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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.34)

                         キリスト者の生活




共同体の代表者が罪を犯し、過って、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気付いたときは、献げ物として無傷の雄山羊を引いて行き、その頭に手を置き、主の御前にある焼き尽くす献げ物を屠る場所でそれを屠る。これが贖罪の献げ物である。祭司は献げ物とする雄山羊の血を指に付けて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血はその祭壇の基に流す。脂肪はすべて和解の献げ物の脂肪の場合と同じように、祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。一般の人の誰かが過って罪を犯し、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気付いたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、その頭に手を置き、主の御前にある焼き尽くす献げ物を屠る場所でそれを屠る。これが贖罪の献げ物である。祭司は献げ物とする雌山羊の血を指に付けて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血はその祭壇の基に流す。奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪を全て切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。
                                                                                                          【レビ記4章22~31節】


私たちは「過ち(罪)」を犯し易い器
 今回の「規定」の中において、私たちが考えなければならない、父なる神の「憐れみ」、つまり御子(イエス・キリスト)を通して、十字架上で完成された「贖い」の御業は、常に、かつ惜しみなく、全ての人に提供されるものです!何故ならば、私たちはアダム(エバ)の犯した「罪」故に、如何なる人と言えども、「罪」を犯し易い存在だからです。


 ところで今回の「罪(過ち)」は、個人(各々のキリスト者)に関するものです。それは端的に申し上げるならば、「私たち(個人)」と「イエス・キリスト」との関係から、逸脱する「罪」のことですから、イエス・キリストご自身が直接、私たちに対して、その「罪」を示して下さるものです。


 覚えて戴きたいことは、私たちのイエス・キリストに対する「罪」に関しては、イエス・キリストご自身が、「悲しい思い」や「苦しい思い」、そして「痛い思い」などを感じとめながらも、「私の愛する花嫁(乙女)イスラエルよ、私はあなたのために、今も尚、熱情の愛をもって、私の十字架による贖いの御業を、いつでもあなたに示そう。それ故、あなたが如何なる失敗をしても、過って罪を犯したとしても、私の十字架の御元に来なさい!そうすれば、あなたが今後、どのように生きて行けばよいのか、又私とどのように関わっていけばよいか等を、具体的に教え示そう。」と、聖霊様を通して語りかけて下さることです。


 私たちは、ともすれば、パリサイ人や律法主義者たちの如くに、人間的な「行い」と「業」にのみ専念し、そのことに一生懸命に努力します。しかしこれも、イエス・キリストから見れば、一つの「罪」です!私たちが「行い」と「業」にのみ、心を奪われているとしたら、むしろそれは、イエス・キリストを悲しませることになるからです。


 私たちが、一番に心奪われるべきこと、それは「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神を愛する!」ことです。即ち神を愛するとは、「霊」と「真」をもって「父なる神」、そして「御子なるイエス・キリスト」、更に「助け主なる聖霊様」に対して愛し仕えることであり、これに優る「行い」は存在し得ません。


キリスト者の生活-三つの方向性-


主に愛されている兄弟たち,あなた方のことについて、私たちはいつも神に感謝せずにはいられません。何故なら、あなた方を聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とによって、神はあなた方を、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、即ち、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、私たちの福音を通して、あなた方を招かれたのです。ですから、兄弟たち、しっかり立って、私たちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。私たちの主イエス・キリストご自身、並びに、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えて下さる、私たちの父である神が、どうか、あなた方の心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように。
                                                                                           【Ⅱテサロニケ書2章13~17節】


 このパウロの手紙(御言葉)の中に、私たちが為すべき、本来のキリスト者の「生活(生き方)」が描かれています。例えば夫婦関係が、ワン・パターンでなく千差万別であるように、「イエス・キリスト」と「私(あなた)」の関わり方は、多様性に富んだものです。つまり、マニュアル化された律法的「行い」や、人間的な「業」の如きものでは決してありません!


 ですから「キリストの花嫁(私たち)は、・・・・でなれけばならない!」という教えに従って、私たちが歩んでしまいますと、それは律法主義的な生活になります。私たちの花婿なるイエス・キリストは、私たち一人一人に対して、多様性に富んだ「熱情の愛」を注ぎ、各々の信仰の成長度に応じて導いて下さるなど、その「関わり方」が非常に麗しいものです。


 この手紙の中でパウロは、先ず「あなた方を聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなた方の信仰とによって、神はあなた方を、救われるべき者の初穂としてお選びになった」(13節)の文面の中にある、「お選びになった」という動詞を用いて、私たちキリスト者の「生活」の、第一の方向性を指し示しています。ご存知のように、私たちが神の「救い」により選ばれたのは、父なる神の一方的な「憐れみ」と「恵み(恩寵)」によるもので、決して私たちの側から御子(イエス・キリスト)を、他の神々と比較しながら、「救い主」として選んだのではありません!


 主イエス・キリストご自身が、一方的に「あなた」を選らばれたのは、しみと傷だらけの雄山羊の如き、つまり「生贄」には相応しくないものであっても、父なる神が「あなた」を、御子(イエス・キリスト)の花嫁として、直々に召し出して下さっているからです。「救われるべき者の初穂」とは、「私たち(あなた)」を通して、大いなる神の「選び」の豊かさが、神の真の「愛」から発していることを証明するために、先ず「あなた」を、この汚れた地から贖い出して下さったという、父なる神の「奥義」の一つです。


 続いて第二の方向性は、「神は、このことのために、即ち、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、私たちの福音を通して、あなた方を招かれたのです。」(14節)の文面の中にある、「招かれた」という動詞です。これは、神の「選び」の後に来る、神の「招待」を意味します。さて私たちは、どこに招待されているのでしょうか?それは、私たちの愛する花婿イエス・キリストと、最終的に永遠の契約が成就する場、即ち御国の「婚礼の宴」です!


 果して、私たちはこの時に向けて、如何なる「思い(信仰)」をもって生きているのでしょうか?殆どのキリスト者が、花婿の「御思い」を忘れる程に、自分自身の為したい事に、没頭しているのではないでしょうか!それ故に聖霊様は、私たちに厳しく命じられるのです。「確かにあなたは、自分の為すべき事に忙しいかも知れない。しかしイエス・キリストは、尚もそのようなあなたを愛して、あなたが帰って来るのを、ギリギリまで待っているのだ。だからあなたは、再びイエス・キリストの熱情の愛を思い出し、とにかく麗しい花嫁として仕立てられるべく、この私(仲人)に従って付いて来るように!」と。


 そして、父なる神の「招き」の後に、いよいよ私たちキリスト者の歩むべき、最終的な方向性が示されます。その最終的(第三の)方向性について、パウロは「どうか、あなた方の心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように。」(17節)と記述しています。ここで言及されている「善い働き」と「善い言葉」とは、私たちの浅はかな二元論的思考からイメージする、「善き~」や「悪しき~」という概念ではなく、聖霊様が私たちの霊的「仲人」として、私たちキリスト者(花嫁)とイエス・キリスト(花婿)が、常に聖なる一体関係にあり続けるため、様々に働きかけて下さる、聖霊ご自身の「望み(願い)」から産み出されるもの、つまり霊的次元に存在する「善き行い」や、「善き言葉」のことです。


 具体的には、聖霊ご自身が「天(上)」より、私たちに与えて下さる聖なる「言葉」と、花婿に対する聖なる「行い」を、為すことの出来る天の「力」のことです。それが与えられれることによって、私たちは初めて最終的なゴールに辿り着いた時、即ち花婿(イエス・キリスト)の来臨の時に、「よくやった、私の愛する花嫁よ!あなたの為すべきことは唯一つ。あなたが選び召し出された、その基本(正しい道)をあなたは歩き続けた。あなたを通して、救いの初穂は豊かに完成された。あなたは、仲人である聖霊様の命令に、ことごとく忠実に守り行った。さー、私の宴に入って来なさい!」と招待されるのです。


 そうです!私たちが、如何なる霊的「過ち(罪)」を犯したとしても、すぐに仲人である聖霊様の「導き」に従って、イエス・キリストの「贖い」が完成された、神の「祭壇」の前に進み出る時に、私たちはイエス・キリストの花嫁として、常に招き寄せられるのです。それ故に私たちは、イエス・キリストの待つバージンロードを、父なる神の「平安(守り)」の中で歩みましょう!天国の「宴の時」は、いよいよ間近に迫っています!いつ如何なる時にも、私たちは「その時」を楽しみに待ちながら、聖霊様と共に歩んで参りましょう。


 イエス・キリストによる「贖罪」は、父なる神の私たちに対する「愛の証し」です!私たちが「過ち」を、犯し易い存在であるからこそ、父なる神は聖霊(仲人)を通して、「いつも祭壇の前に来なさい!子羊は既に捧げられている。それ故にあなたは、子羊の流す血潮を祭壇の四隅に注ぎ、不要となる脂肪の全てを、聖所の外に持って行き焼却しなさい!」と、強く働きかけて下さいます。あなたが聖霊様の、霊的「促し(勧め)」に従って行く時に、必ずイエス・キリストの麗しい花嫁として仕立てられることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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