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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.20)

                 最も貧弱な者を召し出す
 



イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。・・・・主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「・・・・私があなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、と私は告げておいた。だがあなたたちは、私の声に聞き従わなかった。」さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」ギデオンは彼に言った。「私の主よ、お願いします。主なる神が私たちと共においでになるのでしたら、何故このようなことが私たちに降りかかったのですか。・・・・驚くべき御業は全てどうなってしまったのですか。・・・・」主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力を持って行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。私があなたを遣わすのではないか。」彼は言った。「私の主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。私の一族はマナセの中で最も貧弱な者です。それに私は家族の中で一番年下の者です。」
                                                                                                            【士師記6章6~15節】
 
 ギデオンの実像
 さて今回から、ギデオンの「信仰」が、如何なるものであったのか?それを数回に分けて、聖霊様から教え示して戴きましょう。ところでギデオンの人物像について、私は当初捉え間違っていました。彼のイメージは、何となく「凛々しく、しかもハンサム。体つきはそんなに大きくないにしても、勇気に満ち溢れた雰囲気を持っている若者だ!」などと。
 
 ところが改めて、今回の記事を読んでみますと、最初のイメージと違ってきました。彼自らが言及していますように、それは決して謙遜的に表現したものではないのですが、彼の「思い」の中には、何らかの劣等感が見られます。自分たちがマナセ族の中でも、一番忘れ去られたかのように思える程の、貧しき状況(待遇)にあり、余り出世していないように感じる、そんな弱小の一族だったからです。
 
 彼の父の名はヨアシュと言い、日本語でも何となく弱そうに聞こえる名前です。ちなみにマナセ族は、イスラエル十二部族の中でも、ベスト3に入る程の有力な部族です。一番はエフライム族であり、やはり神によって繁栄の祝福が約束された巨大集団でり、カナン征服においても、領土を拡大した部族でした。
 
 そのような中で、ギデオンの心境においては、「自分たちが(マナセ族の中で)、余り役に立っていないではないか?さほど有力な一族ではない!しかも自分は家族の中でも、末っ子の弟分に過ぎない!」と。しかし、このような貧弱なギデオンの「信仰」が、私たちに大いなる霊的励ましを、実は与えることになります。
 
神の選び(召し)
 聖霊様は彼の持つ「信仰」を、最初からご存知でした。聖霊様は決して、一見不信仰で否定的な、すぐにも不平を吐く者を、選び召し出した訳ではありません。神は外側ではなく、内なる領域の「霊」と「心」を見られる方です。預言者サムエルによって見出されたダビテ、そして今回のギデオンの霊的資質の中には、見えざる「神の事実」を正しく捉える信仰が、実は生え出でつつあることを、聖霊様は確実に把握していたのです。
 
 覚えて戴きたい点は、聖霊様は最初から、強い信仰を持つ者を選び、召し出す方ではありません!しかも神の選び召し出す方法は、私たちが考える次元には存在しません。イエス・キリストの選び召し出した、あの十二人の弟子たちの中に、果たして「まともな者(この世で尊敬するに値する者)」は存在したでしょうか?その全てが言葉にならない程の者でした。取税人マタイしかり。ルカも如何なる医者であったのか、聖書には何も記述がありませんが、殆どの者が世間から後ろ指を指される者でした。
 
 恐らくギデオンも、そのような若者でした。しかし幸いなことに、「全て」を試みられる主なる神は、私たちのことを一人として、孤児とする(忘れ去ってしまう)方ではありません!むしろ私たちが、見えざる神の御手の中に抱かれる時に初めて、自然と神ご自身が、「上」よりの恵みをもって、絶えず成長させて下さるのです。
 
 それに対して、私たちはどう応えるのでしょうか?この時のイスラエルの民は、最悪の状況下にありました。異教の神々を頼みとする、悪しき慣例に従った彼らの愚かな歴史は、この時も繰り返されていました。真の主なる神が、ここまでイスラエルの民を導き、愛して下さっているにも関わらず、他の神々を慕って仕えていくなど、彼らは霊的浮気の道を度々選択したのです。
 
ギデオンの霊的資質
 ギデオンとは、如何なる人物であったのでしょうか?最初からスーパースターではありませんでした。むしろ、彼の中にある霊的飢え渇きには、常に悩み苦しんでいる葛藤がありました。「主なる神の御心を純粋に求めるのですが、中々うまくいかない!神の約束を信じて待ち続けるのに、目の前の現実は変わらない!」などの。だからと言って彼は、不信仰に陥ることなく、常に(良い意味での)霊的怒りを覚えていました。「このまま甘んじてはならない!いつか主なる神は、預言者や士師を立てて、この国を再興して下さる!」などと祈りながら。
 
 ギデオンの霊的特徴は、「酒ぶねの中で小麦を打っていた」(11節)と記されている如くに、第一に臆病な人物でした。これはある種の、世間的なレッテルです。「あー、またギデオンが(馬鹿な所に)隠れている!」など。しかし彼は、そんなレッテルに臆することなく、神の「知恵」を求めて、ひたすら「その時」を待ちました。何故彼は、「酒ぶね」の中で小麦を打っていたのでしょうか?そこは神の臨在に満ちた場、神の霊(聖霊)に酔えるほどの場、つまり「人」から隠れることの出来る、聖なる場であったからです。それ故彼は、あえて「酒ぶね」を隠れ場としたのです。
 
 しかも彼は、「敵(ミディアン人)」からも絶対に見つからない時期、即ち「ぶどう」の収穫がオフの時を、わざわざ待って隠れたのです。ちなみに、「敵」が決まって襲撃する時期は、イスラエルの民が大量のぶどうを、「酒ぶね」の中に蓄える時、つまり収穫の時期でした。「敵」の前にあっても彼は、神の全能の陰に宿り続け、そして神から「知恵」を授かるべく、常に神との「交わり」を優先した、ギデオンの家族だけは、「敵」の攻撃から隠され守られました。それ故に、彼の家族だけは力を蓄えて続けたのです。そして他の家族よりも、エネルギーに満ち溢れ、神の「霊」に満たされ続けました。
 
 彼の第二の霊的特徴、それはマナセ族の中でも、最も貧弱な者と自ら称する程、常に謙遜的な劣等感(へりくだり)を抱く者でした。しかし彼は「いつかはヨシュアの如くに、主なる神から召し出される!」ことを祈り求めていたのではないでしょうか!
 
 第三に彼は、家族の中で一番若輩(年下)の者であったという点です。熟練した兄たちから見ても、取るに足らない自分が、神の召し出す「その時」に向けて、忍耐をもって成長し続ける、それが彼の祈りの優先事項でした。それ故に、「酒ぶね」の中にあっても、彼は黙々と小麦を打ち続けたのです。
 
 例えば今の日本において、北から南へとリバイバルの炎が各地に拡散し、一気に霊的収穫が起き始めたと仮定します。その時に「あ!私も早く、収穫に携わらなければ・・・・」などと、神の「働き」に携わりたいと思った矢先に、聖霊様が「待ちなさい!」と命じられた場合、私たちの殆どが「え!どうして止めるのですか?皆が頑張っているではありませんか!私も信仰の勇者として、今立ち上がりたいのです!」と、息巻く(主張する)ことでしょう。
 
 しかし聖霊様が「待ちなさい!これは後の雨に来る、大収穫ではありません。敵が本気に立ち向かって来る時は、こんなものではありません。それ故あなたは、ひたすら祈り続けて、その時を待ち望みなさい!」と促された場合、あなたはギデオンのように、隠れて(見えざる自分に徹する)祈り続けることが、果たして出来るでしょうか?
 
聖霊様の視点
 では、主の使い(聖霊様)の視点から見出される、ギデオンの「信仰」の特徴とは、如何なるものでしょうか?彼の外見だけを見ても、何も見えてきません。前述したように、彼は臆病な者であり、貧弱な者です。ところが、主の使いだけは彼に対して、凄い表現をもって語りました。彼自身も、主の使いの発言を否定しませんでした。むしろ、今まで溜めてきた霊的葛藤を、主の使いに吐き出しながら、神の「御心」を奪い求め続ける態度(姿勢)を、ギデオンはこの時示したのです。
 
 主の使いは彼に対して、先ず「勇者よ!」と宣言しました。私たちが仮に同様のことを宣言されたら、「え?とんでもありません!」と尻込みするでしょう。主の使いが用いた「勇者」とは、「勇気ある者」を意味する表現ではなく、直訳で「勇気を持ち、全ての点において優れた者」という意味です。この言葉にギデオンは、一つも動じることがありませんでした。どちらかと言えば「待ってました!」という印象です。
 
 主の使いの発した、第一の宣言に対するギデオンの応答は、「驚くべき御業は全てどうなってしまったのですか。」(13節)という訴えでした。この表現は、いわゆる「文句」ではなく、信仰の戦いから来る訴状(支援要請)の如きものです。すると主の使いは、「あなたのその力を持って行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。私があなたを遣わすのではないか。」(14節)と、面と向かって強調したのです。もう一度覚えて戴きたいことは、ギデオンの家族だけが、黙々と暗がりの中で「小麦」を打ち続けた訳ですから、自分の筋肉が自然と増強する様を、全く気付かないほど、ギデオンは祈り続けたという事実です。
 
 主の使いの、大いなる「励まし」の言葉に対して、彼は決して有頂天にはなりませんでした。「主よ、この者に何ができると言うのでしょうか!」とうつむき続ける彼に対して、すかさず主の使いは「その弱いと見える力(手)を持って行きなさい。神の力が、あなたの手に宿っている。偉大なる神の力が、既にあなたの中にあるのです。主なる神自らが、先頭に立って戦われるのだ!」と叱咤激励したのです。ギデオンはこの言葉に、どれ程「慰め」と「勇気」を与えられたことでしょう。
 
 今の日本は未だ、霊的に「最後の戦い」には突入していません。ひたすら「酒ぶね」に隠れている時です。最後の霊的戦いとなる、ハルマゲドンにおいては、士師記の如きレベルではありません。かつて日本のキリシタンたちが被った、拷問と迫害よりも更に激しいレベルで、その時には多くのキリスト者が、反キリストの手により処刑されることでしょう。
 
 「その時」には、今までの「酒ぶね」の訓練が、まさしく役に立つ時が来る、それ程の忍耐が必要となります。これは口先だけの忍耐では、決してありません。「肉」を裂かれ、血を多く流す程の忍耐、つまりイエス・キリストの受けた、パッション(受難)と同様の忍耐です。そのような戦いの中にあっても、多くの「魂」を勝ち取っていく、その信仰が問われているのが、「今」という訓練の時です。

  それ故に私たちは、ギデオンの「信仰」から、先ず何を学ぶべきでしょうか?それは信仰の芽が今、聖霊様が降り注ぐ「命の水」によって、着実に土の中で生え出で、すくすと成長していること、この見えざる「神の事実」に期待し、忍耐をもって祈り続けることです!信仰の芽は、決して枯れることはありません。暗い(酒ぶねの)中にあっても、「上」よりの真の光(イエス・キリスト)が、私たちの「霊」の只中に、絶えず光り輝いている限り、私たちは「光」の中を進むことが出来ます!

  主なる神は、間もなく来臨されます。「その時」に私たちは、大いなる収穫の産物(小麦)をもって、神の前に差し出すことになります。主なる神が、豊かにあなたを用いるべく、霊的な士師の一人として訓練の時を与え、霊的に練り聖めて下さいますように。主なる神は常に、あなたと共に居て下さいます。いつか主なる神が、あなたを召し出す「その時」に、あなたがギデオンの如くに、素直に服することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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