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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(最終回)

                      エピローグ




小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。
                                                     【ルカ福音書12章32節】


 今から記す証言は、イエス・キリストの「小さな使徒」の一人、私の証言です。新しい言葉による「変革の時」は、求める全ての「キリストの花嫁」に、必ず訪れるものです。著者の証言は、決して自分の「変革」だけを求めた訳ではなく、只純粋に「神ご自身」を求めた結果、「今の時」に至っていることを証言しています。そして更に、「その時」至りて完全に贖われること、即ち花婿イエス・キリストの来臨の時に、共に「神の国」で「最高の式典」の栄誉にあずかることを、「信仰」と「希望」と「愛」をもって待ち望んでいます。


 聖霊様は今の「恵みの時」に、まさに最終号令を発しておられるのではないでしょうか!「小さな使徒たちよ、恐れてはならない!神の国は、求めるあなたの信仰の唇から始まるのだ!さー、大胆にイエス・キリストの証人として、新しい言葉を語り始めなさい!」と。あなたも、イエス・キリストの「小さな使徒(証人)」の一人です。そうです!聖霊様が始められた「使徒行伝(証言集)」は、今日も「あなたの唇」を通して継続しているのです!


喜びの収穫にあずかった日


                            主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
                            私たちは夢を見ている人のようになった。
                            その時には、私たちの口に笑いが
                            舌に喜びの歌が満ちるであろう。

                                                      【詩篇126篇】


 時は、2001年10月のことでした。フレーソン聖会の一週間前位になって、もっと更に祈らなければならない!という、強い思いが生じました。仕事柄、余り現場において「異言」で祈ることはできないのですが、とにかくその時は急に、今までしたことのないほど、仕事をしながら平均合計三~四時間の、「異言の祈り」に導かれました。このままではいけないという、「霊的飢え渇き」から生じたものです。それが、仕事に行く度に毎日続く訳です。するとある日突然、主が私の「霊」に触れられました。声を詰まらせ、「異言の祈り」がとまるほどの、霊的感動を覚えるとすぐに唇が震え出し、鼻水と涙が溢れ出しました。暫く主の語りかけを静かに待ち望んでいますと、聖霊様が私を安息の場に導いて下さり、聖霊様は私の「内なる声」に囁いて下さいました。


 「近々、あなた方(私たち夫婦)の前に、ある人がやって来ます。その時、あなた方は何もしなくてよい!ただ、その人に触れるだけでよいのです。その時に、あなた方は神の大いなる御業が、あなた方自身の中ばかりでなく、その人自身の中にも現れるのを見るでしょう。」
私はその日の預言を、帰宅してからすぐに妻に報告しました。(その時彼女は、どう受け留めたのかは分かりませんでしたが・・・・)とにかく私自身、この預言がどういう意味を持つのか分かりませんでしたから、自分の「霊」の中に留め、いよいよ聖会に待ち臨みました。


 ところで、私自身の霊的体験の中には、ものすごい霊的傷害(重荷)があり、それは他人に語ることのできないほど、心(霊)の奥深い部分で傷つき、それが大きな妨げ(障害)となって、ずっと引きずっていました。その霊的問題は、私が前進しようとする度に、必ず重荷として立ち塞がり、様々の聖会に出席することを拒むものでした。神の用意して下さる、大いなる「祝宴の時」に、必ずこの問題を通して妨げ(恐れ)が来たのです。そして、「『涙と共に種を蒔く人は、喜びの束(歌)と共に刈り入れる。』の御言葉は、私の人生には絶対ないだろう。今まで涙!涙!涙の人生、それだけしかないのではないか!『喜びの束』の祝福は、私の人生に訪れるはずがない!」などと思っていました。


 ですから、フレーソン聖会の直前に与えられた、この預言を心に秘めながらも、否定的な思いが「霊」を支配していました。「この預言通りに行くことなんてあり得ない!」と。しかし、聖霊様が語られたこの預言は、私の「霊」の内側からも必ず、神の大いなる恵みが「喜びの束」となって現れ出ることを、前もって語られていたのですが、その時の私は未だ知る由もなく、聖会三日目、即ち帰る一日前になっても分からないままでした。聖会が進んでいく中で、多くの人々が聖霊に触れられ、ある者は倒れたり、笑いに満たされるなど恵まれていくのですが、「自分だけは倒れまい!」という思いと、「新しい霊的感動に満たされたい!」という気負い(肉)が交錯していました。


 その間、妻からアドバイスをもらい、「肉の思い」で気負うのではなく、只主の御顔を仰ぎ求めることに専念しました。そして三日目の夜の聖会では、フレーソン師の「祈り(ミストリー)」を気にするのではなく、只単純に主の「御顔」を求めることを祈りました。ミニストリーが進んでいく中で、ある単純なメロディー(賛美)が流れ始めた時、急にそれまでの気負いから解放され、床に伏しつつ祈り始めました。神の安息の中で横たわっていると、主がある方向性を示しながら語られました。
「○○先生の所に行って、按手してもらいなさい!」
実は、その先生の所に行くことが、私の内なる傷から来る、大きな霊的「妨げ」だったのです。


 ヤコブの子ヨセフが、エジプトに奴隷として売られ、侍従長ポティファルのもとで神の訓練を受けていく時、肉親の兄弟から受けた苦汁の傷が、新しい主人に仕えていくことで、次第に癒されていったものと思われます。彼は、主人のことを本当に信頼できる方、尊敬できる方として喜んで仕えていました。ところが、ある事件に巻き込まれ主人から咎められました。ヨセフは、身の潔白を証明できたにも関わらず、ただ主人の裁定に服しました。結果は、ヨセフに対して「有罪」の判決でした。彼は、兄弟たちから受けた傷以上に主人からの裁定に、心が奥深くえぐられる程の傷を受けました。


 「尊敬し信じていた主人に、私は見放された!」と。かつて私も、若かりし頃○○先生のことを尊敬し、かつ信頼して仕えていました。ある時は、先生の教えを聞きながら大いに励まされました。ところが、それまでの見方を一変する、ある出来事に遭遇しました。その時から私も、ヨセフと同様に霊的牢獄に入ることになり、それ以降「如何なる聖会(小さいものも含めて)にも、決して参加すまい!」と決断しました。何故なら、聖会において先生の顔を見たくなかったからです。牢獄に入れられたヨセフ(私)は、どれほど霊的取扱いを受けたことでしょう。「どうして?どうして?私は何も悪いことはしていないのに!」などと葛藤する中で、聖霊様は彼(私)の「霊」を砕かれました。


 それは何年にも渡って、彼(私)が「自己の正義(正当性)」を見続けるのではなく、再び主の「御顔」を求めることができるように、そして他人が如何なる傷を与えようが、主なる神は必ず自分を、新しい霊的ポジションへと、贖い導き出して下さると信じるまで。その後、ヨセフは神の霊的修復を受け、預言的啓示(夢)を通じて、牢獄の中で新しい出会いを体験していくことになります。


 ヨセフの人生に対する神の霊的取扱いは、「人」が如何なる傷を与えようが、父なる神は常に変わることなく、その人の「霊」の只中に居続け傷を癒して下さり、最終的には「涙」と共に種を蒔いた人生に対して、必ず「喜び」と「和解」と「赦し」という、平安に満ちた麗しい回復を、もたらして下さることが分かります。そして聖霊様の為さる霊的介入は、その人が予想もしていない、とんでもない方法でやって来ること、即ち「夢」を見ているかのような体験をさせられていくことです。


 聖会三日目の晩のことでした。私たちは聖会終了後、宿泊していたホテルの部屋に戻り、子供たちを寝かしつけ一段落着いたところで、私は妻にポツリと話しを切り出しました。
「実はさっき、神の安息の中で横たわっている時、主が語りかけられたんだよ。これは内なる声かもしれないけど、恐らく聖霊様の語りかけだと思う・・・・○○先生に按手してもらいなさい!と。非常に意地悪なご命令だけどね!・・・・どうしたらよいだろう?私は、はっきり言って嫌なんだけどね・・・・できる訳がない!」
すると妻は、同じような聖霊様からの促しを語り始めました。
「○○先生はどうであれ、あなた自身が心深く傷つけられた、その霊的くびきから解放されるためには、聖霊様の導きに委ねて前に進み出るべきよ!・・・・多分、肉の力ではとてもできそうにないことだから、きっと聖霊様が助けて下さるに違いないわ。」


 私は妻からの助言を受けながらも、その夜は落ち着いて安眠できず、霊的に葛藤(格闘)しました。夢の中でも闘いは続いていました。そして、最後(四日目)の朝の聖会が始まりました。先生は、私たちとは随分離れた、遠い席に座っておられました。私の「霊」の中でその間、ずっと闘いが続いていました。聖霊様が、「按手してもらいなさい!」と言われているのに、内なる肉の声は「いや!できない」と拒絶するなど言葉の闘いが、メッセージをまともに聞くことができないほど繰り返されました。私の妻は聖会に参席する前に、「あなたが無理だったら、私が引っ張って行くからね!」などと、意地悪なセリフを語っていました。ですから、私の顔色を伺いながら、
「どう?行けるかしら?」
などと、意地悪い顔で私の様子を見ています。


 そして聖会は全日程を終了し、全ての参列者が一斉に帰り始めました。私はその時、一つの流れを感じていました。「主よ!私はどうなっても構いません。相手が、どのような反応を示そうがお任せします。どうせ私には何もできないのですから、あなたの導きに従います。私には無理ですが、妻だったら私を連れて行くことでしょう。」そう思うと同時に、妻は私の顔を見てとり、
「あなた!行くわよ。」
と言い放つと、私を強引に引きずって行ったのです。何故、妻が急ぎ足でせかしたのか、それは先生が急ぎ足で退場する姿を、妻は見逃さなかったからです。妻は先生の後ろ姿に追いつき、早速切り出しました。


 「先生!私たちのために、祝福のお祈りをお願いします!」
私は頭を下げたまま、先生の顔を見ることができませんでした。すると先生は、(どのようなことを、霊的に考えておられていたか分かりませんが・・・・)一人の油注がれた器として、私と妻の手を優しく握って下さり、次のように祈って下さいました。
「愛する天のお父様!新しい道を歩み始めた、このお二人の働きの上に、主の祝福がありますようにお祈りします!」


 私は、「新しい道を歩み始めた」という言葉にびっくりしました。「え!聖霊様は、もしかしたら知っているのだろうか?」確かにそれまで、私の「霊」の中には葛藤があり、前に踏み出すことができませんでした。しかも常々、「主に従いなさい!」と聖霊様が語りかけて下さっていても、「新しい道」に踏み出すことなど、到底あり得ないことでした。しかし、先生に祈ってもらった瞬間、ほんのちょっぴりでしたが涙が出ました。先生は按手を終えると、すぐに帰られました。私たちもその後、すぐにその場を去りましたが、帰る道中妻が、早々と私に質問してきました。


 「あなた、どうだった?祈ってもらって良かったでしょう!」
それに対し私は、
「うん?まーね、あんなもんかね・・・・今の私には、何が起きたのか分からない、とにかく分からない!」
と答えるだけでした。私に何が起こったのかは、その時は知る由もありませんでした。とにかくその祈りは、父なる神からのものと同じく、優しい口調の祈りであったことは分かりました。


 帰宅後、何か新しい御業が、私に起こるのだろうか?と待ち望みました。翌日の仕事中、聖会一週間前の時と同様に、私は聖霊様に促されながら「異言」で祈り始めました。すると、祈り始めて十分もしない内に、先生の顔が浮かんできました。今までの私でしたら、先生のイメージは思い出したくもないし、ましてや祈りのイメージに出てくる訳はありません。しかしその時以来、先生のためにとりなすよう強く促されました。そして祈れば祈るほど、涙が出て来るのです。「なんでお前は、そんなに泣くのか?」などと心の中で思いながらも、聖霊様が始められた御業を止めることはできませんでした。


 実は妻が、聖会三日目の晩に、先生に対する次のような預言(洞察)を私に語っていたのです。
「あなた!あなたも苦しんでいるけれど、あの先生はもっと苦しんでいるのよ。あなたのことで、苦しんでいるのかどうかは分からないけど、先生はあなた以上に、もっと苦しいものを着込んでいるのよ。今までの様々な歩みの中で、自分も気付かないほどの霊的枷(古着)があるのよ。そのような古い着物を脱ぎ捨てて、神が与えて下さる新しい神の武具(鎧)を、身にまといたいのだけれど、次々と着せられる古い背広の重みに、耐えられないのではないかしら?恐らく大きく用いられているから、分からないまま進んでいるのね。でもあの先生が、もっと更に神の働きの中に導かれ、神の祝福が先生を通して流れていくには、もっと解放されなければならないのよ!」


 このような、妻からの預言的助言がある以上、私は始終先生のことをとりなされる訳です。「お前、今までそんなことを祈ったことがなかったのに?・・・・これは、聖霊様の働きなんだ!」と思った瞬間、私は悟りました。これこそが、「喜びの束を抱えながら帰って来る」ことであると。そして、聖会の一週間前に与えられた預言が、既に実現したことに気付いたのです。「あなた方は何もしなくてよい!ただその人に触れるだけでよいのです。」「触れる」という言葉は、自分が努力して触れることではなく、神の御力に従うことで、「触れて戴く」ことだったのです。先生は普段の按手でしたら、その人の頭に手を置いて祈るのでしょうが、その時は違いました。まるで、以前からの仲間(友人)の如くに、三人が手を互いに取り合い、一つの輪になって祈る形を取りました。まさしく、主ご自身が預言を通して言われた通りに、「手が触れ合う」ことになったのです。


 その時以来、大いなる神の御業により、私の「霊」を支配していた「霊的枷」が取り外されました。先生に対する裁き(批判)がなくなり、先生に対する主の憐れみを求めて、霊的にとりなされるばかりです。主のなさることは本当に不思議です。やっと私は、霊的牢獄から出所できました。フレーソン師は、その時の最後の聖会で次のように語られました。「アブラハムが、新しい次元(領域)に踏み出す時に、本当はロトを切り捨てるべきだった。ロトとは、あなた自身の過去を表すものであり、あなた自身にまとわりつく、霊的問題そのものである。そういった全てのロトを、主イエス・キリストの十字架の血潮によって断ち切りなさい!そのように、聖霊様に期待して参りましょう。そして、完全にロトから断ち切られた時に、あなたの前に必ず新しい道が用意されます!」


 私の愛する妻は、結婚してからずっと、私の「霊的問題」のためにとりなしています。全てのことが「神の時」へと導かれ、この奇跡が起こされました。そして、ようやく私の「霊」の只中に、一人の「神のしもべ」として、神の「愛」と「赦し」と「和解」の務めに勤しむべく、油注ぎが再び始まったことを、心から主に感謝しています。(K・バルナバ)


※最終回記念として・・・・
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