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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.38)

             イエス・キリストの選んだ大庭




感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ。
                                                                                                                  【詩篇100篇4節】


イエスが・・・・いつものようにオリーブ山に行かれ・・・・ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
                                                                                               【ルカ福音書22章39~44節】


「感謝」と「喜び」の献げ物
 詩篇100篇を詠った今回の作者は、父なる神の麗しい臨在と、自分の人生全てに渡って、常に働かれる神の導き(取扱い)を思い起こす(振り返る)度に、主なる神の為されることが、何一つ無駄と呼べるものが無く、むしろ大いなる次元の中に、自分が全能の神の「御心」の中に、いつも覆われていることを知りました。そして自分の人生には、必ず神との「交わり」に入る門が開かれ、自分の力ではなく、御霊の力による取扱いの中に、父なる神の「御心」を知るための、聖なる「大庭」が常に用意されていることを確認し、それ故に彼は感謝の生贄として捧げたのです。


 覚えて戴きたいことは彼にとって当初は、神に対して捧げ得る「感謝」と「喜び」が、殆ど無いかの如き人生の時期を過ごしたことです。ところが、父なる神の一方的な「憐れみ」と「恵み」により、様々な「試練」と「苦しみ」を通過させられた後に、必ず神が「自分」を贖い出して下さり、大いなる奥深い霊的次元へと、更に引き上げて下さることを知り(体験し)、遂に神に対する感激の「涙」と喜びの「歌声」を、今回の詩篇の歌として自然に捧げ尽くすことが出来たのです。


 私たちは何となく、「感謝」と「喜び」のイメージを、「良きこと」が自分に起きた時や、「素晴らしいこと」が訪れた時、そして神から偉大なる「導き」と「恵み」を戴いた時などに、当然のものとして捧げる行為として捉えています。しかし荒涼とした砂漠や、良きものが何一つ無いフィールド(環境)など、「悲しみ」と「苦しみ」と、「絶望」しか無い状況にあって初めて、実は私たちが自分で捧げ得るものを、何一つ持っていないことに気付かされるのです。


 ・・・・しかし詩篇の作者は、それでも私たちに訴え続けます。「尚も主なる神は、(私たちのために)大庭に入る門を、砂漠の中にあっても用意され、そしてその門を私たちの力ではなく、御霊の力によって開いていて下さる!」と。


イエス・キリストの選んだ「大庭」
 ルカの記述によれば、イエス・キリストは「いつものように」(39節)、オリーブ山に出向かれたことが分ります。弟子たちの殆どが、「先生はいつも、何をしに山に登られるのだろう?」と不思議に思いながら、師の後を付いて行くのですが、イエス・キリストは必ず決まり文句として、彼らに次のように指示しました。「あなた方は少しの間、ここで待っていなさい!私はこれから、大事な用事があるから・・・・」と。すると彼らは、「先生は一体、何の用事で登られるのだろうか?山には、これと言って大事なものなど、何一つ無いのに・・・・」などと首をかしげる程度。


 ところが、彼らが暫くの間(恐らく数時間以上)、指示通り待っていますと(殆ど眠りこけていますが・・・・)、イエス・キリストは必ず、「喜び」と「希望」に満ち溢れ、輝くばかりの顔つき(表情)で下山し、彼らと対面します。山に登る前は、いつも「苦痛」と「悲しみ(悩み)」に満ちた表情であったのに・・・・。今回のオリーブ山への登山は、イエス・キリストにとって、最大の「苦しみ」と「恐れ」を抱きながらのものでした。しかしイエス・キリストは、それでも父なる神に相まみえるための、信仰の「歩み」を止めませんでした。


 詩篇100篇の作者は、いつも次のことが思い起こされました。「どうして私は、このような人生を歩まなければならなかったのか?しかし今振り返ってみて、はっきり分ることは、如何なる時にも主なる神は、私から離れること無く、むしろ神の大庭に入る門を、私の歩む道の先々に用意して下さった!」と。


 「罪」を犯す以前のアダム(エバ)は、神の「大庭」であるエデンの園に、無条件で住むことを許されていました。そこにおいては当然、私たちが被るような「苦しみ」や「悲しみ」、また「悩み」や「恐れ」などは何一つ存在せず、むしろ「喜び」と「感謝」と、「祝福」の実が用意されていました。それ故に彼らは、自然体で神との「親しい交わり」を保ち、それこそが彼らの人生にとって、生きる「使命(務め)」でした。


 兄たちから、奴隷としてエジプトに売られたヨセフ、皇太子として将来が約束されていたにも関わらず、不幸な事件に巻き込まれ、荒野へと逃亡したモーセ、サウロ王の刺客(暗殺者)に怯え、いつも洞穴の中に身を潜める生活を強いられたダビデなど、彼らに共通することは、彼らが「肉の力」で選択した訳ではない次元、つまり御霊によって導かれた霊的フィールドが、神の「大庭」である!という点です。彼らが導かれた神の「大庭」は、この世の「栄光(繁栄)」とは懸け離れたものであり、この世的に彼らを見るならば逃亡者、浮浪者などの難民生活にありましたが、彼らはその中にこそ、父なる神の聖なる臨在があり、聖霊による優しき御声の語りかけ(交わり)が、いつも用意されていたのです。


 イエス・キリストが最終的に選択した、父なる神の「大庭」において、聖霊様は「おー、愛する一人息子よ!あなたは、よく今まで耐えてくれた。いよいよクライマックスが近付きつつある今回は、あなたに栄光ある王座を用意しているから。」などと言う、父なる神の御声(サタンは逆に、この類の甘い囁きかけを届けますが・・・・)を持って来ませんでした。現実は、父なる神の「御声」は、何一つありませんでした。ただ聖霊様と天使たちが、イエス・キリストの御元に近付いて来て、時々励ますだけです。「いよいよ、最後の屠り場が近付いている。絶対逃げてはなりません!」と。


 それに相対するかのように、サタンもイエス・キリストの元に近付いて、母の如くに優しく囁きかけます。「ちょっと待ちなさい!その方法に依るのではなく、あなたの後ろで控えている、天使長ミカエルを伴って、ただ一言、命令を下すだげでよいのです。ローマの全軍を、ことごとく打ち滅ぼせ!と」


神の「御心(杯)」のみを求めなさい!
 すると聖霊様が、益々イエス・キリストに激しく臨みます。「肉の方法を、決して選択してはなりません!父なる神があなたに与えている、聖なる杯のみを飲みなさい!」と。聖霊様は私たちに対しても、父なる神の愛に溢れた「御思い(聖なる杯)」を、私たちの「霊の耳」に届けて下さいます。「父なる神は、あなたを決して見放すことも、又見捨てることも無く、あなたを常に愛して下さっています。父なる神の、あなたに対する愛を戴くべく、あなた自身の全てを捧げなさい!」と。


 私たちは、イエス・キリストが選んだ、父なる神の「杯」を飲むことは、到底不可能なことですが、イエス・キリストが既に私たちのために、最後の「大庭(ゲッセマネの園)」において、父なる神の「聖なる杯」を飲んで下さった、この大いなる事実に感謝しようではありませんか。


 イエス・キリストはこの時、聖霊様の「啓示」により、ご自身の「はん祭(十字架の死)」を通して為される、父なる神の「救い」の完成(成就)の時を見せられました。「贖いの子羊イエス・キリストよ!あなたから流れ出る血潮が、今からどうなるかを、見なさい!あなたの聖なる血潮は、全世界へと流れ行き、大波の如くに世界を覆い尽くす時に、あなた自身が執り成してきた病める者、苦しみにある者、悲しみに打ちひしがれる者が、ことごとく癒され、そして解き放たれるのだ!子羊の十字架による贖いの血潮を受け取り、神の救いを信じる者には、必ずあなたの贖いの御業によって、永遠の命が無代価で与えられる!」と。


 「その時(瞬間)」イエス・キリストは、「分りました。あなたの杯を、今飲みます!」と応答し、この時からイエス・キリストは、「全て」を父なる神に明け渡し、神が与えて下さる天の「栄光」の訪れ、即ち「復活の時」を待ち望む「救い主」として、エルサレム市街の中心へと、再び凱旋して行ったのです。


 主なる神は、あなたのことを決して見放すことも無く、いつも実の父親以上の愛を持って見守り、必ず「大庭」にて待って下さいます。それ故にあなたは、進み行くだけでよいのです。「お父さん」が待っていて下さる、聖なる「大庭」に進み行く時に、私たちは喜び勇んで行くはずです。何故なら、主なる神ご自身の麗しい臨在と、聖霊様が提供して下さる、神との親しい交わりが、そこには常(永遠)に満ち溢れているからです。


 あなたの「信仰」を、聖霊様が更に聖めて下さり、あなたの歩みの前にある神の「大庭」が、更に豊かな麗しいものとして完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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