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命と心の健やかなる成長のために!
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Thanksgiving(No.40)

                 真実のギフトを求めなさい!




それにしても、あなた方は、よく私と苦しみを共にしてくれました。ピリピの人たち・・・・私の働きに参加した教会は、あなた方の他に一つもありませんでした。・・・・あなた方は私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うのではありません。むしろ、あなた方の益となる豊かな実を望んでいるのです。私はあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロデトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さる生贄です。
                                                                                  【ピリピ書4章14~18節】


見えざる「ギフト」
 「真心」からの感謝は、「お礼」の言葉として表現しますが、本来見えないものです。しかし人は、その「しるし」として、何か見える形を現すべく、「贈物(ギフト)」を贈り合う、そんな外交儀礼(お中元、お歳暮)が産み出されました。しかし、それが派手になって行きますと、返って贈り合うことに気を遣う(無理する)など、「真心」とは名ばかりの形式(慣例)主義に陥ります。


 使徒パウロの場合、彼は各教会のキリスト者に対して、「贈り物」を季節ごとに贈るよりも、逆に受ける(贈られる)立場にありました。しかし彼は、自分で生計を立てる「術」を身に着けていたので、自分の奉仕(宣教活動)に対する「見返り」や「必要経費」などを、決して要求することはありませんでした。


 ですから多くの教会が、教会の監督であるパウロに対して、何らかの「支援」を贈ることは無かったのですが、唯一「ピリピ教会」だけは、彼に対して自発的に支援し続けたのです。


 ところで、私たちの現実生活においては、常に何らかの「不足(マイナス)」が生じます。そうなりますと、「不足」ばかりが目の前をよぎる、そんな不安だらけの状態に陥ります。目に見える「不足」は、私たちが努力さえすれば、何とか足りる状態にまで回復します。しかし、目に見えない神の「ギフト」に関しては、私たちの信仰を働かせなければ、受け取っていることを確認できません。


 パウロによれば、エパフロデトこそが、その信仰の模範者である!と、今回の手紙で記しています。彼の神に対する信仰告白こそが、パウロにとっては「麗しく香ばしいギフト」に見えたからです。それは目に見えない次元にある、彼の「生き様」や「信仰姿勢」から、自然に産み出されたものでもあります。


 ではエパフロデトは、ピリピ教会からの支援とは別に、具体的に何をパウロに贈り続けていたのでしょうか?さて私たちの場合は、エパフロデトがパウロに差し上げていた、この目に見えないギフトを、果たして望むでしょうか?殆どの場合、目に見える形で示していなければ、受け取ることも難しいでしょう。エパフロデトが贈ったギフトとは、恐らく「信仰の言葉」や、「感謝」に満ち溢れた誠意でした。


 エパフロデトが語る「言葉」、何気ない「行い」と「振舞い」、また時々届く彼の「手紙」にも、全て見受けられるが故に、パウロは「私と同じように志を共にして、神のために道を外すことなく、目に見えざる豊かな霊的次元にある、神の祝福を追い求めるエパフロデトは、私にとって真の慰めである!」と断言しています。


必ず「益(プラス)」となる豊かな実
 目に見えないギフトは、天から降り注がれる神の「祝福」です!そして神が与えて下さるギフトは、永遠に豊かなものとして保証し、絶対に朽ちざるものとして、恵みをもって確かな導きを与えるものです。更にパウロは、このギフトの天的性質(特徴)として、「収支を償わせて余りあるもの」(17節・別訳)と表現しています。


 この「収支」とは、英語で「Account」と言い、信用取引上の「勘定」のことです。エパフロデトの霊的な言動には、仮に日々与えられる神の「恵み」を数えた(計算した)としても、常に「益(プラス)」である!などの、素晴らしい「感謝」の収支報告(信仰告白)が、その都度パウロはに対して為されていたことが伺えます。


 霊的な恵みは、実際に「プラス面」が見えて来ません。しかし実際の生活面における、経済的収支のイメージは、日々「数字」に追われて、まるで「お金」が獲られるかの如きものです。エパフロデトの求めた次元は、そのような見える金銭的「縛り」に生きていませんでした。彼は常々「神が一度約束なさったことは、絶対に明確に見えるものとして現れる。仮に見えないものだっとしても、信仰の眼をもって見る時には、必ず益となって豊かな実を結ぶものである!」と、大胆に信仰宣言していたからです。


 彼の霊的視点は、如何に現実が「不足(マイナス)」であっとしても、神の霊的次元の中にあっては、常に満ち溢れている(プラスをもたらす)!という、素晴らしい信仰の眼力が、天的賜物として与えられていました。それ故に彼の霊の只中からは、「感謝」と「喜び」が、尽きること無く溢れ出ました。


 信仰とは、神に対して「~すれば・・・・こうなる!」という、人間的取引ではありません。エパフロデトが遵守した信仰の法則は、「目に見える次元(現実)」をシャットアウトし、「目に見えざる次元」をオ-プン化して、その中に「感謝」の言葉を投入することです。即ち「真実なる神は、いくらでも、愛する私たちのために、天から豊かな恵みを注ぎ、日々の糧を与えて下さる!現にそうである。だから明日を心配せずに、今を感謝して生きて行こう。」と。


 そうです!私たちが神に対して、真心の「感謝」の生贄を捧げれば捧げる程、「天の窓」が大きく開かれることになります。ところが私たちは、目に見えるものが「先」に入って来るため、「やはり神様は、ケチな方だ!」と、勝手な解釈をもって「不平(不満)」の言葉を、つい漏らしてしまうのです。


真実の「ギフト」を求めなさい!
 しかし真の主なる神は、母親の乳を慕い求めて泣き叫ぶ、赤子の如き私たちに対して、「ケチ(マイナス)」を与えるのではなく、「収支を償わせて余りあるもの」をもって、常に満たして下さる方です!パウロはこの大事な「真理」を、エパフロデトの日々の言動から、霊的「慰め」と「励まし」を通して得ていました。


 私たちもエパフロデトの如くに、神の見えざる「真実のギフト」を求めて、私たちの信仰を現す必要があります。そうすれば、神が与えて下さるもっと更に豊かなもの、つまり揺ぎ無き不動の信仰により、新しい霊的次元の中にある、天上の産物(遺産)を受け継ぐことが出来ます。


 慌ただしい日々の中にあっても、あなたが心静まって目を閉じ、主なる神の御前で「感謝」の生贄を捧げる時に、既に「真実のギフト」は、あなたの手に送り届けられています。あなたが何を為すにおいても、主なる神を自分の前(歩く先)に「置く」という、謙虚な信仰姿勢で歩み続け、聖霊様を通して日々前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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