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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.45)

     花婿イエス・キリストの恵み




主イエスの恵みが、全ての者と共にあるように。
                                                    【黙示録22章21節】


ヨハネの願い
 ご存知のように「黙示録」は、十二弟子の一人ヨハネがパトモス島にて、日々の聖霊様との交わりから示された、「天上の奥義(啓示)」を書き記したものですが、彼はこの書の「結びの言葉」を記述し終えた時、如何なる心境にあったのでしょうか?


 ところで、イエス・キリストがご存命の時に、愛する十二弟子に語られた(託された)、「御言葉」の中で一番多く語られた言葉は、如何なる内容であったのでしょうか?特にイエス・キリストの十二弟子は、各自が個性豊かなキャラクターを持っていましたから、その殆どが「自己中心」的な思い(欲)から来る「野心」、「計画」、「願い」などをベースにして、イエス・キリストの「御言葉」を利用していたことでしょう。


 そんな彼らの中にあって、ヨハネは如何なる「捉え方」をしていたのか?このことを探る手がかりは、彼の著した「ヨハネによる福音書」に見られます。他の三つの福音書と比較して明らかに異なる特徴が、「ヨハネによる福音書」には見られます。この福音書は、イエス・キリストが語られた「御言葉」を中心に、御子の生涯(生き様)を論じています。


 つまり、イエス・キリストの語られた「言葉」そのものが、御子の生きる「証し(歴史)」として、ヨハネの「霊(心)」を捉えて離さなかったことが伺えます。この福音書の記述に見られる特徴は全て、ヨハネだけに臨んだ聖霊様の働きです。主イエス・キリストを求める思い、そして常に主イエス様と共にあること、愛する師との「親しい交わり」の中にありたい!などの願いを起こして下さる方は、聖霊様でした。自分の「肉の力」から求めても、結局それは中途半端で長続きしない、「自己中心」的な欲に縛られたままであることを、ヨハネは十分に知っていました。このように、聖霊様がヨハネに与えた「天上の個性」は、他の弟子たち以上に際立った、イエス・キリストに対する激しい「熱情の愛」です。


 話しを元に戻しますが、イエス・キリストが弟子たちに語られた「御言葉」の中で、一番多く使用された「御言葉」の中身は、詩篇の中にも多く記述されているもの、例えば「恐れるな!私は常にあなた方と共にいるではないか!」、「私はあなたを、決して孤児とはしない!」、そして「これからも永遠にあなた方を愛し、共にいます!」などの、単純な「励ましのメッセージ」です。このイエス・キリストの「御言葉」は、霊的苦難の中にある者や、霊的孤独の中にある者、又霊的迫害の最中にある者にとって、一番必要な「福音(良き知らせ)」になります。


 私たちの主イエス・キリストは、どこか遠くに出張してしまい、私たちが時々寂しさを覚えなければならないような、「離れた存在」では決してありません。同労者どうしで、霊的に交わることの出来ないパトモス島にあって、見えざる主イエス・キリストとの「親密な交わり」によって、ヨハネはどれほど霊的に励まされ、そして勇気付けられたことでしょう!獄中生活を強いられたパウロも然り、40年間荒野にあって、逃亡生活を余儀なくされたモーセも然り、俗的なこの世を離れ(捨て)、荒野にて父なる神を追い求めたバプテスマのヨハネも然り。しかし、彼らにとって人間的に見て「孤独の環境」が、返って主なる神とのより親密な関係を深める場へと、聖霊様が導いて下さったのです!


 それ故に、パウロが著した数々の書簡においても、「結びの言葉」がヨハネの記述と同様に、「主イエス・キリストの恵みが、信じる全ての者と共にありますように!」と、締め括っているのです。この「共にある」とは、「永遠の愛」の中にあずかる権利を戴くため、「保証書(契約書)」に記述する、「聖霊様のサイン」に当たります!ですから、私たちはこの「結びの言葉」を、単なる人間パウロやヨハネが各々に、記述したものとして捉えるのではなく、聖霊様が父なる神の「御思い」を、私たちに霊的に伝えるために記述された、貴い「命の言葉」として受け留める必要があります。父なる神は、たった一人の「御子(真の光)」を、自分が望みもしない「暗闇の世界」に、放出しなければなりませんでした。


 しかしそれは、ご自分が愛するために創造した私たち「人」が、「永遠の滅び」に至ることがないよう、イエス・キリストの永遠の「救い」の恵みにあずからせる上で、欠くべからざる「計画」であり、これを「十字架」上で完成しなければなりませんでした。この永遠の「救い」の恵みは、「私(主)は常にあなた方を愛し、常に共にありたい!それ故あなた方の全てを、この世から贖い出したい!」と願われる、父なる神の「愛の意志」の現れに他なりません。そして最終的には、永遠の救いにあずかった「キリストの花嫁」を、最後の完成式典「婚礼の祝宴」に召し出すこと、これが「父の救い(ご計画)」です。


 ヨハネは、パトモス島で霊的に示された「啓示(幻)」の中で、主(師)がご存命の時にも「見せたことのない」、圧倒されるほどの麗しい「御顔」と、イエス・キリストから放たれる、聖なる「臨在(光)」に触れ、この麗しい「神の子羊」が、「花婿」として自分のことを待っていて下さることを、聖霊を通して見せられた時、ヨハネは思わず御座に駆け寄り、「来て下さい!私は、このような離れ離れにある関係ではなく、いつも一緒にあなたと居たいのです!どうぞ花婿なる主イエス・キリストよ、早く帰って来て下さい!」と、ひたすら懇願し続けたのです。


形見とは?
 「人」はご存知のように、その「命」がこの世にあって生き続けることができない、つまり「死の時」をいずれ迎えます。そして「死別する」ことを、永遠の「別れの時」と感じている人々が多くいます。しかし「霊」は、永遠に続く存在です。たとえこの「死別」を、永遠の「別れの時」と感じている(信じている)人であっても、自分が「その時」を迎えるに当たって、愛する家族(伴侶、子供、孫たち)に「何か」を残そうとします。勿論、財産などの「見える物質」を、遺言状をしたためて残すことの出来る、資産家も中にはいるでしょう。しかし殆どの人々にとって、この「何か」を残そうとする場合に、真っ先に思い浮かべるものが、いわゆる「形見」ではないでしょうか!


 「形見」とは、その人が生きている時に一番大切にしていた、何らかの「貴いもの」を指します。つまり残された家族に対して、「いつまでも、お前たちを愛しているよ!その証拠として、私の大切なものを残すからね。お前たちがこれを見る時、私のことを思い出しておくれ。その時、私がいつまでもお前たちの心に住み続けていることが、きっと分るはずだから・・・・。」などの「愛のメッセージ」の現れが、「形見」となるのです。


 そしてその「形見」は、戴く家族の者にとっては、何にも代え難い「一番の宝」になりますが、高価な宝石でもない限り、他人から見て何の価値もない、安っぽく見えるもの、例えば「ハンカチ」、「ブローチ」、「結婚指輪」、「時計」、「日記」、「手紙」などが「形見」として残ります。そして残された家族は、愛する者が死別した後にその「形見」を見る時、ふと思い出すのです。つまり一緒に居た頃の思い出が、本当に豊かな「愛のイメージ」として浮かび上がります。


 例えば、ご主人に先立たれたある未亡人の場合、彼女は気丈に生きているのですが、ある時急に物悲しくなり寂しさを覚えます。「あー、愛する貴方が生きていてくれたら、どんなに私は寂しさを覚えなくて済むのに・・・・。」しかし暫く泣き続けた後で、ふと主人の時計(形見)が目に付き、「貴方!私は今でも貴方のことを愛しているわ!私もいつか、あなたの元に参りますから・・・・。」と、涙ながらに告白します。


貴い高価な油
 では、私たちの花婿「主イエス・キリスト」は、私たち「キリストの花嫁」に、どのような「形見」を残されているのでしょうか?つまり、あの十人の乙女全員に、共通して残された(託された)「形見」とは、如何なるものであったのか?私たちはこの点について、聖霊を通して「知らされる」べきです。


 前回学びましたように、賢い乙女たちが常に備えていた「油」は、「香油」という美を現す(放つ)働きをする油のことです。それに対して、「主人」が十人の乙女全員に託した「油」は、聖なる炎を灯す(燃やす)働きをする油のことです。そして、私たちの花婿「主イエス・キリスト」は、この「聖なる油」を私たち「キリストの花嫁」にも、同様に託されているのです。更に「主イエス・キリストの恵み」は、五人の賢い乙女がご主人の帰る「その時」に備えて、いつも離さずに守り通した「永遠の形見」、つまり「聖なる油」を指しています!


 この五人の賢い乙女は、主人が出かける際「これをあなた方に託しておくよ!」と命じられた後に、その油を直接戴いた瞬間に、「油」を与えられた(託された)理由を悟りました。この「油」は、いつ如何なる時に花婿が帰って来てもよいように、灯し続ける「情熱の油」であると。この激しい「情熱の愛」を、キリストの花嫁の「霊」の中に呼び起こし、そして注いで下さる方は聖霊様だけです。そうです!花婿「主イエス・キリスト」が、私たち「キリストの花嫁」に託された「恵みの形見」は、「聖霊様」ご本人でもあります!


 主イエス・キリストが、「人の子」として「この世」に遣わされる時、処女マリヤの胎の中に「人の命」を現して下さった方は、聖霊様でした。そして母マリヤは、「聖霊」の力によって出産し、イエス・キリストは聖霊に見守られながら、「人の子」として成長していくのですが、その成長過程全てに渡って油注いだ方、つまり「聖霊様」がいつも傍らにおられました。最終的にイエス・キリストは、父なる神の偉大な「救いのご計画」を、十字架上で完成(成就)されましたが、この時にも「完成(御心の成就)の油」を注いだ方がおられました。私たちはこのことを、決して忘れてはなりません!


 「人の子」イエス・キリストも、当然「迷いし時」がありました。特に十字架の死を目前にして、ゲッセマネの園で苦闘しながら祈った時は、最大の「試練」の中にありました。「私が死ぬことは、本当に人々の救いのために善きことだろうか?弟子たちは、私が革命を起こしイスラエルを再興 (リバイバル) するよう、盛んに勧めて来る。もっと他の革命家たちと力を結集し合って、ローマ帝国に力の剣を振り落とすことを望んでいる。いったい私は、どうすればよいのだろう!?」と。しかし、その度に聖霊様が「否!否!あなた自身を父なる神の御前に、生きた聖なる生贄として捧げ尽くすこと、これがあなたの為すべき、只一つの使命です!自分の杯を取ってはなりません。父なる神の杯だけを受け取り、あなたはそれを飲み干しなさい!あなたのはん祭を通して、あなたの砕かれた体から、豊かな生ける命の水が流れ出し、この暗闇と圧制に苦しむ人々の元に、命の川となって注ぎ込むようになります。


 ですから、あなたは自分の肉の力を使ってはなりません。天上から油が注がれるまでは、只ひたすら神の時を待ちなさい!」などと、励まして下さいました。イエス・キリストは、どんなに苦しまれたことでしょう!しかし苦しみに会えば会うほど、常に聖霊の力が彼の上に激しく臨み、彼の「霊」を父なる神への、「情熱の油」で満たしました。「人の子」イエス・キリストは、天国におられた時以上に地上では、聖霊の臨在を敏感に多く感じ取ることができました。それほど「人の子」イエス・キリストの生涯が、「苦難」の連続であったからです。しかし彼にとって聖霊様は、片時も離れることのない「慰め主」であり、聖霊は常に「もっと元気を出しなさい!心を強くして雄々しくありなさい!あなたに対する父の願いは只一つ、父の栄光を現す器となることです!それ故に私は、あなたを常に励ましている。あなたの力によってではなく、天からの力を着せられつつ、前進し続けなさい!」などと勇気付ける、「真の導き主」でした。


 この主イエス・キリストの「恵みの形見」、つまり「聖霊様」の臨在と油注ぎを、パトモス島に流刑されていたヨハネも、同様に「霊」で感じ取ることができました。「あー!聖霊様が今でも私の中に住んでいて下さる。あの時(五旬節)に受け取った聖霊様の炎は、イエス・キリストへの情熱の愛を灯すために、今も尚私の霊の中で燃え続けている!」と。そうです!あの「五旬節革命」に始まった聖霊の「大変革(炎)」は、見るところは孤独で何もかも失ったかのように見える、一人の「キリストの花嫁」ヨハネの全てを、「炎の器(Chariot of Fire)」として燃やし続けました。


 そしてヨハネは、自分の「霊」の中に燃え続ける、主イエス・キリストへの激しい「情熱の愛(炎の耀き)」が、最終的には御国において「聖なる耀き」に覆われ、「真の光」イエス・キリストの中に、完全に一体化されることを求めていました。ですから、私たちはヨハネのように、更に聖霊様の臨在を多く受け取り、主イエス・キリストが託しておられる、「恵みの形見」聖霊様によって、私たちに計画しておられる神の「美」を現し、「真の光」を放つ「炎の器」として、益々変革されることを求めようではありませんか!


 賢い五人の乙女は、日々この「油」が尽きないよう見張っていました。もし足りなくなった時には、たとえ「高価な油」であっても、皆で一致して買い求めるための、日々の努力を怠りませんでした。何故、そうまでしてこの「高価な油」を、常に備えておいたのでしょうか?それは「花婿」が帰って来た時に、花婿が出かけた時と同じ状態で、いや更に激しい情熱の愛に燃えた「花嫁」として、麗しの花婿をお迎えすることが、彼女たちの唯一の「願い」だったからです。聖霊様が私たちに期待することは、花婿イエス・キリストに対する、激しい情熱の愛を抱く「真の花嫁」の姿(生き様)に他なりません。


 私たちは、主イエス・キリストから託された「恵みの形見」を、ないがしろにすることがあってはなりません!聖霊様は日々私たちを、「新しく」造り変えようと望んでおられます。そして、私たちの「五体」から「霊」に至るまで全て、イエス・キリストに対する激しい情熱の愛(炎)を灯す「油」を注いで下さり、イエス・キリストの美だけを現す「炎の器」として変革するために、労を惜しむことなく働いておられます。それが聖霊様です!


 ですから私たちは、主イエス・キリストの恵みの「賜物」である「聖霊様」を、決してないがしろにすることがあってはなりません!むしろ、更に「恵みの形見」であられる聖霊様と、より親密に大事にお付き合いして下さい!聖霊様は、私たちが更に花婿「主イエス・キリスト」にふさわしい、美しい「真の花嫁」に整えるべく、常に働きかけておられます。それ故、私たちは聖霊様の期待に応える意味で、激しい情熱の愛をもってイエス・キリストを、求めようではありませんか!聖霊様との「親しい交わり」が、もっとあなたの中に創造されていくことを、花婿「主イエス・キリスト」は強く望んでおられます。


約束の証印
私たちの主イエス・キリストの父である神は、誉め称えられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちが称えるためです。
                                                      【エペソ書1章3~6節】


 この御言葉は、聖霊様が激しい「情熱の炎」をもって、使徒パウロの「霊」の祭壇に点火して記述したものです。そしてここに記述さたれ内容が、私たちが最終的に完成されていく、「新しい人」のフォーム(姿)です。何故、主イエス・キリストの「愛」の現れである「恵みの形見」が、私たちに与えられているのでしょうか?それは私たちが、聖霊の導きによって最終段階に至った時、「神と一つになる」ため!この一点です。即ち「キリストの花嫁」が、真の花婿「イエス・キリスト」の御元に、聖霊を通して「一つ」にまとめられるためです。


 これから私たちが祈り求めていく中で、賢い五人の乙女のように、「恵みの形見」を決して絶やすことなく、「愛の炎」を燃やし続けるのか?それとも一時的な激しい感情をもって、熱心に「人間的行い(業)」を完成させようと試み続ける、愚かな五人の乙女の一員になるのか?それが問われる時期が来ています。この二つのグループは、いずれ父なる神が定めた「終わりの時」に、共に神の「裁きの御座」の前に立つことになります。その時に花婿イエス・キリストは、各グループを聖霊(保証人)の前に立たせ、次のような最後の質問をされます。
「あなたは、私の愛の形見を持っていますか?」
愚かなグループの代表は、
「えー勿論持っていますとも!私たちは今まで、これほどの業績を行いました。見て下さい、私たちのミニストリーを。素晴らしい福音伝道を行い、素晴らしい救いの収穫にあずかりました。これがあなたの形見です。どうぞ受け取って下さい!」
それに対して賢い乙女たちは、声を揃えて答えました。
「主よ、私たちに与えられた形見は、この保証人であられる聖霊様を通して託された、貴い聖なる油でございます。私たちはこの形見を、あなた様が私たちを愛して下さる保証(証印)として受け取りました。又あなた様が、恵みの賜物として与えて下さったものです。私たちは形見を与えて下さった、ご本人の御前に帰って参りました。そして今、愛するあなた様と一つにされようとしていますから、これをお返しします。どうぞこの証印をご覧下さい!」


 私たちに、約束の保証として押された「証印」は、主イエス・キリストの「十字架」だけです。聖霊様は何故、私たちがイエス・キリストを激しく愛することを、強く求められるのでしょうか?「恵み(恩寵)」とは、与えられるその人の価値が如何なるものであっても、無代価で与えられる一方的な「贈物」のことです。ですから、「その人が優れた価値ある人間だから、これ位の素晴らしい恵みを与える」などの、三次元に存在するものではありません。主イエス・キリストの恵み、それは「十字架の愛」から生まれ出るものです!


 このイエス・キリストの「十字架の愛」を、更に私たちの「霊」の只中に、「焼き印」として証印を押して下さる方が、聖霊様です!私たちの、「五体」から「霊」に至るまで全てが、神の御前に供えられる「生きた聖なる生贄」として捧げられるよう、更に変革して戴くことを、聖霊様に願い出ようではありませんか!聖霊様が灯して下さる、主イエス・キリストに対する激しい「情熱の愛(炎)」をもって、花婿なる主イエス・キリストを、「自分の命」と引き換えに愛することができますよう、主なる神の御名で祈ります。そして「永遠に変わらぬ父なる神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の親しき交わりが、全ての者と共にありますように!」アーメン!


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