて下さい!私たちが霊的に「欠陥」だらけで、「傷」の多いキリスト者であったとしても、キリスト者としての最終ゴールを、父なる神はあえて用意して下さいます。私たちの愚かな「目」には、「傷」と「欠陥」だらけが見える者(自分の姿)であっても、イエス・キリストがご自身の「血潮」を、それらの上に注いで下さいます。


 そして、私たちがイエス・キリストの、贖いの「血潮」を注がれた者として、大胆に至聖所の奥深くへと進み出る時に、主なる神は私たちを見て、「おー、何と麗しい者か!傷も欠陥も見当たらない、本当に純真な子羊である!」と受け入れて下さるのです。それ故私たちは、実はイエス・キリストご自身が、私たちの霊的な「先駆者」として、主なる神に対して「満願」の献げ物を、捧げられた第一人者であることを、改めて知る必要があります。


イエス・キリストの捧げた「満願」の祈り


「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
                                                                                                     【マタイ福音書26章42節】


 この時のイエス・キリストは、物凄い「死」の恐怖の最中にありました。その「死」の恐怖とは、「病死」や老衰による「死」、また突発的な「事故死」などに対する、恐怖の類ではありませんでした。それは間近に迫り来るもので、公衆の面前で裸にされ鞭打ち刑を受け、その後に十字架上に五寸釘で「磔(はりつけ)」にされ、最終的にわき腹を槍で突き通されるなどの、「極刑(死刑)」に対する目前の恐怖です。


 それに対して主なる神は、「あなたを通して、傷と欠陥だらけの人々を贖うべく、無傷かつ純真無垢のあなた(聖なる子羊)を、直々に選び召し出したのだ。あなたの十字架による贖いの死、それが父としてあなたに与える、私の願い(杯)である!」と、イエス・キリストに念を押したのです。


 父なる神の「杯」を指し示された時、イエス・キリストは「私が(あなたの杯を)飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、私は必ず飲むことを決断(実行)します!それ故に父なる神よ、どうかあなたの救いの御業を、全ての人々に漏れること無く、必ず現して下さい!これは、私とあなたとの約束事ですから、父よ!私もあなたに対して、この約束を果たします!」と応答しました。


 私たちは、はっきり申し上げて、「父なる神」と「イエス・キリスト」との、このような揺ぎ無き信頼関係に立つ、「祈り(献げ物)」のレベルには至っていません。私たちの「祈り」の殆どが、「随意(一時)」的なものです。しかし聖霊様は、いつも私たちに対して「か細い声」で促します。「あなたの杯を捧げるのではありません。イエス・キリストご自身が、ゲッセマネの園で必死に格闘された時と同じように、私はあなたに上よりの力をもって臨む。そして、あなた自身にしか与えていない満願の献げ物、つまり主なる神に対して果たすべき事を、私が教え示すから、あなたはそれを受け取りなさい!」と。


 そうです!私たちはありのままで、主なる神の御前(祭壇)に進み出ましょう。主なる神の「祭壇」は、既にイエス・キリストが、聖なる「子羊」として捧げられたフィールドです。私たちは、自分の「肉の力」では確立し得ませんが、聖霊様によって「委ね切る」という、「主の杯」を飲む必要があります。そして、この「満願」の献げ物を捧げる際には、イエス・キリストご自身が、既にその業を終えられた(成就した)!という、上よりの「信仰(確信)」が与えられるべきです。


 それ故に私たちは、その「終えられた祝福」の御業の中に、私たちの「人生」の全てを、差し上げる(委ね切る)ことが重要なのです。イエス・キリストが、聖霊様の「助け」により、ゲッセマネの園における霊的格闘の後に、遂に勝ち得たご自身の最終的「歩み(人生)」は、既に私たちの「前」にも用意されています。そして私たちには、イエス・キリストによる「救い」が、無償で与えられています。ならば私たちも、愛する花婿イエス・キリストに対して、満願の(委ね切る)「祈り」と「信仰」、そして満願の(委ね切る)「人生」を、惜しみなく捧げて参りましょう!


 主イエス・キリストによる、麗しい「満願」の恵みの時が、聖霊様を通して為される、私たちの霊的取扱いの中で、私たちの「思い」を超える霊的次元と、実際上の信仰生活に豊かに現されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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