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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.25)

                          無条件降伏の時
 



真夜中になって、主はエジプトの国で全ての初子を撃たれた。・・・・また家畜の初子もことごとく撃たれたので、・・・・大いなる叫びがエジプト中に起こった。ファラオは、モーセとアロンを夜の内に呼び出して言った。「さー、私の民の中から出て行くがよい。あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。・・・・そして、私をも祝福してもらいたい。」エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったからである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。イスラエルの人々は・・・・エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。
                                                                                             【出エジプト記12章29~36節】
 
「真夜中」という時刻
  遂にイスラエルの民を購うべく、最後の「災い」を、エジプトに臨ませようとしている時に当たり、主なる神はイスラエルの民に対して、傷の無い一匹の「子羊」を屠り、各家庭の鴨居の柱に、その血潮を塗るように命じました。そして彼らは、神の「ご命令」を忠実に果たし終え、「その時」を待ったのです。
 
 イスラエルの民にとって「この日」程、緊張感に満ちた日は無かったことでしょう。彼らは知っていました。この後「何」が起きるのかを。真夜中に主なる神が、「御心の時」を閉じられる、つまり霊的「救い」の門扉を、完全にシャットアウトし、如何なるエジプトの「初子」も、神の「救い」の恵みにあずかれない、つまり死んでいくことを。
 
 今回の記事から学ぶべき第一の奥義(霊的出来事)、それは「真夜中」に撃たれる、主なる神の御業についてです。つまり「真夜中」という時刻に、確実に暗闇の覆い(ヴェール)が、エジプト全土に降りて来たのです。すると突然に、エジプトの「人」から家畜に至るまで、全ての「初子」が、苦しみの叫び声を上げながら、バタバタと突然死したのです。ファラオの家族も例外ではなく、王にとって最愛の第一王子(長子)が、還らぬ人と化したのです。
 
 ところで私たちキリスト者も、エジプト人と同じように、霊的に「大事なもの(一番に好むこと)」があることを、皆さんはご存知でしょうか?それは「イエス・キリスト」以上に、一見麗しく思える(見える)もので、私たちの「霊」に巣食う、「イドラ(霊的偶像)」の如きものです。
 
 「今」の時は、霊的には「真夜中(午前零時)」より数秒前、即ち23時59分5?秒の時刻かもしれません。この霊的な「真夜中」の時刻に到った時には、とんでもない事が次々と起こります。私たちキリスト者に中にも、ある事が起きます。それは、「イエス・キリスト」の十字架の血潮のみを、私たちの「霊的神殿」の門の、鴨居の柱の「全て」に渡って、塗っているか否かが問われる程の事が、実は起きるのです。
 
 覚えて戴きたいことは、イエス・キリストの「十字架」の血潮を、私たちの「霊」のフィールドに、万遍なく降り注ぐ(塗る)ことは、私たちが果たすべき霊的日課です!そうです!イエス・キリストの貴い、その贖いの「血潮」故に、私たちは立たされている、生かされている、進まされているのです。このイエス・キリストの、大いなる「恵み」が無ければ、私は何も出来ない!という、霊的謙虚さ(へりくだり)をもって、神の御前に出る者であるべきです!
 
 ファラオのように、「この世」の力を継続することを欲したり、「この世」の中で、自分が尚も強く立って歩もうと望むこと、これらは霊的頑なさと呼びますが、ある面でこれらが、悪しき霊的「初子」となります。
 
「出立(霊的出エジプト)」の時刻
  さてイスラエルの民には、「夜」が明ける前に、出立の時が用意されました。これが第二の奥義です。私たちキリスト者は、主なる神による「出立の時」が、既に始まっていることを知っています。「出立の時」は、突然に起きることではありません。この時も、主なる神による予告(事前通告)がありました。「その時に備えていなさい!」と。彼らは主なる神の「予告」に、素直に聞き従いました。そして、「その時」を待ったのです。しかも「酵母の入っていないパン」を、こね鉢の中で練りながら・・・・。
 
 何故彼らは、「酵母の入っていないパン」を作ったのでしょうか?彼らは出立した後々に、いつ「目的地」に辿り着くか、その「先」が分からないにしても、とにかく行った先々の地において、必ず「酵母の入っていないパン」を作り、神の御前で感謝の礼拝を捧げながら、主なる神によって成し遂げられた、この大いなる「脱出記念」の時を、共同体全体で祝うためでした。
 
 私たちも霊的にへり下り、主なる神の「下僕」として、ある方の訪問を待つ、その備えが必要となります。花婿なるイエス・キリストが、突然「真夜中」の時刻に、あなたの元を訪れた時、あなたは最初「えーと、あなたは、どちら様ですか?」と、戸惑いながら尋ねるかも知れません。すると、そのお方は「私は今晩、あなたを救い出す真の神です!」と、快く応じて下さることでしょう。
 
見よ。私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
                                                                                                   【ヨハネの黙示録3章20節】
 
 私たちの愛する方は、必ず私たちの霊の門扉を叩き、優しき御声をもって語りかけて下さいます。常に私たちを霊的に練り聖め、様々に取扱って下さることで、主イエス・キリストの花嫁として、霊的に聖く仕立てて下さる聖霊様、この方との親しき交わりこそが、「その時」に向けての、一番重要な日課(霊的訓練)になります!
 
 「パン種(酵母)」とは、霊的初子を肥えさせる、大いなる悪しき力のことです。それ故に、聖霊様は「パン種を入れてはなりません!常に私から学び、私を通して聖められなさい!」と、私たちに激しく臨んで下さっているのです。この聖霊様による聖別の働きを、私たちは絶対に無視してはなりません。
 
「出立の時」に向けて
 「エジプト」という巨大国家権力を誇る、その首長(国家元首)たるファラオ王は、何と身分的にも卑しい(みすぼらしい)、弱小民族のイスラエル人の神の前に、最終的には無条件降伏しました。世界史の中で、このような光景は、この時だけでした。
 
 間もなくしたら、「あー、あの時の方が、まだましだった!」と思える程の、最後の「災い(大患難)」が来ます。しかし私たちキリスト者は、「霊の眼」と「霊の耳」をもって、神の「予告」をキャッチすることが出来ます。そして、私たちが日々為し続けること、それは「酵母(パン種)の入っていないパン」を、共に食し続けることです。私たちが「今」被っている、様々な「苦しみ」や「困窮」など、それらは全て「出立の時」に向けての、霊的備えでもあるのです。
 
 「この世」という悪しき霊的初子を、私たちは絶対「頼み」とすることが無いように。私たちキリスト者の霊的「長子」は、イエス・キリストお一人だけです!イエス・キリストご自身が、十字架上で「贖い」の生贄として屠られた!こと、この大いなる神の御業により、私たちは生かされているのです。このイエス・キリストの貴い十字架の血潮を、私たちの「霊」の鴨居に塗り(注ぎ)続け、聖霊様が与えて下さる、「命のパン(イエス・キリスト)」を食し続けましょう!

  いよいよ、私たちの花婿(イエス・キリスト)が再臨される、「その時」が近付いています。また、この世からの「脱出の時」も近付いています。それは「突然」ではありません。あなたが毎日、あなたの「霊の扉」をノックして下さる、聖霊様の御声に、いつも耳を傾けつつ、神の大いなる取扱い(訓練)を、十分に全うできることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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