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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.35)

                             賠償の献げ物




主に捧げるべき奉納物のどれかを過って捧げず、主を欺いて罪を犯した場合、その償いとして、聖所で定められた支払額に相当する無傷の雄羊の群れから取って、主に捧げ、賠償の献げ物とする。彼は捧げるのを怠った奉納物に五分の一の割り増し分を加えて祭司に渡す。・・・・祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負った全てのことに赦しが加えられる。
                                                                                                          【レビ記5章15~26節】


「罪」が支払うべき賠償
 一般的に「損害賠償」は、故意であっても悪意(過失も含む)であっても、何らかの「損害」を他者に与えた場合は、先ずその事に対する謝罪と、その損害に見合うだけの賠償、そして更に上乗せした支払い額も付け加えられるなどの、基本的な手順があります。


 同様に父なる神は、私たちが霊的に犯した、様々な罪の「損害」を支払うべく、驚くべき霊的手順を新約時代に用意されました。ご存知のように旧約時代においては、「子牛」や「子羊」などの献げ物が、その都度「祭壇」上に捧げられ、大量の「血」が流されました。


 しかし、新約の時代から父なる神は、私たちの犯す「罪」の贖いの代償として、唯一の「子羊」、即ち御子イエス・キリストを、十字架上で屠ることで、子羊(イエス・キリスト)の流される貴い「贖いの血潮」を、私たちの「罪」の身代わりとして用意して下さいました。その結果私たちは、いつでも大胆かつ自由に、神の御前に出ることが可能なったのです。実はこの新約の「恵み」が、今回の「賠償」の献げ物の手順の中に、霊的な奥義として見出すことが出来ます。


「賠償」の献げ物-三つの手順-
 第一の手順は、15節において「主に捧げるべき奉納物のどれかを過って捧げず、主を欺いて罪を犯した場合」と記されていてることですが、これは何らかの私的「思い」で、主なる神の「御心」から、バイパス(少しそれること)した場合にも、主なる神は私たちが霊的悔い改めを表明する際に、更に「子羊」を要求されることを、新たな手順として示されました。


 確かにイスラエルの民は、その都度「子羊」を捧げています。ところがその捧げた「子羊」が、無傷のものではなかった場合に、主なる神は改めて彼らの「群れ」の中に、無傷の子羊を用意して下さり、その無傷の子羊を必ず捧げることと、それに付加する献げ物として五分の一の「賠償」を、各自の重要な霊的表明として、共に捧げるよう命じられたのです。


 と言うことは、新約時代に生きる私たちが、霊的な礼拝を捧げる場合においても、何らかの「欺き(偽った部分)」が、度々起きることを示しています。私たちは、霊的な理想としては五人の賢い乙女や、マルタの妹マリヤの如くに、四六時中「花婿(イエス・キリスト)」のことを霊的に慕い求めながら、信仰生活を送りたいところですが、現実生活においては一週間、「世のこと」のみに追われながら、仕方なく日曜日になったから教会に赴き、礼拝を捧げる時もあるのではないでしょうか!


 「その時」に、聖霊様はあなたの「霊」に、そっと囁きかけて下さいます。「あなたは何故、この世のことに追われ、神のことを忘れているなど、その弱さを神の御前に持っていかないのですか?」と。そうです!はっきり申し上げて、私たちは霊的に傷だらけの羊です。しかし、聖霊様が要求される私たちの「無傷」とは、私たちの「ありのまま」の姿勢(状態)のことです。


 私たちの「ありのまま」が、主イエス・キリストの流された、貴い「血潮」の注ぎにより、この世から聖別される時に初めて、父なる神は「あなた(私)」を、聖い花嫁として迎え入れて下さるのです。何故なら父なる神は、御子(イエス・キリスト)の「血潮」を見る度に心打たれ、赦しの「恵み」を施すことを決意して下さるからです。


 ところが私たちの内側から、例えば「主よ!私は今回も、無傷の子羊をもって参りました!」などと、自らの「血肉」を捧げようとした場合に、聖霊様が「ちょっと待ちなさい!あなたは神に対して欺いている!自分の血ではなく、御子イエス・キリストの血潮のみを求め、あなたの全てに注がれることを、へり下って求めなさい!そうすれば主なる神は、あなたの献げ物を受け取って下さいます。」と、私たちの霊的「賠償」を改めて要求されます。


 私たちは正直言って、「賠償」という言葉が嫌いです。何故なら「何らかの償いをしなければならない!」というイメージで捉えるからです。ところが聖霊様が、私たちに教え導く「償い」とは、私たちが考えるような三次元レベルのことではありません。聖霊様は常に、私たちの「霊」に語りかけます。「それはもう、既に終わっている(成就している)!だからこそ、神の御前に素直に(ありのまま)出て、あなたの全て(偽りの部分も含む)を、焼き尽くす献げ物として捧げなさい!」と。そうです!私たちの「霊」の中には、アダム(エバ)が恥ずかしいと思って、神の御前に隠している部分が多くあるのです。


 第二の手順は、17節において「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合」と記されていてることですが、これは神に対する「十戒」の第二の条文に当ります。その中で主なる神は、私たちが主ご自身以外のものに心を移しても、心を奪われてもならない!と強く禁じています。そして、主なる神の御名を呼ばわる時にも、霊と真心をもってへり下り、私たちの中にある「弱さ」を素直に表明しながら、「主よ、どうぞ助けて下さい!このような弱き器ですが、あなたの救いの御名である、イェス様の御名を呼び求めます!」と告白することが重要です。


 しかし私たちは、「困った時」や「苦しい時」、そして「悲しみに陥っている時」などにしか、「主よ!」と呼ばわることが、殆どではないでしょうか?これも、私たちの小さな「過ち」の一つです。ところが聖霊様は、このような私たちの小さな「罪」に関しても、私たちが再び霊的基本に立ち返って、霊と真による礼拝の中で聖められることを望んでおられます。


 最後(第三)の手順は、21節以降に記されていることですが、これは人間的不正行為に関する場合の「賠償」規定です。「不正」が、日本の各業界にはびこる今日ですが、実は私たちキリスト者の共同体(エクレシア)の中にも、当然この「不正」は存在し得ます。主なる神は全ての民(キリスト者)を、神の「祝福」にあずからせるべく、例えば収穫の「初穂(什一献金を含む)」を捧げることで、経済的「弱者(やもめ、孤児、低所得家族など)」を救済する方法を、使徒行伝時代に誕生した、「エクレシア」に教え示しました。にも関わらず、配分の順位が先ず「自国民(ユダヤ人)」を最優先とし、「異邦人」は後回し(ないがしろ)にするなど、これは神が忌み嫌われる「不正」の一つです。


 この「賠償」の献げ物とは、主なる神が私たちの犯す、「罪」の一つ一つに対して、例えば「〇〇〇の罪は、一回犯した場合に付き、▲百万円の賠償を支払うことを命ず!」などと、「罪」の全てを算出して「賠償金」を科すなどの、この世の「法律」レベルの基準の如きものでは決してありません。何故ならば、主イエス・キリストの「贖い」の恵みにより、私たちの「罪」の全ては、十字架上で完全に帳消しにされているからです!


 そうです!私たちはイエス・キリストを、自分の「救い主(贖い主)」として信じるだけで、このイエス・キリストの十字架による、「贖い(賠償金を上回る程の多額な身代金)」の血判状(完済証明書)を、無代価(ただ)で受け取っているのです。それ故に私たちは、主イエス・キリストによる、アガペーの愛に応えるべく、「五分の一の献げ物」を付加して、捧げる(礼拝する)ことが要求されているのです!


五分の一の献げ物


あなた方も聞いている通り、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、私は言っておく。・・・・誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・・求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならい。・・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にもむ正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。・・・・だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。
                                                                                               【マタイ福音書5章38~48節】


 「五分の一の献げ物」とは何でしょうか?私たちは、主イエス・キリストと同様の、正しく「罪」無き歩みを実行できる存在では決してありません。しかし私たちは、イエス・キリストの「愛」を戴いた以上、この「愛」をもって生きる「務め」があります。今の「日本」は、あらゆる面で窮地に立たされている感が否めません。非常に不安定な世界情勢の中で、恐らく「反キリスト」が、いつしか台頭して来ることでしょう。


 そんな中にあって「日本」は、果たして何処に向かっているのでしょうか?「日本」は今、まさに悔い改めなければ、かつての軍国主義時代の時と同じプロセスで、過った舵取りを為していく危険性があります。「日本」はかつて、アジアの近隣諸国に対して、今日では「損害賠償」を支払うことの出来ない程の、愚かな「過ち(罪)」の数々を、太平洋戦争の中で犯しました。しかし、私たち日本人キリスト者が、アジアの人々に対して出来ることは、如何なる状況にあっても、「イエス・キリスト」を唯一の救い主として伝えることです!そのために聖霊様が、「上」よりの力をもって、私たちに激しく臨んで下さっているのです。


 「全ての人に、主なる神の憐れみと愛が届けられ、イエス・キリストによる救いが、豊かに現されること」、このことをもって初めて、私たちの主なる神に対する「五分の一」が、少しずつ返済できるのではないでしょうか!ローマ帝国時代の迫害の中においても、イエス・キリストによる信仰を捨てること無く、殉教していった聖徒たち同様に、私たち日本人キリスト者の中にも、聖霊様の大いなる「励まし」と「助け」によって、キリストの道を全うすることが出来る、真の聖徒たちが召集されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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