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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.31)

                          よみがえりの信仰
 
 
 
女たち(マルタとマリヤ)は、死んだ身内(ラザロ)を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
                                                                                                            【ヘブル書11章35節】
 
十字架の「死」に至る信仰
 私たちは存命中に、キリスト者として必ず遭遇すること、つまりイエス・キリストの生き様と同様に、十字架の「死」に至る信仰が、何よりも重要となります。
 
 それに対してサタンは、私たちがイエス・キリストの御許、つまり十字架の「死」に至る歩みを、できるだけ遠ざけさせ、最終的には「十字架」に背を向けて歩くよう、様々に誘惑してきます。
 
 しかし日本のキリシタンは、サタンの仕掛ける霊的「罠」に、決しておとしめられること無く、あえて十字架の「死」を選択しました。このように私たちも、いずれ通過せざるを得ない信仰のプロセス、それが十字架の「死」です!この十字架の「死」を乗り越えますと、余りある程の豊かな霊的次元に入ることができ、私たちは何度死んでも構わない!と確信できる程の信仰が、実は私たちにも与えられるのです。この重要な「信仰」の奥義を、私たちが霊的に学ぶ時に、私たちの信仰の歩みの「先」には、必ず「天上(御国)」の希望が待っているのです!
 
死は死で終わらない
 今回登場する三兄弟(姉マルタ、妹マリヤ、弟ラザロ)の中で、実はラザロの二度に渡る「死」が、大いなる「信仰」の奥義を教え示しています。ヨハネ福音書11章には、イエス・キリストが彼らの町に、滞在していたにも関わらず、ラザロが突然に大病を患い、急死した経緯の記述があります。
 
 当初イエス・キリストは、ラザロの「病い」の知らせを聞いた時に、不思議な返答をしています。「この病いは死で終わりではない!神の子が栄光を受けるためにある。」と。ところが、その後ラザロは実際に死ぬ訳です。弟子たちも、これにはびっくりする始末。「イエス様は必ず、愛するラザロを癒して下さると思っていたのに・・・・雲行きが怪しくなった!」と。
 
 その後、一番に悲しむマルタとマリヤの元に、イエス・キリストが訪れた時、彼女たちと不思議な会話をされました。実はラザロの「死」には、二つの大きな意味があります。第一の「死」は、文字通り肉体的な死を意味します。ラザロはこの時、事実としては病死でした。それ故、全ての者が「もう終わった!」と判断しました。
 
 しかしイエス・キリストの場合は、彼らが考えているような「死」で終わらない!と、明確に宣言されたのです。私たちが考える次元(三次元的判断)、それはある面で信仰の扉を、人間的判断で閉じてしまうようなものです。それに対してイエス・キリストは、「ちょっと待ちなさい!信仰の扉を閉じる前に、私の語る言葉、即ち終わりではない!ことを信じなさい!」と命じられます。
 
 この御言葉を純粋に受け留めたのが、姉マルタでした。11章23節で彼女は、「イエス様、終わりの時には復活することは存じています。」と、ストレートに返答します。それに対してイエス・キリストは、更なる奥深い霊的次元へと彼女を導きました。「私が復活であり命です。この私を信じる者は、死んでも生きるのです!生きていて私を信じる者は、誰も死ぬことがありません。マルタよ、あなたはこの言葉を信じますか?」と。
 
 さて私たちも、「あなたはこの言葉を信じますか?」という、イエス・キリストの御言葉を、純粋に受け留めているのでしょうか?つまり肉体的な「死」の後に、新たに生きる次元があることを。マルタは即座に「はい主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであることを私は信じております。」と返答し、自分の兄弟の「死」が、次の霊的段階(第二の死)に進んでいることを、信仰で受け留めたのです。
 
イエス・キリストの「信仰」
 ラザロが眠る「墓」を開く、イエス・キリストの行動に対して、全ての者が遠巻きに見ています。何故なら「死者」から放つ腐敗臭に、耐えられないからです。しかしイエス・キリストの場合は、全く動じずに次の行動に移りました。それは墓の奥深くに横たわる、ミイラ化した物体に対して、まるで寝ている子を起こすかの如きもので、息を吹きかけながら「ラザロよ、起きなさい!」と、真剣な口調で命じたのです。
 
 その瞬間、マリヤは悟りました。「何か必ず起きる!」と。するとラザロが、ミイラの状態のまま「墓」から出て来ます。続いて大勢の人々が驚愕しながら退散しました。「わー幽霊だ!」と。その後ラザロは、弟子たちを始め多くの人々に、自分が「死」から甦ったことを、大胆に証言したことでしょう。しかし「敵」は、その「証言」を覆すべく、様々に彼の家族を脅迫することになります。
 
 しかしラザロは、「私は一度死んだ身です。どうぞ殺しても構いません!」と大胆に告白したことでしょう。そして彼は、結局は「敵(刺客)」の手により謀殺(第二の死)されます。ラザロは殺された瞬間に、「あー、やっと故郷に帰ることが出来た。」と、天国へと凱旋したのです。
 
 姉マルタの信仰を復活させた、イエス・キリストの「信仰」は、「私こそが復活であり、命そのものです!」(25節)の御言葉に集約されます。この時点でのイエス・キリストは、未だ十字架に磔にされておらず、ましてや死んでもいません。目に見える事実としては、「師イエスが生きている」ことは当然ですから、この言葉が逆に矛盾(疑い)を募らせるはずです。
 
 ところが彼女は、イエス・キリストが「死で終わりではない!」と言われた、最初の重要な御言葉とリンクさせたことで、明確にその奥義を信じたのです。「私たちが考える死は、確かにそれで終わりだと見えても、それは完全なるストップを意味するのでは無く、そこから新たな別の段階が始まる!」と。ですから彼女は、イエス様こそが「復活の源(始まり)」であり、「命の源(完成)」である!と、信仰で受け留めることが出来ました。つまりイエス・キリストを信じることで、「やり直しが利く!」と悟ったのです。
 
 ラザロが謀殺された時、恐らくマルタとマリヤは深く悲しんだことでしょう。しかしそれは、一回目の悲しみの時とは、全く違うもので、喜びの涙を伴うものでした。「あー遂にラザロは、愛する主の元へと凱旋していった!」と。そうです!天国に凱旋したキリスト者の全てが、生きている私たちに対して「皆、決して(この世に)負けてはなりません!イエス・キリストが真の復活であり命です。この方と共にある限り、全ての事がやり直しが利きます。私たちの主イエス・キリストは、既にこの世に勝利しました!」と、エールを送っているのです。
 
よみがえりの信仰
 最後に復活(よみがえり)に関する、イエス・キリストの「信仰」とは、如何なるものだったのでしょうか?イエス・キリストは、度重なる最後の受難においても、決して「十字架の道」、即ちご自分の贖罪による「死」を放棄しませんでした。そうです!彼は決して「世」に降伏することはなく、父なる神の御心を優先させるべく、まさしく「死」を待望していたのです。
 
 そして、遂に「十字架」上に磔にされた時、サタンが最後の「試み(誘惑)」を仕掛けます。「イエスよ、あなたはもう十分に役目を果たした。父はご存知だよ。あのアブラハムでさえ、イサクを捧げる直前に許されたではないか!あなたも神の愛を伝えるべく、最大限に努力したから、もういい。そこから降りなさい。」と。しかしイエスは、気絶しそうになりながらも、サタンの甘い囁きに耳を貸さず、か細い声で「父よ、私こそが死を乗り越えるべく、最初の贖いの生贄として、復活の源となります!」と告白し、最後は「全ては完了(成就)した!」と宣言し、ご自分の「命」を神に捧げました。
 
 「全ては完了(成就)した!」という、このイエスの最後の信仰告白は、全てが「死」で終了したことを意味するのではなく、ここ(十字架の死)から「新しい命」、即ち永遠の「復活の命」が始まることを意味します。そうです!父なる神の「ご計画」が、イエス・キリストの「十字架」により、遂に完成されたのです。
 
 このようなイエス・キリストの、よみがえりの「信仰」を、無条件に戴いている私たちは、何と幸せな存在でしょうか!確かに私たちは、物理的な「死」に関して、誰しもが「恐怖」を抱く弱い存在です。目に見える事実に負けてしまうからです。しかし覚えて下さい!「死」は「死」で終わりではない!こと、そして「命」から「命」へと至る、新たな神の祝福の法則が、イエス・キリストの「復活」により始まるのです。
 
 私たちの目前に迫り来る大艱難の時代、それは何時、如何なる状態で到来するのか、全く分かりませんが、サタンが「反キリスト」という偽メシヤを台頭させ、キリスト者を謀殺せしめんと、様々に迫害する時が近いことは確かです。しかしサタンは、最初は「敵」としての顔で、私たちの「霊」に近付くのではなく、甘い囁きをもって紳士的に訪問します。「あなたは、(神への奉仕に)よく頑張っている。そろそろ皆から認められるべき、そんな偉大なる業に励む頃だね。もう十分にやっているから、今の肩の荷を降ろしなさい!自分を大切にする時間を取りなさい。」と。
 
 「その時」に、私たちは「否!たとえ(私が)干からびて死んだとしても、全うされる次元がある!父なる神の、麗しい復活の次元の中で生きることを、私はこれからも選択し続ける!死は死で終わりではない。サタンよ去れ!」と、私たちもイエス・キリストと共に、十字架の踏絵(死)を踏むのです。
 
 私たちの主イエス・キリストは、「この世」が提供する自由ではなく、最終的に「この世」から謀殺されることがあっても、御国において永遠に続く「真の自由」を、求める者に惜しみなく与える方です。私たちは、いよいよ「信仰」の最終段階、即ち「復活」に至る霊的訓練(備え)の時が来ました。そして遂には、パトモス島のヨハネの如くに、「天国」を待望する次元へと、私たちが助け主聖霊様により、更に取扱われて行きますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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