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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.19)

                 聖霊の知恵から来る言葉



私の言葉も私の宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、霊(聖霊)と力の証明によるものでした。それは、あなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。・・・・私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。・・・・私たちには、神が霊によってそのことを明らかに示して下さいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、私たちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。「誰が主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。
                                                                                              【Ⅰコリント書2章4~16節】


 ご存知のように使徒パウロは、当時のユダヤ人が使用していた「アラム語」ばかりでなく、ギリシャ語やイタリヤ語など、恐らく数ヶ国語を自由に操ることができる程の、知恵と才能に恵まれた人物でした。又、彼は見かけは小柄で、頼りない人物に見えるのですが、かつて「サウロ」であった頃と懸け離れた、神の「聖さ」に満ち溢れ、霊的に更に精錬されたキリスト者に変革されました。それ故、彼は当然指導力に優れた、「知恵の言葉」を雄弁に語ることのできる、ある面で政治家や弁護士の如く、「語る」ことにおいて並外れた才能を、神から与えられていたのです。


 しかし、その彼が聖霊の導きの中で、主イエス・キリストを更に奥深く「知る」ことで、彼自身が書簡の中で明確に述べていることは、「自分の知恵や、この世の知恵に頼ること、又それを求めることほど虚しい(無駄な)ものはない!むしろ神ご自身を知る喜びこそ、全てに優るものである!」ということです。「もし、あなた方の誰かが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな物になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」(Ⅰコリント書3章18節)パウロにとって、「世の知恵」ほど無意味なものはなく、むしろ神と自分の関係を、霊的に引き離す「悪しきもの」であると、彼は把握するようになりました。彼は、自分が生きるにしろ死ぬにしろ、「キリストを求めること以外に、自分の霊が生きる道は無い!」と、常に自覚していました。彼はこの一点、即ち神ご自身を「知る」ことの喜びに、自分の生涯(命)を賭けながら、自分に課せられた「使命(召命)」は、聖霊様から教え導かれる「主イエス・キリスト」を、「何にも優る最高の知恵」として、この世の人々に紹介していくことである!このように悟りつつ、宣教に携わっていたのです。


神の知恵とは?
 「神の知恵」とは何でしょうか?リック・ジョイナーによれば、聖書に記述されている「神の知恵」は、全て「イエス・キリスト」ご自身を指していると述べています。パウロはこの書簡の中で、「神の知恵」は第一に、「隠されていた、神秘としての神の知恵」(6節)であると説明しています。新共同訳で「神秘」と訳されている部分を、「奥義」(新改訳)と訳した方が更に分り易くなるでしょう。「奥義」とは、誰も理解することのできない、「秘められた(隠された)真理」のことです。


 今に生きる私たちにとって、実は霊的に隠されている真理が多くあります。ということは、「今」は確かに隠されているものであっても、「以前」は隠されていなかった、つまりオープンの状態だったのではないか!と推測できます。今は霊的に閉じられている(close)ものが、かつて「エデンの園」が地上に存在した頃は、常に全てが開かれている(open)状態であったものと思われます。


 このように考えると、「奥義」に対するイメージが、より明確に見えて来ます。かつて、「エデンの園」においてオープンであったものが、アダム(エバ)の罪により三次元の支配(覆い)が、「本来の人」の五感の正常な状態を、全面的にクローズした結果、神の支配する「霊の次元」の領域を、私たちはストレートにキャッチできなくなりました。私たちの五体(五感)が、「罪」に覆われて(死んで)いる限り、「霊の領域」のことを理解することも、聖霊様が導かれる新しい「霊の次元」に入ることも、到底不可能です。


 しかし私たちが、新しい「霊の領域」に再び自由に踏み入ることができるよう、父なる神は新しい「霊の扉」を用意して下さいました。それは「五旬節革命」に始まった、「新しい権威」としての「天上の力」が、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」(9節)「霊的領域」に入るために、聖霊を通して私たちの「舌」に「新しい言葉」を、「焼印(約束の証印)」として与えて下さったことです。これにより、私たちは自由に「霊の言葉」を語ることで、新しい「霊の領域」への扉を、大胆にオープンすることが可能になりました。ですから、「異言」は神の「霊的次元」に通じる、新しい「霊の扉」であることを再認識して下さい!


 彼らが罪を犯す以前の、「エデンの園」を覆っていたものは、聖霊様による「完全な支配」でした。聖霊ご自身が、あたかも空気中の「酸素」の如くに、「園」の全てを覆っていました。彼らは、いつでも自由に聖霊様を、霊的に吸収しながら「生きる」ことができました。それ故に、彼らは聖霊様を通して「神の知恵」を、より深く「知る」ことができたのです。彼らの五感は、例えば「目」で直接「神」を見、「耳」は神の「御声」を聞き分け、「鼻」は神の「臨在」を敏感に捕らえ、「舌」は神の愛に満ちた「麗しさ(美)」を、十分に味わうことが可能でした。そして、私たちの「体」で神に触れると必ず「死ぬ」はずのものが、彼らは直接神と触れ合い「御顔」に触れることのできる、霊的にも肉体的にも優れた機能が、完全に備わっていたのです。


神を愛するとは?
神はご自分を愛する者たちに準備された。」(9節)
 神が、ご自分を愛する者たちに準備するもの、それが「神の知恵」です。しかし「条件」が付記されています。神はご自分を「求める者」や「付いて来る者」、「御名を信じる者」などに無条件で与えるとは記述されていません。神は、ご自分を「愛する者」のみに与えること、これが条件です。神ご自身を自分の目的(利益)から求める者、つまり自己利益を求めたり、自分を愛する目的から神を信じる者は、「この世」の三次元の領域には、数多く存在します。


 神ご自身を「愛する者」とは、ローマ書12章1節の御言葉に通じる言葉ですが、父なる神が御子イエス・キリストを、罪に満ち溢れたこの世の人々に、惜しみなく与えて下さった「父の愛(アガペー)」と同じように、自分自身の全て(命)をもって、惜しみなく捧げ尽くす者、又主イエス・キリストを霊と真をもって追い求める者です。ですから「神の知恵」は、全てを捧げる者にしか準備されないものです。これは非常に厳しい条件です。神を愛するとは、自分自身を20%ほど愛し、残りの80%をもって神を愛すればよい!というものではありません。「全てを捧げ尽くす」とは、自分自身を惜しみなく全部(100%)出し切ること、即ち「生きた聖なる」供え物(全焼の生贄)になることを、意味するのです!


 しかし、私たちが霊的に勘違いしてならないことは、「異言の賜物」を与えられた者が、100%の愛をもって全て捧げ尽くした結果、この素晴らしい「聖霊の賜物」を、天から与えられた訳ではないことです。父なる神が、聖霊を通して示して下さる「神の知恵」は、赤子が「乳児期」から「幼児期」へ、そして「子供」から「少年(少女)期」へと成長していくように、主を「知る」こと「愛する」ことにおいて、成熟した「キリストの花嫁」へと成長するべく、自分の「命」を賭けて主を愛することを、何よりも求め渇く者に対して、無代価(無条件)で与えられるものです。ですから、「新しい言葉」を語り出したからと言って、「私は、いつでも自由に神の霊の扉を開け、神の奥義を簡単に知ることができる!」などの霊的な錯覚に、私たちは陥ってはなりません。


 あくまで神は、求めることにおいて聖霊様の「助け」を、へり下って乞い願う悔いた砕かれた「姿勢」と、霊的に飢え渇き続ける「努力」無くして、「神の知恵」を付与しません。「至聖所」に入るということは、タナボタ(棚からぼた餅)式に「神の宮」が、私たちの「霊」の只中に確立されることではなく、自分の側にも聖霊を通して、建て上げられるべき分野(領域)があることを、私たちは知るべきです。そのためには、更にへり下って聖霊様を求め、聖霊様が導かれる歩みの中で、私たちが謙虚に教えて戴く必要があります。「新しい言葉」を語り出したから、「全てが分るようになった」と錯覚することは、とんでもない誤りです。むしろ「新しい言葉」を語り始めると、如何に自分が霊的に「無知」であり、主イエス・キリストご自身を更に「知る」こと無くして、霊的次元の奥深さも素晴らしさも知り得ないことが、「身(体)」及び「霊」にしみて「分る」ようになります。「異言」を語ることにより、今まで見えなかった聖書に対する理解が深められ、今まで全く見えなかった神の「霊的次元」を、聖霊を受ける以前より「少し見える」ようになったとは言え、更に奥深い「見えざる領域」が、未々無限に広がっていることが分るのです。


 それ故に、日々「聖霊」を受けるということは、更なる「霊的飢え渇き」の始まりに過ぎません。もう一度覚えて戴きたいことは、新しい「霊的次元」に入ったからと言って、全てが理解できる(オープン)ようになる訳ではありません。「エデンの園」の中央にある、「命の木」の実を再び霊的に食すこと、即ち「善悪の木」の実という「世の知恵」ではなく、主イエス・キリストをこよなく求め、主イエス・キリストを愛することを、自分の「命」と引き換えに求めること、これが「神を愛する者」の姿(有り様)です。つまり「命の木の実を、私は食べたいのです!この実を食べないと、私は死んでしまいます!」などと、真の「花婿」イエス・キリストを、へり下って捜し求める「花嫁」のことです。あなたの霊的「命の源(エネルギー)」は、主イエス・キリスト、即ち「命の木」の実を食べること以外にあり得ません!


 「世の知恵」の象徴は、「善悪の木」の実です。アダム(エバ)の罪の結果、私たちは何が「善きこと」で、何が「悪しきこと」であるかを、ある面で「知る」ようになりました。しかし、この木の実を食べたからと言って、「善きこと」だけを為すことができたり、「悪しきこと」から完全に離れ、「悪しき次元」を完全に支配することが、可能になった訳ではありません。返って私たちは、好むと好まざるとに関わらず、「悪しきこと」を(自分の本意からでなくても)為していくようになりました。


 全ての人が、「心の清さ」を求めようとします。又「いつも、美しい心でありたい!」などと、望んでいることでしょう。そして隣人には、「優しい心」をもって接しようと努めます。ところが「ある時」には、それができないことがあります。自分の利益に反することや、自分が思いもしなかった仕打ちを食らった時に「心の美しさ」は、いとも簡単に汚されるのです。しかし主イエス・キリストが、私たちに与えて下さった「十字架の愛」は、変わることのない「聖いもの」、そして無条件に与える「愛」です。全ての人を「救う」ために、それがどんな敵であっても、どんな憎しみを持った人であっても、イエス・キリストはご自分の命を、「十字架」上で全て捧げ尽くしたことにより、父なる神の「愛」をお示しになりました。この方以外に、「真実の愛」を与えて下さる方は存在しません。


 父なる神が命じられるように、私たちはこの唯一の「救い主」イエス・キリストを信じ、この方の「愛」の中に生きる時に初めて、十字架から流れ出る「貴い血潮」によって、私たちの中にある汚れた「心(思い)」と、汚れ易い「良心」が聖められ、「主イエス・キリストの信仰」によって、他人を愛することが可能になるのです!私たちは、主イエス・キリストの「贖いの犠牲」無くして、「自分の命」を捧げることも、真心から他人を愛することもできません。それ故に、聖霊様は命じられます。「あなたの命の源である命の木が、あなたの前に常に用意されています。この命の木から実を取り、満ち足りるほど食べなさい!善悪の木の実は、アダムとエバの時の一度だけでよい!あなたは既に、主イエス・キリストを信じたのですから、これから更なる飢え渇きをもって、命の木の実だけを食べ続けなさい!」と。


 「世の知恵」の覆い(悪しきシールド)を、完全に取り除くことができる唯一の霊的食物、それが「命の木」の実です。「世の知恵」は、一見麗しいものに満ちているかのように見えます。殆どの人が、「科学万能主義」を求めることで、いずれ「この世」の全てが幸福に満ち溢れ、全ての人類が平和に暮らせるような、良き時代が到来するだろうと錯覚していますが、現実的には「軍事技術」のみが先行し、決して神の望む「正しい方向」に向かうことはなく、益々「悪しき方向」に傾いていることに、全く気付いていません。


聖霊の知恵から来る言葉
―第1の力―
霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(10節)
 聖霊様は、全てのことを「知る」方、そして神の深みさえも究められる方です。即ち聖霊様だけが、「最高の知恵」を教え導く方であり、イエス・キリストという、最高の「知恵の源」に案内する方は、聖霊様お一人です。ある面で、私たちは聖霊様という「霊的ゲート」を通らなければ、本当の「霊的な知恵」の次元(領域)に入ることは到底不可能です。それ故に、この点から教え導かれる原則は、「神の霊以外に、神のことを知る者はいない」(11節)ということです。私たちは、このことを再度自分の「霊」の只中に、明確に刻み込んで下さい。


 パウロは続いて13節から、「霊的なものによって霊的なことを説明する」と明言しています。即ち、「霊的次元」に関することを説明する(説き明かす)には、聖霊様が与えて下さる「知恵の言葉」によらなければ、決して不可能です。実はこの原則から、聖霊の「知恵の言葉」には、必ずあるものが必要になります。私たちが「ある事柄」を説明する時には、必ず「何か」が必要です。例えば妻が、夫の知らない(未経験の)「ある料理」を作ったとします。すると夫は、食卓に出された「未知の料理」に対して、
「こ、これは、いったい何?」
などと、必ず尋ねるでしょう。その時妻は、
「これは、〇〇〇という名前の料理よ。料理の本を参考にして、今晩作ってみたの!材料は~と~で、カロリーは比較的低めだけど、とっても美味しくてよ!」
などと語りながら、この未知の料理のプロセスを、彼女なりの表現で「説明」します。この時彼女は、「何」をもって説明しているのでしょうか?実は「料理のレシピ」という、「言葉」をもって説明しています。妻が、自分流の「分り易い言葉」をもって説明した時に、夫は妻の「いつもの言葉」として受け留め、そこで初めて納得し、安心して食することができます。


 この「言葉の原則」から分りますように、未知の「専門分野」や「知識」というものは、それを産み出した人、或いはそれを追求している人にしか、分り易く説明できない領域にあります。例えば「法律用語」や、訳の分らぬ「専門技術用語」は、義務教育段階において、学習することのない「未知の言葉」ですから、彼ら(プロ)が突然その「言葉」を切り出し説明したところで、聞く側の私たちは全く理解できない状態に陥ります。しかし、彼らが私たちの側に立って、噛み砕いた「分り易い言葉」で、丁寧に説明し直すのであれば、少しずつ理解できるようになります。同様に、霊的な事柄を説明するには、聖霊様が与えて下さる「知恵の言葉」を求め、それを知った(得た)者にしか説明できないものです。


 三次元に生きる者に、「四次元の事柄」を語っても、恐らく理解されないでしょう。しかし、「主よ!私は本当に知りたいのです。求めているのです!」などと、「霊の次元」を求めて渇く者に、既に霊的領域を習得する(知る)者が、「こうすれば霊的次元に入れます。私たちは三次元に生きていますが、霊的次元に入りますと、本当に神の麗しい知恵が、少しずつ見えてきますよ!」などと証言した時、その人は更に霊的飢え渇きが増し、より奥深い「霊の領域」を求めて祈り続けていくことでしょう!


 日本の「わらべ歌(童謡)」の歌詞にある如く、「ほ、ほ、ほたる来い!こっちの水は甘いよ!そっちの水は苦いよ!」などの水に関する「情報(知恵)」を、経験していない(知らない)者にとって、「いや!こっちの水もそっちの水も、どちらも同じくらい甘いですね!」と言うばかりで、いつまで経っても水の「甘さ」と「苦さ」を区別できない、つまり「知らない」状態が続きます。しかし四次元の「霊の領域」に踏み入った者にとって、三次元の領域が如何に自分の「霊」にとって、「苦い」ものであるか分っているので、「もう飲みたくありません!私は聖霊様が豊かに流して下さる、生ける永遠の命の源イエス・キリストから、本当の甘い水を飲み続けます!」と、明確に告白できるのです。


 それに対し「三次元」に生き続ける人々は、「え!永遠の命の源イエス・キリストの水?それは今、私が読んでいる聖書の御言葉と同じものでしょう?私はいつでも御言葉を、美味しく戴いていますよ!私が出席している教会の礼拝においても、講壇から語られる先生の、愛に溢れた説教を聴いて、とても美味しく戴いていますから、それで十分ですよ!ですからあなたが語っているような、聖霊とか異言の次元には入りたくありません!そんな水は、教会の先生が言っているように、それこそ汚れた忌まわしき水ですから、私には結構です!」などと敬遠するだけで、決して「四次元」に入ることはありません。


 神の「霊の次元」は、神を追い求める人々に与えられる、「新しい言葉」を語ることによって初めて、霊的に「知る」ことが可能になり、又「霊の次元」に関して分り易く「説明」することが可能になります。ですから私たちは、「新しい言葉」を語ることによって得られる、この霊的な恵みを更に「体験」し、かつ「証言」していく必要があります。又「新しい言葉」を語ることは、一度語り出せばそれでよい!というレベルではなく、更に階段を昇るように奥深い「霊の領域」が、私たちが霊的に前進すればする程、先に「用意されている」ことを知って下さい。幼児から子供へ、そして少年(少女)から大人へと成長していくように、私たちは更に高い「天的レベル」にまで、成長することを求めようではありませんか!


 私たちが更に、命の源「主イエス・キリスト」に近づけば近づくほど、「命の水」の「甘味」は増して行きます。神の与える「命の水」は、私たちの「霊の唇」に確かに「甘い」ものです。しかし私たちが、「命の水」を流して下さる「源」に近づき、「源」から直接戴くようになれば、その「甘味」の美味しさは、格段に違ってくるのではないでしょうか!例えば容器に入った水の中に、ある一つの物質を落として、水に溶かす実験をします。この時この物質が、どのような「味」がするのか、全く分らない未知の物質と仮定します。この未知の物質が、完全に溶けた水溶液を飲んでみますと、確かに「甘い水」と感じられる、美味しい水になっています。


 そして今度は、更に別の容器に入った同量の水の中に、この物質を二個落とします。すると、「おや!もっと甘くなったぞ!こっちの方が、前のより実に美味しい!」と考え、もはや最初の「甘い水」を飲むことをしません。そして三個、四個と実験を重ねていく時、「待てよ、ひょっとしてこの物質自体に、甘くする効果があるのであれば、この物質そのものが、甘さの根源ではないだろうか!ちょっと口に入れて、一つ確かめてみよう!」などと、恐る恐る口の中に入れます。・・・・・・・・その物質が「舌」の上に乗せられた瞬間、舌から溢れるばかりの「唾液」が流れ出て、その物質を溶かし始めると、本当の「甘味の根源」が口一杯に拡がりました。「その時」彼は初めて、「真実の甘味」を体験することになります。


 私たちが求める奥深い「霊の次元」は、聖霊の「恵み」を戴くことで初めて、中に踏み入ることが可能になります。又、更に奥深くへと前進するにしたがって、命の源「主イエス・キリスト」だけを激しく追い求め始めるなど、天上から「神の力」が注がれる「恵みの領域」に入ることができます。私たちが「新しい言葉」を語ること、これは主イエス・キリストと私たちとの、より「親密な交わり」を完成させるべく、聖霊が用意して下さった、素晴らしい「霊の次元」を開くことのできる、唯一の扉」です。


―第2の力―
私たちはキリストの思いを抱いています。」(16節)
 「聖霊のバプテスマ」を受けた者、又「新しい言葉」を語る「聖霊の恵み」にあずかった者が、パウロが示す「キリストの思いを抱く」次元に、果して生きているでしょうか?あなたは、「キリストの思い」を常に抱いていますか?あなたの「心」と「霊」を常に支配しているのは、「キリストの思い」ですか?殆どの人が「私の思い」を抱きながら、生きているのではないでしょうか!「私の願い」、「私のビジョン」、「私のプラン」、「私の人生(生活)」、「私の名誉」、「私たちの教会」、「私たちのミニストリー」など、これらの「言葉」全てに共通することは、常に「私的思い」が「心」と「霊」の中で、「キリストの思い」を超えて占領していることです。あなたの「霊」の中に果して、「キリストの思い」が何割占めていますか?これは新しい「霊の次元」に入った者が、常に格闘しなければならない「霊的闘い」です。


 聖霊様は、私たちの「霊」の中に「私的思い」が、「キリストの思い」以上に優先されていくことを、非常に悲しまれます。「私的思い」を優先しているミニストリーは、たとえその実(実績)が、素晴らしい宣教効果を発揮していても、全てが聖霊様にとって「無益(無駄)」なものです。「私的思い」は常に、私たちを「この世の知恵(善悪の木の実)」へと誘うものである、このことを明確に悟って下さい!又、「自己中心」から来る知恵は、全て「この世」の次元へと至らしめるものです。しかし、イエス・キリストを全ての中心とし、「イエス・キリストの思い」を常に抱き、イエス・キリストが自分の「霊」を、完全に支配して戴くことを求める者は、「命の木」の実を食する恵みにあずかり、私たちの「霊」の只中に「キリストの思い」が満ちるなど、「神の宮」が必ず確立されていくのです。「キリストの思い」を常に抱くこと、これが「知恵の言葉」の第二の力です。


 自分の「肉の力」で、「キリストの思い」を優先させていくことは、到底不可能です。「私的思い」を、完全に取り除くことができる方は聖霊様お一人であり、それは聖霊様が与えて下さる、「異言の祈り」を捧げることで可能になります。「私の悲しみ」、「私の苦しみ」、「私の恐れ」ばかりに焦点を当て、それが取り除かれることだけを求める間は、肉体が疲れ霊的に意気消沈するだけです。そして、いつまで経っても霊的に解放されず、益々自己憐憫に陥るばかりです。しかし、聖霊様が導かれる「異言の祈り」を捧げていく時に、最初は「苦しみ」から贖い出されることを求める、「私的思い」の祈り(叫び)であっても、最終的には「キリストの思い」が次第に「霊」全体へと満ち溢れ、キリストの豊かな「甘美な愛」に触れる時、いつしか「私の苦しみ(私的思い)」が消え去っている、つまりイエス・キリストが臨在される、奥深い「霊の次元」に導かれていることに気付きます。これは、自分の「肉の力」によって生じたものではなく、聖霊様が導かれる「霊的ガイダンス(案内)」に従った結果、もたらされたものです。


 「異言」をもって祈るということは、聖霊様の「助け」を通して、父なる神の「御心」に触れることです。イエス・キリストの栄光の「御顔」に、「霊の手」であっても「霊の唇」であっても、霊的に触れることができた者、又イエス・キリストから触れて下さる「恵み」にあずかった者は、何と幸いな者でしょうか!忘れてならないことは、私たちが自分の「肉の力」で、先に触れるのではありません!あくまで聖霊様ご自身が、前もって「触れて下さる」のです。その時に私たちは、全てを明け渡すだけでよいのです!


最高の知恵に至る道
「あなたを待つ者に計らって下さる方は神よ、あなたの他にありません。昔から、他に聞いた者も、耳にした者も、目にした者もありません。喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えて下さいます。」
                                                                                                        【イザヤ書64章3~4節】


 神の奥深い「霊的神秘」の次元に入り始めると、この時「霊の次元」の入口に立って案内される方は、聖霊様に当たりますが、この「霊の次元」に踏み入り歩み始めた者には、ある「ゴール(行き着く先)」が見えてきます。そしてそこ(ゴ―ル)に、ある方が待っておられます。その方は、私たちの愛する「花婿」主イエス・キリストです。しかし、そのゴ―ルに辿り着くには、ある条件が課せられます。その条件とは、第一に「あなたの道に従う」こと、つまり聖霊様が用意して下さる「正しい道」を歩くことです。第二に「あなたを心に留める」ことです。「留める」とは、「住んで下さる(living)」ことを意味します。これこそが、「最高の知恵」イエス・キリストに至る道です。主イエス・キリストが、私たちの「霊」の中に住んで下さり、常に主イエス・キリストを、「自分の思い(願い)」以上に心に抱き続けること、これは「花嫁」が愛する「花婿」を常に恋焦がれるように、慕い求める姿勢と同じです。


 あなたにとって、「生きる」ことの全てはイエス・キリストですか?あなたの願い全てが、キリストご自身を求めることにありますか?あなたが求めているものが、イエス・キリストの願うものと、一致しているでしょうか?あなたの見ようとすることは、イエス・キリストと同じ「霊的次元」を求めていますか?あなたの耳にすることは、イエス・キリストの喜ばれる、「霊的な事柄」を求めていますか?あなたの語る言葉は、常にイエス・キリストを愛する、「真実の礼拝」の言葉となり、イエス・キリストが愛して下さっているのと同じように、隣人に対してイエス・キリストの「愛の言葉」を、常に語っているでしょうか?これらは全て、「私の力」や「私の思い(願い)」では、到底不可能なことです。


 しかし、イエス・キリストが私の「霊」の中に留まって(住んで)下さり、聖霊様を通してイエス・キリストが、私の生ける「命の原動力(源)」になる時、私たちの「信仰生活」において「霊の次元」が「オープン」の状態になり、「霊の領域」を正しく把握すること、又「霊的な事柄」を説明することができるレベルにまで、私たちは必ず変革されるのです!この「変革のプロセス」は、私たちの「霊的な闘い」における、欠くべからざる重要課題です。全ての事柄を「三次元」ではなく、「霊の次元」において正しく判断することが可能であれば、どんな「闘い」において失敗(敗北)することはありません。


 これを「霊的洞察力(知恵)」と言いますが、聖霊様が与えて下さる天からの「知恵の賜物」無くして、この社会を「変革」することのできる「上から力」を、正しく取り扱うことができないことを、私たちはそろそろ霊的に「知る」べきです。そのためには、先ず私たちの「霊」の只中から、聖霊による「変革」の御業が、更に推し進められることを祈り求めて下さい!そして、私たちに与えられているこの「新しい言葉」の賜物を、有効的に使用する「術」を聖霊様から教えて戴きましょう!聖霊様こそ「賜物」の管理主、そして「最高の道」へと案内する、「霊的ガイダンス」に他なりません。


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