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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の大庭(No.37)

                         最終段階の献げ物




「・・・・私(ハンナ)はこの子(サムエル)を授かるようにと祈り、主は私が願ったことを叶えて下さいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です。」
                                                                                               【サムエル記上1章27~28節】


最終的な「満願」の献げ物
 私たちの信仰の歩みには必ず、最終段階の「献げ物」を捧げるに至った時(私たちには持てる物も無い訳ですが)、イエス・キリストという「恵み」を通して、実は捧げなければならないものがあります。ハンナは具体的に、如何なる「満願」の祈り(献げ物)を、神に対して最終的に捧げたのでしょうか?


 彼女は「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧下さい。はしために御心を留め、忘れること無く、男の子をお授け下さいますなら、その子の一生を主にお捧げし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」(11節)と告白することで、今まで不妊であった自分(はしため)に、「新しい命」として男子を授けて下さった場合に必ず、その子(サムエル)の生涯を、主なる神の「ご計画」のために、捧げ尽くすことを表明したのです。生まれて来る「サムエル」にしてみれば、たまったものではありません。最初から自分の人生が、母(ハンナ)の「満願」の祈りによって、決定付けられている訳ですから・・・・。


 ハンナは自分の「胎」が、全く「命」を宿すことの出来ない、不妊の体(フィールド)であることを、十分に知っていました。しかし彼女は、この不可能なフィールドの中に、主なる神が「恵み」をもって、「新しい命」を授けて下さったことを、自分の血肉の「努力(実力)」に依らず、ただ神の「恵み」に依る!と受け留め、それ故にこの「新しい命」が自分のものではなく、常に神のものとして、捧げ尽くすことを決断したのです。


 そしてその子が生まれた後も、自分の「願い(私的思い)」を子に抱く(期待する)ことをせず、ただひたすら「この子の生涯(一生)と命は全て、主よ!あなたのものとして、私は捧げ尽くします!」と、主なる神の「御心(願い)」の中に、「子」を置くことに努めました。


 彼女は聖霊を通して、次のことを確信していました。自分の捧げた祈りは、決して人間的な努力では得ることの出来ない、父なる神の大いなる次元の中で実現されるものである!と。そして必ず与えられるものが、神ご自身の「ご計画」の中にあるものであるが故に、その子の一生を、神の栄光の御名の故に全て捧げ尽くすことを、自分の喜びとしたのです。これが、彼女の「満願」の祈りの本質です。


 この彼女の「信仰」に聖霊様が働かれて、実際に「サムエル」を、彼女の人生に授けて下さいました。そしてハンナは、主なる神の約束の成就に応答するべく、「三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った」(24節)のです。


 この時点で、念願の授かり子である「サムエル」は、両親の元を離れ、神殿にて献身することが定まっていました。つまりこの時からハンナは、我が子(母の子)という三次元的関係から、神のものという霊の次元に生きる者として、一人息子(サムエル)を、主なる神に奉納することで、誓願を果たしたのです。このように、彼女の最終的な「満願」の献げ物とは、長年の間祈り続けて、せっかく授かったものであっても、神に対する誓約を忠実に果たすことで、その姿勢を示す(実際に捧げ尽くす)ことでした。


三歳の雄牛を同時に捧げる
 幸いなことにハンナは、生まれたばかりの乳飲み子を、奉納した訳ではありませんでした。その子が乳離れして、少しばかりの会話ができる、三歳時点の「サムエル」を連れて、この時神殿に赴いたのです。ここに、私たちの「信仰」の歩みに対する、主なる神の「配慮」が見受けられるのではないでしょうか!はっきり申し上げて、私たちの「信仰」の歩みのレベルは、三歳のサムエルのレベルと同じものかも知れません。


 しかし主なる神は、私たちの幼き「歩み」を、ひたすら忍耐強く待っていて下さる方です。ご存知のように、「赤子」という幼子のレベルは、母親が四六時中見守り、常に危険から守ってあげなければならない程、身体的能力に欠け、知性の面でも未熟など、心身共に傷を受け易い、一成長過程にあります。


 実は私たちの「信仰」も、霊的には幼子の如きレベルにあるのではないでしょうか。それ故に父なる神は、いきなり「満願」の献げ物を要求し、最終段階において至聖所で、「全て」を捧げ尽くすように!とは命じられません。今回の御言葉の中に、その奥義となる重要な「献げ物」が記述されています。「人々は雄牛(三歳の雄牛)を屠り、その子を(屠った三歳の雄牛と共に)エリの元に連れて行った。」(25節)


 何故「屠った三歳の雄牛」が必要なのか?ここに主なる神の、私たちに対する奥深い「配慮」があるのです!「三歳の雄牛」とは、三歳のサムエルと同じ年月を経たもの、つまり「サムエル(私たちも含む)」が生まれた時から、ずっとサムエルと共に育ち、彼の成長を見守ってきた、「イエス・キリスト」ご自身の歩みを指しています。ですから本来であるならば、主なる神がハンナに要求する、「満願」の献げ物のプロセスは、我が子「イサク」を祭壇上に捧げ、最終的に「その子」を屠る時と同様のものであった訳ですが、アブラハムの場合と同様に、三歳のサムエルの身代わりとして、三歳の雄牛(イエス・キリスト)が、祭壇上にて屠られたのです。


 と言うことは、彼女が三歳のサムエルと、三歳の雄牛を共に捧げ尽くした時に、「三歳の雄牛を屠った時から、我が子としてのサムエルの人生は(命)は終わり、これからは神のものとしての、新しい人生(命)がサムエルに始まった!」とハンナは理解したのです。つまりハンナが、この時点から「私のもの」と主張できるものが無くなり、後は「神のもの」を待望みつつ、「神の命」の中に自分を捧げ尽くすこと、これが彼女の最終段階の献げ物です。


 殆どのキリスト者は、この「献げ物」に関して躊躇します。何故なら「私の人生は、私に与えられたものだから、私がその時に決めます!」などと捉えているからです。ところがパウロの如くに、「キリストと共に、私は既に十字架に付けられた!」と捉えるのであれば、イエス・キリストの「十字架」の御元に、常に「自分」を置くことが出来ますので、この時のハンナ同様に、「私の人生は、イエス・キリストの十字架の死と共に終わった!」という確信に至るのではないでしょうか!


 「私(あなた)」のために、イエス・キリストは常に十字架上にて、「贖い」の献げ物として、ご自身を捧げ尽くされた時から、「私(あなた)の命」はイエス・キリストと共に、新しい「神の命」として聖別されている!この揺ぎ無い真理に立ちましょう!そうすれば私たちは、自分の「肉の業」によっては決して為し得ない次元、つまり至聖所において「全て」を捧げ尽くすという、最終的な霊の次元の道を、イエス・キリストと共に、十字架上にて「私(あなた)」が死すことで初めて為し得る!という、信仰に導かれるのです。


 そして「その時」に、ようやくハンナの如くに、聖霊様の導きを通して告白できるのです。「イェス様は十字架上に、ご自身を捧げ尽くされました。それ故に私も、私の生涯(命)の全てを、あなたに委ねて捧げ尽くします。この私を今、イエス・キリストと共に十字架に付けます!」と。聖霊様を通して為される、「天上」の父なる神の「恵み」が、このように私たちの前に用意されます。それ故に私たちは、如何なる「雄牛」のレベルであっても、神の御前に受け入れられていることを確信し、十字架の御元で祈り続けましょう!


神の「財(所有物)」として
 ハンナは、最後に次のように祈りました。「私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことを叶えて下さいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です。」(27~28節)と。「主に委ねられた者」とは、直訳すると「主ご自身が完全に、この子を直接取扱われる、大切な主の財産(所有物)である」となります。つまり、イエス・キリストと共に贖われた「私(あなた)」の身分は、ハンナが神殿に奉納した「サムエル」同様に、神の大切な「財となる身分(御曹司)」なのです!


 あなたが聖霊様によって、「天上」よりの油注ぎを受けている限り、あなたが「自分のもの」と主張できるものは、何一つありません!あなたの生涯は「全て」主のものです!あなたの「命」も主のものです!あなたの人生(生涯)の「全て」は、イエス・キリストにあるのです!イエス・キリストが、あなたの「命」であり、あなたの生涯の「全て」なのです。


 私たちの「人生」は今まで、果てしなくさまよう流浪の民の如き、無意味なもののように見えました。しかし主なる神ご自身が、ハンナの「満願」の祈りを聞いて下さったのと同じように、霊的には三歳児の如き、私たちの「満願」の祈りをも、父なる神は必ず聞いて下さいます!


 ハンナは確かに「サムエル」を、自分の「人生」の希望という、三次元的枠組みから失うことになりましたが、霊の次元に導かれた結果、「この世」がもたらすもの、即ち「不安」と「恐れ」などが全く無くなったのです。主なる神が、「サムエル」を神の実子として認めて下さった以上、如何なる人生の荒波に遭遇したとしても、サムエルには神の御手の守りが必ずある!ことを、霊の眼で見ることができたからです。


 主なる神の「創造の法則」には必ず、「無」から「有」を産み出すプロセスが伴います。私たちが「空」になったと思える状態の中に、初めて父なる神の「永遠性」が始まるのです!あなたがハンナの如くに、聖霊様を通して「全て」を捧げ尽くす、最終段階の霊的レベルを求めて祈り始める時から、あなたは神の大切なもの(実子)、それも永遠に贖われた者として聖別されることを、是非信じて下さい!あなたが「全て」を捧げ尽くした時から、あなたの神による新しい人生が始まることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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