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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.18)

             イエス・キリストの現れを求める



あなた方はキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、全ての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなた方の間で確かなものとなったので、その結果、あなた方は賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなた方をしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非のうち所のない者にして下さいます。神は真実な方です。この神によって、あなた方は神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
                                                                                                【Ⅰコリント書1章5~9節】


「結び目」の言葉
 私たちは「言葉」が、コミュニケーションの手段として用いられていることを、十分に知っています。コミュニケートとは、「意志」と「意志」を伝え合うことであり、例えば自分の中にある「感情」や「考えていること」、又「伝えたいこと」や「求めていること」などを、相手に伝え知り合う時に使用されるものが「言葉」です。ですから「言葉」は、ある面で「人」と「人」をつなぐ、「つなぎ目(結び目)」としての役割を担っていると言えます。


 この、「つなぎ目」として働く「言葉」に関して、サタンは「人」と「人」を、「悪しき方向」でつなぎ合せることを得意とします。サタンが造る「つなぎ目」からは、「平和」や「一致」そして「協調」など、つまり神が本来「人」に与えていた麗しい「賜物」である、「命のつながり」をもたらす言葉は、決して生じません。彼は、常に「人」と「人」の関係を切り離し、「争い」や「分裂」そして「離婚」などを引き起こします。それらは全て、サタンの「古い言葉」から産み出されるものです。


 父なる神は天地創造を為される際に、「霊の言葉」を用いて無秩序の中に、ご自分の「意志」の現れである「作品」の全てを産み出しました。その創造の過程で非常に重要なことは、全ての作品を「一括処理して(一気に)」創られなかったことです。つまり神の創造には、必ず「順序(系統立て)」があることです。先ず最初に、一番重要な「光」を創造した訳ですが、その後に続く一つ一つの「作品」を創造するに当たっても、ご自分の「計画」に従って順番(順序)通りに創造しました。神の全能性から言えば、「一気に」まとめて創造することも可能でしたが、何故一つ一つの「作品」を順番通りに創造されたのか?これが非常に重要な意味を持って来るのです。


 神の「作品」一つ一つの中には、父の「意志」の現れである「命の言葉」が、既に「命ある名前」として刻まれているのです。ご存知のように父なる神は、例えば「象」を創造する時に、「ゾウよ!現れなさい!」とは命じていません。しかし、神の創造の「イメージ」の中には、既に「命ある名前」として刻まれ、巨大な象の形をした「土の塊」が、神の「意志」の現れである、「象」という「命の言葉」を発した時に初めて、象の「土の塊」は「命(生)」を受け、この世に産み出されて来たのです。


主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それは全て、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉で塞がれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を創り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
                                                    【創世記2章18~24節】


「命の名」の現れ
 父なる神は、私たち「人」だけを土と塵から創られたのではなく、実は全ての生物も「人」同様に、土と塵から創られたという事実に、私たちは注目すべきです。そして、神の創作の過程には必ず「意志」の現れ、即ち「命ある名前(言葉)」が、一つ一つの生物に刻まれた(霊的に刻印された)ことです。


 そして驚くべきことに、父なる神はご自分の「作品」全てに対して、本来「命名」してもよかったのですが、実際の「命名権」を「最初の人」アダムに託したことです。神の全ての「作品」の中には、神の「意志」の現れが既に刻まれているため、一々命名しなくてもそれを見ただけで、父なる神の「命の名」を確認することができたのです。つまり父なる神は、ご自分の「作品」全てを単一規格のロボット(自動機械)のように、一括処理して創作した訳ではなく、一つ一つを丹念に創りながら、その中に様々な「違い」や「特徴(個性)」を付与して創造しました。父なる神は「人」以外の生物には、ご自分の「命の息(霊)」を吹き込んでいませんので、「人」以外の生物に対して「見る」ことを楽しむ(喜ぶ)ことはできても、「親しい交わり」をもって喜ぶことはなさいません。それ故、神は「人」以外の生物に対して、一々命名する必要がなかったのです。


 ところが「人」に関しては、「命の息(霊)」をもって「命あるもの」として創造している故、「アダム」と命名されました。それ故「最初の人」は、父なる神から「アダム!」と呼ばれた時から、「あ!自分はアダムなんだ・・・・。」と意識し始めたのです。「アダム」という名前は、「神ご自身が、直接土と塵をもって創られた最初の人」という意味です。つまり、神ご自身が直接「愛の交わり」を為すために、「命の息」をもって創り上げた「最初の人」、これが「アダム」という「命ある名」として刻まれた名前です。


 前述したように、父なる神はこの「アダム」に、あらゆる生物に対する「命名権」の働きを託しました。このように「本来の人」は、神の「命の息」が「賜物」として付与されているため、神の創られた一つ一つの作品を「見た」だけで、神がその生物に用意されている神の「意志」の現れ、つまり「命の名」を瞬時に理解し、そして実際に「命名」することができました。父なる神の「命の息(霊)」を吸い続けた彼らは、更に霊的に「生きる」ようになり、常に神の「意志」と自分の「意志」が、聖霊を通して融合させられていたので、神の「意志」の現れである、神の「作品(生物)」を見ただけで、神の「意志」を瞬時に悟り、その作品に対する神の「意志」を、言葉(名前)をもって表す(説き明かす)ことができたのです。


「結び目」を求めること
 しかし、「古い次元」に支配されている私たちは、自分の知らない(接触したことのない)生物に対して、その「名前」や「生態」などを全く理解できません。「人」以外の生物の中に、神の「意志」の現れなど有るはずが無い!と思われる方が、恐らく大勢いることでしょう。ところが、あの有名なアシジの聖者フランチェスコは、動物たちと会話することができたという「言い伝え」があります。どんな危険な動物も、彼に対しては危害を加えることなく、彼は様々な動物と戯れ合うことができたそうです。その「言い伝え」の真偽はどうであれ、「本来の人」は「エデンの園」において、全ての生物と交わる中で、神の「意志」を確認することができたのです。


 このようにアダムは、神の「作品」一つ一つに対して「命名」しましたが、自分と同じ霊的生物、即ち「結び目」となる「言葉(名前)」が、依然として見つからないことに気付きます。この「結び目」というキー・ワードは、次のようなものです。「人」と「人」を「結ぶ言葉」、例えば「一致させていく言葉」、「一体化させていく言葉」、「協調させていく言葉」など、これらは「結び目」として重要な言葉になります。アダムは、あらゆる生物に対して「命名」していく中で、いつしか自分の「結び目」となる、「言葉」の現れを待ち望んでいました。彼は自分と同じ人格的存在、つまり「結び目」となる「言葉」の現れを、必死に探し求め続けました。アダムは、神と自分の「結び目」に関しては、常に「親しい交わり」を通して喜び分かち合えるのですが、自分と同じ人格的存在の「結び目」が、あらゆる生物の中に見つからずに、寂しさを覚えました。即ち自分の「助け手」が、未だ現れていないことに気付いたのです。そこで父なる神は、アダムの捜し求める飢え渇きに対して、ある時彼を深い眠りへと導きました。


 深い眠りに落ちた、アダムの「あばら骨の一部」を抜き取った神は、その後彼の胸部を再び「肉で塞がれた」と、聖書は正確に記述しています。そして、彼は眠りから目覚めます。その時、彼は胸に痛みを覚えたのでしょうか?そして胸部に、何か「除去手術」の傷跡のようなものが残っていて、彼はそれに気付いたのでしょうか?いいえ!彼は何事もなかったかのように、いつも通り目覚めたのです。そして、自分の骨の「一部」がなくなっていることにも、全く気付いていません。ここで忘れてならない重要ポイントは、彼が「骨」という名前(言葉)を知っていたことです。


 彼が眠りに落ちている間、父なる神は彼の知らないところで、彼の「あばら骨の一部」を取って、つまり土と塵からではなく、アダムの骨の一部を取って「女」を形づくり、彼と同じようにその物体の中に、「命の息」を吹き込まれました。すると、「女」は「生きるもの」になりました。その後父なる神は、この「女」を直接手にとり、「新婦」をエスコートする「花嫁の父」の如くに、アダムの元へ連れて来ました。その時の光景を、想像してみて下さい!アダムは当然、父なる神の「御顔」を十分に知っていました。


 ところが、「女」のことは存在すら知らず、「顔」も見たことはありません。ですからアダムは、「父の横に並んで、立っているあの生き物は、いったい何なんだ!?」などと、当然思ったことでしょうが、事実は違います。彼は、そのように思わなかったのです。彼は、その生き物(女)を見た瞬間、その中に神の「意志」の現れが、自分の「あばら骨の一部、肉の一部」として、はっきりと写って見えて来ました。ですから、すかさず「おー!私の骨よ、私の肉よ!」と、彼女に対して叫んだのです。このセリフは、私たちの会話レベルのイメージとしては、とても滑稽に思えますが、アダムにとってこの時の対面は、霊的に物凄い感動的な出来事だったのです。何故なら、必死に捜し求めていた「結び目」が、突然出現したからです。


 そして叫ばれた側のエバ(この時は未だ、名も無きものですが)も、「あー、私の元々の骨よ!元々の肉体よ!」などと言いながら、瞬時に悟ったことでしょう!この彼女の表明は、別の言い方をすれば「私が一体とされる方よ!」となるでしょう。父なる神が、彼女に対して意図されることは、「自分の骨、自分の肉」である、この彼女が神の「意志」の現れであり、自分の「助け手」という「結び目」が、彼女の中にあることを、アダムは聖霊を通して悟りました。そして彼女も、自分がアダムに「結び合わされる」時、神が意図される「一体化」が実現することを、はっきりと悟りました。


イエス・キリストの現れを求める
私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(7節)
 私たちが、様々な「知識」や「言葉」の面で豊かにされている理由、又様々な「賜物」においても豊かに与えられている理由が、この御言葉に述べられています。そうです!全てが、「主イエス・キリストの現れ」を待ち望むことにあるのです。私たちは、三次元という「古い言葉」に支配されているため、どの神の「作品(被創造物)」を見ても、神の「意志」の現れを感じ取る(読み取る)ことができません。しかし確実に、父なる神の「意志」が全ての「作品」の中に、三次元的に見て隠されているのです。又、イエス・キリストの「救い」にあずがった私たちキリスト者であっても、一人一人に付与されている神の「意志」を、霊的に「読み取る」ことができません。そして、自分に用意されている神の「ご計画」をも、私たちは霊的に「読み取る」ことができないのです。A・マーレーも、このことに関して次のように述べています。「神はどこにあっても、その住んでいる所でご自身を隠しています。自然界においても神はご自身を隠しています。それ故大部分の人は神を見ることができません。」(注1)


 ですから、「預言」や「知識の言葉」そして「知恵の言葉」などの、「聖霊の賜物」が与えられる理由がここにあります。それは、神の「最高作品」である「人」は、この世の三次元という「罪の法則」に支配されなければ、主イエス・キリストの「栄光」の現れのみを反映する、重要な「神の国の器(国宝)」として、本来生きることができることです。神の創造の目的は、これ以外にはあり得ません!神の「作品」の全てが、「主イエス・キリストの栄光」を現す、貴い器として創られているのです。私たちが新しい「霊の領域」に入るには、三次元の「罪の法則」に縛られた、「古い言葉」の次元に生きていては、はっきり申し上げて不可能です。それ故に、神が与えて下さる「新しい言葉」を、聖霊を通して語る「恵みの領域」に、私たちが入ることなくして、神の「作品」に対する「主イエス・キリストの現れ(ご意志)」を、霊的に読み取ることができません。


 「新しい言葉」が、私たちに与えられている第一の重要な理由が、7節の御言葉に記されています。つまり私たち花嫁を、花婿イエス・キリストと霊的に「結び合わせる」ため、聖霊を通して贈られた神の「賜物」が、「新しい言葉」に他なりません。では、アダムが必死に自分の「結び目」を捜し求め、気も狂わんばかりに神の「意志」の現れを待ち望んだように、私たちも「霊的な結び目」である「主イエス・キリストの現れ」を、必死に捜し求め待ち望んでいるでしょうか?今日の「エクレシア」、即ち「キリストの花嫁」は、花婿なる主イエス・キリストを、どれほど激しく恋い慕い、賢い五人の乙女のように、その「栄光」の現れを待ち望んでいることでしょう!「主イエス・キリストの現れ」を待ち望む者にとって、この「新しい言葉」という神の「賜物」は、絶対必要なものです。


 神の与える「霊的な賜物」の中で、最高の賜物は「聖霊様」ご自身です。私たちは「聖霊様」なくして、霊的飢え渇きが起こりません!又「聖霊様」なくして、「どうぞ主よ!私にもエバのような、霊的助け手を送って下さい!」などと、父なる神の「御名」を呼び求める「霊の叫び」も起こり得ません。聖霊様は「助け主」です。霊的な「助け手」聖霊様が来られる時に、私たちは大胆に神の救いの「御名」を呼び求めることができるのです。その「御名」は只一つ、主イエス・キリストです!聖霊様が来られた時から、花嫁は「花婿なる主イエス・キリストよ、来て下さい!」と、叫び始めるのです。もう一度覚えて下さい!聖霊様なくして、私たちは神の「御心(意志)」を「知る」ことができません。又、私たちに与えられている「人生の目的」や、神が一人一人に与えている「召し」に関して、「正しい方向」で教えて戴くには、聖霊様なくして不可能です。


 私たちの「霊」は、常に罪の覆い(シールド)が掛かっているため、「三次元」から来る「古い言葉」に縛られ、もがき苦しんでいます。しかし、父なる神は一人一人に対して、前もって計画(設計)している「預言的人生」、即ち「主イエス・キリストの栄光」を現す人生を、私たち「キリストの花嫁」に用意して下さっています。そして、この父なる神の「ご計画」を「知る」には、「新しい言葉」を語るという「霊的領域」に踏み込まない限り、絶対知り得ないことを覚えて下さい。


 「新しい言葉」が、私たちに与えられている第二の理由は、「主イエス・キリストとの交わりに招き入れら」(9節)れるためです。つまり私たちは、父なる神によって主イエス・キリストとの、「親しい交わり」に常に召し出されているのです。全てのキリスト者の「生きる目的」が、まさしく主イエス・キリストとの「親しい交わり」にあります!これは、「結婚」という永遠の「愛の契り」を「結んだ」、花婿と花嫁による麗しい「愛の交わり」と同じ関係です。この永遠の「愛の交わり」に、私たちが常に聖霊を通して「召し出されている」ことを、何よりも知るべきです。


 私たちが霊的に勘違いしてならない点は、花婿に対して「沢山の収穫物(教会成長、奉仕の実績、知名度など)」を携えて来たり、花婿に「収穫の量」を報告し喜んでもらうために、召し出されているのではありません!又、自分に課せられた「タラント」の大きさを、ご主人に評価してもらうために、「タラント」が与えられる訳ではありません!賢い五人の乙女は、如何なる目的をもって花婿の帰りを、ひたすら待ち望んでいたのでしょうか?彼女たちは只一つのこと、それは愛する花婿と相まみえ、同じ屋根の下で膝をかがめ、互いの顔を見つめ合いながら「愛の言葉」を交し合うなど、麗しい「愛の交わり」を求めて、「とにかく愛する方の御顔を拝したい!早く帰って来て下さい!」などと、待ち焦がれていたことです。


 アダム(エバ)の罪の結果、かつて失いこそはしたものの、主イエス・キリストの「十字架の贖い」の恵みにより、私たちは「至聖所」において再び、花婿との「親しい交わり」に召し出されていることを覚えて、更に花婿と親密に「結び合わされる」ことを、求めようではありませんか!そのために、「賜物」に何一つ欠けることがない「恵み」が与えられていることを、パウロは訴えています。


 あなたには、霊的にあらゆる「言葉」と「知識」が用意されています。それは、主イエス・キリストに「結ばれる」ことを、求めるために与えられているのです!そして父なる神の「賜物」は、全て神の「結び目」イエス・キリストと、更に「一体化」していくための重要なパーツです。ですから、私たちは大胆に神の用意される「至聖所」において、主イエス・キリストと親密に結び合わされようではありませんか!花婿と、「愛の言葉」を交し合うのに必要な言葉は、「新しい言葉」だけです。


 パウロによればコリント教会は、「賜物」に関して非常に恵まれた教会でした。コリントのキリスト者は、より多く「賜物」を求めた結果、「賜物」が何不自由なく与えられ、初期の頃はこの「賜物」を有効的に使っていたものと推測できます。ところが、いつの間にか彼らの信仰の中に、この世の「三次元的思考」が入り込んできて、神から贈られたはずの「賜物」を、自分本位で使うようになりました。そして、遂には「神の栄光」のためにではなく、又主イエス・キリストとの「親しい交わり」に使うのでもなく、自分の遊興や酩酊、そして快楽のために、又何よりも「自分の栄光(誇り)」のために使い出した結果、イエス・キリストの「み体(エクレシア)」が霊的な病に冒され、「体」全体が損なわれたのです。


 そこでパウロは、聖霊からの霊的警告と叱咤激励を促すために、この「コリント人への第一書簡」を記述しました。この書簡は、聖霊様が与えて下さる「霊的賜物」について、何よりも詳細に「正しい方向」で教え導きます。神が与えて下さる、「賜物」一つ一つには如何なる目的があり、どのような素晴らしい「計画」を、神は「賜物」の中に用意しているかなど、具体的に述べられています。そして「賜物」の最終目的(方向性)は、父なる神との「親密な交わり」と、主イエス・キリストの「栄光」の現れのみを、私たち花嫁が待ち望むために用意されていることを、常に覚えながらこの書簡の学びが、聖霊様の「助け」を通して正しく教え導かれますよう、「結び目」なる主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注21、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)68項から引用

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