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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.32)

                         信仰の不変定理
 
 
 
こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
                                                                                                        【ヘブル書12章1~2節】
 
こういうわけで・・・・
 12章の冒頭に出てくる、「こういうわけで」という文言は、その前に記述された内容が、非常に重要となることを物語っています。そこには「信仰」ある名も無き人々が、数多く死んでいった事実が記されています。彼らは「世の水」を飲むことを拒み、目に見えざる神の「命の水」を、こよなく欲し続けました。
 
 彼らはたとえ存命中に、思った程の神の祝福を得なかったとしても、慕わしいイエス・キリストが、「霊」の只中に住んでいましたから、それで十分でした(満たされていました)。そうです!彼らは、イエス・キリストが共に居る!という、真の喜びの人生を、目に見えざる祝福の中において、確実に掴んでいたのです。
 
 ですから「こういうわけで」とは、このヘブル書の総括的結論、つまり「信仰」の系譜(歴史)を編纂する(まとめる)表現です。ところで数学(中学)の「証明」問題に、∴(ゆえに)というマークがありますが、まさしく信仰の定理を証明するかの如き表現が、この「こういうわけで」なのです。
 
 ヘブル書の筆者に、聖霊様が激しく臨んだ時、アダムから始まる「信仰」の系譜が、次々と霊的に示されました。そして最後に連なる信仰の勇者たちは、迫害から迫害に続く中にあっても、信仰を守り通した無名勇士たちでした。ヘブル書の筆者は、当然彼らの顔も知らないのですが、聖霊様は彼らの真の顔つきを見せます。それは天使たちに囲まれて、共に麗しの君イエス・キリストを讃える、おびただしい花嫁たちの輝いた顔です。
 
 花嫁たちは、アブラハムを始めとする信仰の勇者たちであり、彼らはイエス・キリストの玉座を囲みながら、拍手喝采をもって一つの名を呼ばわります。「神の子羊、花婿なる主イエス・キリスト君よ-!」と。ヘブル書の筆者は、思わず「私も彼らに加わりたい!」と告白します。すると聖霊様が「こういうわけで・・・・」と、彼に促します。「全ての重荷や、絡みつく罪を捨てて、また自分の定められたレースを、忍耐の限りを尽くして走った彼らを見なさい。彼らは、如何なる信仰をもって生きたのか?彼らの全てに共通するものがあります。」と。
 
「信仰」の不変定理
 信仰とは「望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認すること」である!と、同書の11章1節で説明しています。これは「信仰」に関する不変の定理と言えるものです。これから来るであろう、大艱難の時代にあって、私たちは肉体的な苦痛を受けるばかりでなく、霊的な「惑わし」と偽りの「教え」により、「信仰」という正しき道が破壊される、そんな恐ろしい終末の時が迫っています。しかし「正しき道」は一つです!
 
 それ故にヘブル書の筆者は、私たちにも投げかけています。「こういうわけで」と。数学ばかりでなく宇宙物理学にも使用される、「∞(無限大)」という記号をご存知でしょうか?これは単純に説明すれば、いつまでも終わることが無く拡大していく世界(現象、状態、事実)を現していますが、物事の法則には必ず「始まり(起源)」があり、最後には「終わり(結果)」があることを、私たちは三次元的ベースで理解していますので、この「無限大」や「永遠性」に関しては、イメージが捉えられません。
 
 例えば「終わり(結果)」は、決して終わりではなく、また新たに生まれ変わる、これが仏教の説く輪廻思想です。それに対して主なる神は、私たち「人」ばかりでなく、「万物」を創造した際に、如何なる法則を用いたか?これが今回の不変の定理を知る上での、重要ポイントとなります。ご存知のように神(創造主)は、「何も無いフィールド」から、ただ一言(神の命の息吹)、即ち神の「命の言葉」をもって、「光よ、あれ!」と命じて、天地創造の「始まり」としました。
 
 しかし「言葉」は、現実の私たちの生活の中では、証明できるものではありません。「人の言葉」は所詮、目に見えないものですから、時と場合によっては、「偽り言」を述べることの出来る、便利な道具ともなります。しかし神の「命の言葉」に関しては、常に「無(無秩序、虚無)の中に、聖霊様が神の言葉を送った瞬間に、それは無限大に実在する!」という、神の不変の定理が働くのです。つまり言葉を発した方ご自身が、「責任をもって担当させて戴きますので、必ずその通りにし続けます!」という、永久保証の如きものです。
 
 私たちには、神の見えざる「御手」を感じ取ることが出来る、その「信仰」が備えられています。そうです!私たちキリストの花嫁は、信じれば信じる程、霊的な感性が研ぎ澄まされ、たとえ弱き器であっても、聖霊様が取扱うことで、「命の言葉(霊の乳)」のみを慕い求める者へと、造り変えて下さいます。
 
「信仰」の公式
 私たちは、信仰の「創始者」であり「完成者」なる方、即ちイエス・キリストを見上げながら、私たちに与えられている「信仰の道」を、忍耐の限りをもって走り抜こうではありませんか!と、聖霊様が今も励ましておられます。その為には私たちが、常に①イエス・キリストの「言葉」を聞き、②イエス・キリストと親しく交わり(御顔を見て語り合う)、③イエス・キリストの「御衣」に触れ、④イエス・キリストの「御心」を思う(香りを慕うこと)、この四過程(ステップ)が必要になります。
 
 ところで、「信仰の創始者・・・・」(2節)の「創始(始まり)」とは、具体的に何を意味しているのでしょうか?前述した如くに、「信仰」にも始まり(起源)があります。即ち私(あなた)の「霊」は、神ご自身が前もって計画され、何も変え難き有用な尊い「命」として、例えば「〇〇〇よ、我が霊(聖霊)によって、今から産まれ出よ!」と、無(何も無いフィールド)に対して、命じられた(命の言葉を発せられた)瞬間に、「私(あなた)」という存在が、母の胎に命を宿した(始まった)のです。
 
 この時点で生まれたばかりの赤子には、未だ「信仰」と言えるものが見えてきません。しかしその「霊」は、霊的なものを感じ取りながら、すくすくと成長しているのです。そしてある時から、「肉(自我)」に目覚め、「霊」もうめき始めます。続いて自分が、何処に向かうべきか?などと模索しながら。
 
 「始まり」の次には「終わり」が来る!と、私たちは考えますが、主なる神にとっては「始まり」の後には、「完成」が必ず来ることを意味します。だからと言って「完成」が、終幕(The End)を指すのではなく、永遠の御国へと続く「神の時」が待っている、そのためにも私たちが、絶えず「信仰」をもって走り続ける訳です。「その時」には、一つの御名(イエス・キリスト)を讃え、一つの御名が崇められることのみが、私たちの最高の生き方となります。
 
 「信仰」の創始者であり完成者なる方、主イエス・キリストを常に見上けながら、私たちが絶えず「信仰」をもって、忍耐の限り走り続けるその理由は、イエス・キリストこそが、無に等しき私たちのために、ご自分を無にして卑しい身分にまで降って下さり、十字架上にて生贄となられた、その完成された「贖い」の御姿が、私たちの「霊」を捉えて離さないからです。
 
 「信仰」の不変定理を、仮に公式化するとしたら、「信仰」の始まり+「信仰」の完成=イエス・キリストによる永遠の「命」と「支配」と「交わり」となります!これが私たちの「信仰」の歩みのゴールです。さて私たちには、この「信仰」の賜物を、偉大なる優れたものとして戴いている以上、私たちは忍耐の限りを尽くして①走り抜く、②歩くことが要求されています。それ故に目に見えざる神の事実を、イエス・キリストを通して、確かな証拠(目に見える事実)として受け留めることが、私たちの霊的使命(祝福に至る方法)です。
 
 目に見える事実(三次元的事象)が、益々私たちの「霊」を奪いかねない、今日の「混沌」とした時代にあって、私たちの「信仰」の賜物の価値が問われます。そうです!聖霊様の導きにより、あなたが目に見える事実から、常に隠れる(霊の眼をもって、イエス・キリストのみを見上げる)、霊的隠れキリシタンとして、走り(歩き)続ける信仰の勇者となりますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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