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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.30)

             しかし再び髪の毛が伸び始める時


 
 
しかし、彼の髪の毛は剃られた後、また伸び始めていた。ペリシテ人の領主たちは集まって、彼らの神ダゴンに盛大な生贄を捧げ、・・・・上機嫌になり、「サムソンを呼べ。見世物にして楽しもう」と言い出した。こうしてサムソンは牢屋から呼び出され、笑いものにされた。柱の間に立たされた時、サムソンは彼の手を掴んでいた若者に、「私を引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい」と頼んだ。・・・・サムソンは主に祈って言った。「私の神なる主よ。私を思い起こして下さい。神よ、今一度だけ私に力を与え・・・・て下さい。」それからサムソンは、・・・・「私の命はペリシテ人と共に絶えるがよい」と言って、力を込めて(二本の柱を)押した。建物は領主たちだけではなく、そこに居た全ての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。
                                                                                                        【士師記16章22~30節】
 
「しかし・・・・」の後に
 ご存知のように「サムソン」の名は、士師としての名声より、失敗者(堕落者)としての名前の方が知られています。しかし聖書は、三次元的アングル(視点)で見るのではなく、神の「霊の次元」で紐解いてゆくのであれば、そこに神の豊かな「奥義」が、不思議な方法で散りばめられていることに気付かされます。
 
 覚えて戴きたいことは、サムソンは私たちと、何ら変わりなき者である!ことです。アダム(エバ)が犯した「罪」は、今日に至るまで継続しているからです。だからと言って、サムソンに「救い」がない訳ではありません!「信仰」というのは、肉の次元で測るのではなく、神の「霊の次元」で、その人が最終的に如何なる決断を下し、如何なる「捧げ方(礼拝)」に至ったのか?その点に「信仰」の価値を見出すべきです。
 
 そういう意味で、今回の記事に真っ先に登場する「接続詞」、これが非常に重要となります。それは「しかし」(22節)という言葉です。士師記の著者が誰か定かではありませんが、聖霊様は必ず神の言葉の「書き手」に対しても、上よりの「油注ぎ」をもって、この「しかし」を付け加えたのです!
 
 復活した師イエスに対して、相も変わらず愚かな質問をする、ペテロを代表するあの弟子たちの集団に対して、イエス・キリストは諭しながら、「しかし聖霊があなた方に降る時」という、有名な「御言葉」を発しました。「しかし」の後、確かに神の「命の言葉」が、次々と弟子たちの「人生(生き様)」を変え、聖霊によって霊的に捉えられ、最終的にはイエス・キリストと同様に、決して「死」を恐れない殉教の道を、彼らの殆どが全うしたのです。
 
 ではサムソンの場合は、この神による「しかし」の後に、如何なる事が起きたのでしょうか?それは彼の「髪の毛」が、再び元の状態まで伸び始めたことです。それと同時に「神の力」が、自分の体力に回復しつつあることを、彼は祈りの中で体験していました。そして「その時」、彼はあることに気付きます。「もしかしたら主なる神は、この私を通して、まだ重要な務めを残しているのではないだろうか?」と。
 
「失敗」は終りではなく・・・・
 サムソンは幼少の頃より、両親を通して知らされた、自分の「髪の毛」の秘密(奥義)を吟味していました。そして今回、再度「髪の毛」が伸び始め、神の大いなる「力」が注ぎ始めたことで、神の「秘密(救いのご計画)」に関する、最後の「完成の時」を、彼は意識するようになります。実は、今回のサムソンのフィナーレの時は、私たちの「信仰」の歩みにおいても、同様のプロセスが為されるのです。
 
 確かに私たちは、サムソンほどの「信仰者」でも、「勇者」でもありません。またもしかしたら、彼以上に「この世」に魅了され易い、霊的に「弱い」器かも知れません。しかし聖霊様の「取扱い」の後に、私たちもサムソンの如くに、必ず「信仰」が復活し始め、「完成」へと更に進んで行くのです!
 
 ともすれば私たちは、「失敗」すればする程、「信仰」が後退するのでは?などと錯覚します。「しかし」主なる神は、私たちの「失敗」をご存知の上で、その「失敗」と思われる経験を、最後の霊的訓練として、直々に用意しているのです。実は「失敗」した時こそが、神の取扱いの御手が一番近くにあるのです。何故なら「事」を始められた方(創始者)は、それを「完成」へと至らせる務め(使命)があるからです。
 
 「復活」とは、勿論イエス・キリストの「復活」も意味します。それと同時に神の救いの「ご計画」にある、この「復活」という働きは、聖霊様を通して、至るところに用意される、神の奥義の「完成」をも意味します。つまり私たちが、「失敗」だらけの者てあることを分った上で、聖霊様は「復活」に至る道備えをも、私たちに用意して下さるのです。最終的に「復活」の奥義が始まりますと、私たちは二度と悪魔サタンの「餌食」にかかることはありません!むしろサムソンと同様の道を歩まされることになります。
 
「死」をもって奉じる
 ペリシテ人たちが、「ダゴン」を祭るべく、今までにない規模の「お祭り騒ぎ」に浮かれる中、サムソンは祈りの中で「神の時」を待ちました。すると遂に、敵の前で「辱め」を受ける、完成の「その時」が来たことを悟ります。皆から散々に嘲笑される中、彼は黙して祈り続けます。「聖霊様、あなたの御心のままに、偶像を祭る建物の真ん中に来ました。この場に来られたことを感謝します。しかし主よ、私はもう(嘲りに)耐えられません。」と。
 
 しばらくすると聖霊様は、連行する若者を通して、彼を二本の柱へと導き、最終命令を発しました。「あなたが寄りすがる、その二本の柱に対して、両手に力を込めて精一杯押し倒しなさい!」と。その瞬間、サムソンは悟ります。「自分の意志で動くのではなく、最後の神の道備えが、今まさに始まった!」ことを。そして彼は次のように告白しました。「どうか主なる神よ、ここにいるペリシテ人を手土産として、この私を殺して下さい!」(30節)と。
 
 この言葉を言えることが出来た彼の「信仰」、それは肉の「両眼」をえぐられたからこそ、目に見えざる神の「霊の次元」と、神の「奥義(御心)」を確認できたことによります。30節の彼の言葉を直訳しますと、「主よ、あなたが私を殺して下さい!しかしこの私一人ではなく、偶像礼拝を為す敵どもを携えて、私は死をもって奉じます。」となります。
 
 すると上よりの「神の力」が、彼の全身全霊に降り注ぎ、両目をえぐられる以前よりも、更なる「筋力」となって増し加わった結果、建物を支える二本の柱がひび割れ始め、遂には天井からも積み重なる石が崩れ落ち、最終的にはこの場に居合わせる、ペリシテ人全てを打ち滅ぼしたのです。聖霊様は全てを相働かせ、「益(神の栄光)」として下さいます。この時に集まったペリシテ人は、敵の中でも主力クラス(各領主、将軍たち)でした。
 
 それが、たちどころに滅ぼされるという、神の「完成(勝利)」が、サムソンの「死(殉教)」によって為された訳です。つまりサムソンの「失敗」が、かえって敵の油断を招き、敵の主力を一か所に集めた!という、驚くべき神の「奥義」が、サムソンの「髪の毛(信仰)」に隠されていたのです。
 
 いずれ来るであろう、「この世」の君(反キリスト)の元には、世界各地から多くの主力部隊(首脳陣)が集結します。そして集結場所は、「エルサレム」と定められることでしょう。彼(反キリスト)は、神殿で自らを「王の王」、即ち「救い(平和)の神」として崇めるよう、世界中の民に対して号令を発します。
 
 この時、神の兵士たち(レムナント)は、最終的な「戦い」を強いられることでしょう。迫害に次ぐ迫害、大量虐殺を受ける中で、一旦は「少数」の如くになるでしょう。しかしサムソンと同様に、彼らは祈り始めます。「この敵どもと共に、この私たちを殺して下さい!」と祈る中、大轟音が天より響きます。すると「その時」、あの麗しの君イエス・キリストが、反キリストを地に打ち倒すべく、遂に再臨する(帰って来られる)のです。
 
 今こそ私たちも、サムソンの「信仰」の復活に見習い、更に霊的に取扱われていく必要があります。神の「取扱い」は、私たちのような「失敗者」だからこそ、聖霊様を通して豊かに現されるのではないでしょうか!私たちの人生には、様々な「苦難」が絶えません。しかしその「苦難」の中に、聖霊様が更に私たちを、神の御心という深い領域まで導き、「神の御心は一体何なのか?」、「何故私たちが、この時代に生きているのか?」、「今苦しんでいることに意味があるのか?」などの、隠された「奥義」を、必ず示して下さいます。
 
 神の「奥義」は、最後に用意されています。この「信仰」を確認しましょう!それは私たちに、既に得ているものかも知れません。しかしそれをもって、再び使用する時があるのです。即ち「復活」の信仰です。私たちの手に委ねられた、この「復活」の信仰は、失われ行く多くの魂を、敵どもの地から勝ち取るものです!
 
 反キリストが吠え猛る獅子の如くに、到来する時代に入っています。しかし覚えて下さい。私たちは「今の時」こそが、聖霊様を通して霊的に熟成されているのです。主イエス・キリストの豊かなる取扱いと、私たちに用意されている「復活」の信仰により、あなたが神の「御心」の中で、益々訓練されながら、神の「力」に満たされることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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