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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.20)

                      多様性(神の美)の現れ



賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことを為されるのは同じ神です。一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これら全てのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。
                                                                                             【Ⅰコリント書12章4~11節】


神の創造の目的
 「エデンの園」の中央に植えられた「命の木」は、イエス・キリストの現れを象徴していますが、この「命の木」は如何なる形状の「木」だったのでしょうか?果してそれは、「善悪の木」や他の木々と、似たような外観(形状)だったのでしょうか?神は「エデンの園」に、様々な種類の植物を創造しましたが、この「命の木」に関しては、他の木々と違った独特の「形」を成していたり、或いは異様な光(色彩)に満ちているなど、まるで「お伽話」に登場する「不思議な木」として、創造した訳ではありません。


 「命の木」と「善悪の木」に関して言えば、他の木々と違う点は只一つ、「園の中央」に植えられていたことです。「園の中央」という地点を、神がお定めになっていたこと自体、実は不思議なことです。そしてこの地点は、アダムとエバが父なる神から、「いつもここに来なさい!」などと命じられていた、特別な「選びの地」でもありました。ですから、彼らは「園の中央」の所在地を、神から教えられていましたから、いつも「知って」いました。このように、「園の中央」に存在するこの二本の木は、他の木々と違って明らかに目立つもの、例えば特殊な「光」を放ったり、不思議な「力」に満ちているなど、そのような特別な木ではなく、他の木々と何ら変わることのない、一般的な「木」の形状であったと推測できます。但し、私がこの「命の木」に関してイメージすると、他の木々よりも「大きな木」であったのではないか?ということです。果してこの「命の木」は、今日の地球に存在する巨樹よりも、格別異なった形状を成し、そして素晴らしい美観を呈していたのでしょうか?


 父なる神の創造した作品は、どれ一つとっても各々が「個性」を持ち併せ、いわゆる「コピー作品」として創造されていません。私たち「人」にとって、とても面倒な作業に思えるかも知れませんが、神はご自分の「作品」一つ一つに対して、「命の言葉」を発して創造されました。しかし神は、この「命の言葉」による創造のプロセスにおいて、例えば「杉の木よ!百本生まれ出よ!」などと、一括処理するような言葉をもって命じられたのではなく、あくまで神の「意志」に現れる、一本の「杉の木」というイメージで、「一本の杉の木よ、生まれ出よ!」と命じながら創造したのです。


 つまり杉の木を、百本まとめてコピー(一括処理)するような創造ではなく、全てを一つ一つ異なった形で、個々に創造していることです。ですから、神の作品はどれ一つとっても、同じ作品(コピー)は存在しません。罪を犯したアダムとエバは、人間的には「欠陥作品(商品)」であるということで、父なる神は彼らを再び土と塵に帰し、「罪の無い(欠陥性のない)コピー」として、改めて創造してもよかったことでしょう。しかし、神は一度創造し終えた彼らを、「人の祖(始まり)」とした以上、再創造する必要はなかったのです。


 又、神の「作品」一つ一つに対して、必ず「神の美」が現れています。父なる神は、ご自分の眼に見て最高に「麗しい」ものとして、ご自分の「作品」全てを創造しています。しかし、「三次元」に生きる私たちは、全てのものの外見だけを見るなどして、例えば「あの人は見るからに品がなく、余り信仰があるように見えませんねー。」などの、誤った判断(偏見)をしがちですが、このような「三次元」的判断は全て、神の視点からではなく、「自己中心」的視点から生じるものです。


 「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」(サムエル記上16章7節)「神の選び」の判断基準は、外見的なものによるのではなく、少年ダビデを選び召し出す時に見られる、ご自分の「御心」にかなった視点、つまり神が一人一人に計画している、神の「美」を現すという視点から判断します。この「神の視点」は、イエス・キリストが十二人の弟子を、「この世」から選び召し出した時にも同じように現れています。ご存知のように十二弟子の殆どが、「この世」の一般の人々から軽蔑され、馬鹿にされるような職業に就いていました。彼らは「嫌われ者」や「役立たず」などの、差別的レッテルを常に貼られる種類の「人」でした。


 しかし「神の美」の価値は、その人の外見(外側)に現れるものではなく、「霊」の只中にあることを再度覚えて下さい!神はご自分の「作品」一つ一つに、「神の美」という「意志」を前もって注ぎ込み、常に「神の美」を現す器として創造しました。「人」は罪を犯した結果、「神の美」を正しく「見る」ことが不可能になり、それ故全ての物事を外見だけで見るなど、三次元の「誤った判断」をするようになったのです。しかし、私たちのこの「肉の眼」が、三次元の支配から生じる「霊的縄目」から完全に解放され、神の「作品」一つ一つに対して、「神の美」を見出すことのできる、「霊の眼」を備えた者に造り変えられたら、どんなに素晴らしいことでしょうか!恐らくアシジのフランチェスコは、霊的に「神の美」を見出すことができたのでしょう!どんな生き物の中にも、「神の美」が現れていることを見出した彼は、一つ一つの生き物と交わる中で、「神の美」を発見する喜びを得、そして楽しむ(味わう)ことができたのです。


 「命の木」から現れ出る「神の美」は、如何なるものでしょうか?父なる神が「命の木」を創造し、その木の中に現している「神の美」とは、「イエス・キリスト」ご自身です。「命の木」に対する私のイメージとしては、大きな枝が東西南北に渡って拡がり、その拡がる方向性は天に向かって真直ぐに枝先が伸び、大枝から小枝に至るまで、どの枝にも青々とした葉が覆い繁っている、そんな巨大な幹を持つ広葉樹を想像します。今でも「ある企業グループ」のCM (♪この木何の木、気になる・・・・) に登場する、ハワイ州立公園に植えられている「大きな木」に似通っています。そうです!この「命の木」は、まさしく「園の中央」に植えられ、天に向かって大きく成長している木であり、神の「栄光」を現すかのように、枝が天を仰ぐ形状で伸びています。そして、この枝にある数え切れない大小の葉の一つ一つが、風が吹く度にまるで合唱をするかのように、美しい旋律を奏でながら「栄光の賛美」を捧げているように見える、これが「命の木」の有様です。


 ところで、夏に咲く「ヒマワリ」や「朝顔」などの草花を、じっくり観察する機会を設けてみて下さい!どれ一つとっても、その花の「形」や「大きさ」、そして「葉の形」に至るまで、一本一本が異なることに気付きます。つまり、同じ有様(コピー作品)で成長していません。又、一本の植物から全部の葉をちぎり、机の上に並べて比較して見ると、どれ一つとっても「形」や「重さ」、又「色合い」が異なった有様です。そして、更に「花びら」を観察すると、形は一見全部似通ったものに見えますが、実は異なった大きさで「花」を咲かせていることに気付きます。ところが、花の「カラー(色彩)」は全て紫の花なら「紫色」、黄の花なら「黄色」などと、種類によって同一色を現しています。


 又、ヒマワリの花の咲く「方向」についても、神の定めた「方向」でヒマワリ全体が同じ方向に咲いています。このように、一つ一つの花の「色」や咲く「方向」など、これらを決定付けた(位置付けた)方は神であり、この神の「ご計画(決定)」が「神の美」を現しているのです。そして更に不思議なことは、その花から得られる種子の「大きさ」や「数」は、一つ一つの植物によって異なることです。もう一度覚えて下さい!神の「作品」は、どれ一つとっても同じ「作品(コピー)」として創造されていません!そして、その一つ一つの「作品」の中に、その個体独自の「神の美」が、神の定めた「その時」に現されるよう、前もってインプットされているのです。


多様性を現す
 聖霊様は「五旬節革命」の時に、百二十人の弟子たち全員に対して、様々に異なる「新しい言葉(異言)」を授けて下さいました。この「異言」は、英語で「異なる言語(Variety tongues)」、又「天使たちの言葉(Angel tongues)」と言い、文字通りバラエティーに富んだ「言語(種々の言葉)」のことです。「バラエティー」とは、「多様性」を意味する言葉であり、まさしく様々に異なる「舌(口の言葉)」が「異言」です。「聖霊革命」の時に現れた「異言」の特徴は、弟子たち一人一人が独自に「異なる言葉」を語ったことです。誰かと誰かの「異言」が似通っていたり、意味が通じ合うものではなく、全てがバラバラの言葉、つまり「バラエティーな言葉」の噴出でした。この時の出来事は、「バベル革命」の時と同じ有様でした。


 父なる神は、全てが「多様性」を現すものとして、被造物を創造しています。例えば私たち日本人は、確かに共通の母国語である「日本語」を話しますが、それは「一つの言語」のように見えても、1億2千万通りの「言語群」の総称に過ぎません。私たちは、あるキャラクターの語る「一部分」のセリフを覚えて、「物真似」みたいなことはできますが、警察の科学捜査班がよく用いる「声紋分析」によれば、「声紋パターン」は人によって異なるため、「物真似」をして同一人物に成り切ることは、全く不可能であることが分ります。このように、父なる神は全ての「作品」に対して、ご自分の「計画」をあらかじめインプットし、「神の美」を現すという目的から、多様に創造していることが分かります。実は、神の与えて下さる「賜物」も、「神の美」を現すという一つの目的をもって多様に存在し、求める者に用意されるのです。


 パウロは先ず第一に、「一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるため」(7節)であると述べています。何故父なる神は、私たちに様々な「賜物」を与えて下さるのでしょうか?8節以降に記述されている「聖霊の賜物」は、「知恵の言葉」、「知識の言葉」、「信仰」、「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言する力」、「霊を見分ける力」、「種々の異言を語る力」、「異言を解釈する力」などの、九つの「賜物」に区分されますが、大別すると言葉としての「賜物」と、力としての「賜物」に二分されます。この「区分け」は、「賜物」を判断する上で非常に重要な作業になります。


 「知恵の言葉」、「知識の言葉」、「信仰」、これらは全て言葉としての「賜物」です。そしてこの三つの「賜物」に共通することは、天上からもたらされる、「神の奥義」を説き明かす(示す)ものです。神がご自分を愛する者のために準備し、聖霊様を通して語って下さるものが「神の奥義」です。バジレア・シュリンク女史は、「知恵の賜物」に関して次のように説明しています。「人間の理解力だけでは、到底把握し得ないもの、人間の知力では決して発見することのできない神の御思いや計画、或いは神の本性の深さが、この恵み深い知恵の賜物を通して、聖霊により、私たちに開かれるのです。」(注1)ですから言葉としての「賜物」は、この世がもたらす「知恵(知識)」や「信心深さ(宗教心)」の次元には存在しません。全ては、聖霊様だけが開くことのできる、「天的次元」に存在する「言葉」です。それ故、言葉としての「賜物」の働きは、聖霊様が下さる「新しい言葉」を語ることで、天上から降り注がれる「神の奥義」を示す(現す)ことです。


 この三つの「賜物」は、アダム(エバ)が罪を犯す以前に、本来「人」に備わっていた霊的機能の一つでした。罪を犯す以前の彼らは、素晴らしい霊的機能(能力)が本来備わっている故、私たちが「天」より与えられるべく、必死に祈り願い求める行為、つまり「賜物」を求めることなどしませんでした。彼らは「罪」を犯しさえしなければ、神といつでも自由に直結し、かつ神の「御心」をストレートに知り、神の求めて(願って)おられること、つまり神の「御心」を瞬時に悟ることのできる、本来の「命の言葉」が「唇」に備わり続けたことでしょう。


 しかし彼らの「罪」の結果、私たちはこの世の「古い次元」に、「霊」から「五体」に至るまで完全に支配され、もはや神の「御心」を知ることが不可能になりました。それほど「善悪の木」は、「神」と「人」を引き離すことのできる「悪しき力」、即ち「霊的な死」の力に満ち溢れています。だからと言って、「霊的な死」を体験した私たちが、「完全な死」に至っている訳ではありません。聖霊を通して、イエス・キリストを「救い主」と告白し、「聖霊のバプテスマ」に伴う「異言」を語る「霊の次元」に入った者は、少しずつ「霊的な死」が再生(復活)し始め、聖霊による「霊的刷新」を経て、更に回復されていく訳ですが、実はこの時に見えてくる次元が「知恵の言葉」や「知識の言葉」、そして「信仰の言葉」として現れ出る、奥深い神の「御心」です。


 そういう意味でこの三つの「賜物」は、イエス・キリストご自身と、更に直結するように促す「賜物」であると断言します。「罪」を犯す以前は、聖霊によって直結していた「霊的ライフ・ライン」が、この世の「古い次元」の支配によって、今は部分的に破壊されているか、途中で遮断されている状態にあります。しかし、聖霊を通して与えられる「新しい言葉」を語ることで、「至聖所」の領域に奥深く入り、再びイエス・キリストの「御心」に、「触れる」ことが可能になるのです。この、イエス・キリストとの直結からもたらされるものが、実は「知恵の言葉」や「知識の言葉」、そして「信仰の言葉」という三つの「賜物」です。これらの「賜物」は、ある面で「命の木」と直結するための、「幹(柱)」の役割を担う賜物です。


 それに対し、残り六つの力としての「賜物」は、私たちがイエス・キリストご自身と、霊的に直結することによって明確に見えて来るもの、具体的に「神の美」を現す「賜物」です。つまり「幹(柱)」に対して、「枝」の役割を担う「賜物」です。「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言する力」、「霊を見分ける力」、「種々の異言を語る力」、「異言を解釈する力」、これらはイエス・キリストの「美」を現す、力としての「賜物」であることを覚えて下さい。


 「新しい言葉」の交わりをもって、イエス・キリストご自身と霊的に直結する時、私たちはイエス・キリストの奥深い「真の御心」に触れます。そして「その時」に、聖霊様が私たちの「霊」に「信仰の言葉」を与えます。例えば、「この者に手を触れ、イエス・キリストの御名によって、癒しの宣言をしなさい!」と。するとたちまち、私たちの「霊」の只中に「天の力」が注ぎ込まれ、イエス・キリストの御名によって、「イエス・キリストの御心通りに、癒しを与えるイエス・キリストの美よ、今現れ出よ!」と命じることができるのです。又ある時には、「この者に対して、私は・・・・の計画を進めている。このことを知らせなさい!」などと告げられた場合、これが「預言」として語られます。


 このように力としての「賜物」は、最終的にイエス・キリストの「栄光(美)」を現します。未信者が礼拝に参加した時に、自分の「霊」の状態を見分けられたり、「預言」を受けたりするなどして、自分が誰にも告げたことのない「秘密の領域」を指し示されます。するとその人は、「何故この人は、私が隠していることを知っているのだろう?」などと疑うのですが、その後に続けて語られる永遠の「神の愛」、そして「無条件の愛」のメッセージ(預言、異言の説き明かし)を受け取った時に、この人は必ず「神の救い」にあずかり、「真の解放」を無代価で得た喜びを、素直に神に対して表明(賛美)することでしょう!これが、「神の美(栄光)」を現すために用いられる、力としての「賜物」です。


 「一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるため」(7節)と記されている、この「全体」とは、まさしく大幹の基なる「イエス・キリスト」ご自身のことです。つまり「全体の益」を現すこと、これは「イエス・キリスト」を現すことに他なりません。D・ウィルカーソンは次のように述べます。「知恵の賜物はキリストに関する事項について知る知恵なのです。信仰、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など、これらの賜物によってどのような益があるのでしょうか。これらの賜物は、私たちを花嫁としてキリストの御元へ連れて行くためにあるのです。」(注2)


賜物が現す美とは?
 ところで「樹」には、ある物質が幹の中を流れています。その物質の流れる音は、実は「冬期」の間は聞こえませんが春先になった頃、ちょうど二月下旬から春雨前線が停滞する頃にかけて、実際に幹に近づいて耳を当てると聞こえてくるもの、つまり大量の地下水を汲み上げる「水流の音」です。地中深く根を掘り下げたその根の末端から、大量の「水」が天に向かって汲み上げられ、大幹の樹皮の内側を通って流れ昇ります。今まで「水」が枯れたような地中から、一気に地下水が増す時期を迎えますと、自然に「樹」の大幹は地中にある根に指令を発し、「地下水」を汲み上げ始めます。そして大幹から各枝の細部に至るまで、その組織の中に「水」を蓄え始めます。ですから春先に、ある「樹」を伐採しますと、その切った切り株から「水」が溢れ、流れ出る様子をはっきりと見ることができるほど、「樹」の大幹には「水」を汲み上げる、大いなる「力」を持っていることが分ります。


 このように、生ける「命の水」即ち聖霊様が、「樹」の幹から各枝に流れ至る時、その「美」の現れは神の「御心」のままに、イエス・キリストの「栄光」へと向かいます。聖霊様が、私たちに対して働かれる目的は只一つ、イエス・キリストの「栄光(美)」を現すことです。何故、私たちに様々な「賜物」が与えられるのでしょうか?その与えられた「賜物」を使って、「自分の栄光」を現すためでしょうか?「賜物」を私物化して、自分の目的のために使ったり、「自分の力」を誇示するためでしょうか?「自己利益(お金)」のためでしょうか?「自分の教会(教団、ミニストリーなど)」を、リバイバルするためでしょうか?このような目的、つまり「自己の美」を追求するために、「賜物」が与えられるのだとしたら、誰もイエス・キリストの「美」に近づくことも無ければ、信じようともしないでしょう!これは、「ご利益主義」を掲げる「世の宗教」と、何ら変わりません!しかし、聖霊の働きに沿う(従う)よう、用意される様々な「賜物」は、「全体の益」つまり「一つの体(イエス・キリスト)」の「栄光(美)」を現すために与えられるものです。バジレア・シュリンク女史は、明確に次のように述べています。「この御霊の賜物は、他の全ての賜物と同様、私たちを神への礼拝に導くという、一つの目的のために与えられています。」(注3)


 例えば、人が今まで踏み入ったことのない、奥深い山林に育った一本の原生樹(ヒノキ)が、
「私はもうこれ以上、ヒノキの枝を張る必要がなくなった。おっと、もうそろそろ花を咲かせる時期だなー。今年はもう、今までのようにヒノキの花は、咲かせないことにしよう!どうも他の植物の花に比べて、私の花はみすぼらしく見えるから・・・・。そうだ!今年は、私の木陰に咲いているシラユリ君のような、綺麗な花を咲かせることにしよう!」
などと、この「ヒノキ」が「人」のように、自分の「意志」を働かせて考えたとしたら、もはやこの樹は「ヒノキ」ではありません。父なる神は、「ヒノキ」には「ヒノキの枝」を創り、「ヒノキの花」を咲かせ、「ヒノキの実」を結ぶよう「ご計画」通りに創造し、「ヒノキ」独自の「美」を用意しているのです。


 自然界にでさえ、このような神の素晴らしい「美」を現す計画(摂理)があるのであれば、私たちは「イエス・キリストの花嫁」として創造されている以上、必ず「神の美」を現すよう前もって計画されているはずです!「神の美」を現す方向を指し示して下さる方は、「聖霊様」お一人です。勿論「聖霊のバプテスマ」を受けなくても、生まれながらに天のタラント(才能)を与えられている人もいます。しかし、神の「賜物」を与えられている「理由」と「目的」が、「全体の益」になるためであるという、霊的な最終方向(目的)を知らなければ、私たちは「賜物」を勝手気ままに求め、自分流に解釈して「自分のもの」にしたり、「自分の力」として使用する危険性があります。


 聖霊様が今後進められる「ご計画」は、「これら全てのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さる」(11節)と記されているように、イエス・キリストの「美(栄光)」の現れだけを追い求める者に、様々な「聖霊の賜物」を惜しみなく分け与えることです。ですから、私たちは更に期待して求めようではありませんか!但し「一つの条件」があります。それは、イエス・キリストの「美」の現れだけを追い求める者に限定されていることです。


 「自分の美」の現れを求める者は、はっきり申し上げて「却下」です。忘れてならないことは、十字架上のイエス・キリストと共に「自己」を明け渡し、自分の「自我」に死んだ者のみが、イエス・キリストと同じ「復活の栄光」の恵みにあずかり、イエス・キリストの「美」だけを現す、貴い「器」に造り変えられることです。あなたは、神から数々の「賜物」を戴いた結果、もっと「自己」に死ぬのではなく、むしろ「自分(私)」が生き始めていないでしょうか?又、更に「自分の美(名誉、誇り、名声など)」を現すことを望んでいないでしょうか?サタンは、「神の美」ではなく「あなたの美」を現す計画を企て、アダムとエバに実行したように、あなたの「霊」に近づき常に誘惑して来ます。何故ならサタン(ルシファー)自身が、自分こそが「最高の美」を持つ天使である!などと驕り高ぶり、自分の創造主に反逆した「第一人者」だからです。


 アダムとエバの犯した、その「罪の種」が植えられた結果、私たちはサタン同様に「自己美」、つまり「自分の美」を現すことに必死になる、これが私たち「人」の現実の姿です。私たちの思考概念には常に、例えば「美しい家」、「美しい車」、「美しい(麗しい)学歴」、「美しい教会堂」、「美しい立派な信徒」などの言葉があり、それを実際に所有した時から、「自分の美」を外側に現そうとするなど、愚かな一面があります。しかし、「人」から生まれ出る(現れる)これらの「自己美」は、全て神の眼に見て「麗しさ」とはかけ離れた、汚れた忌まわしき「偶像」であることを、私たちは忘れがちです。


 神は「人」の「霊」の只中を見られ、イエス・キリストの「美」だけを追い求めているか否かを、聖霊を通して探られます。K・ヘーゲンが「異言の賜物」について、次のように説明しています。「異言は他の賜物への入り口なのです。」(注4)つまり、この「新しい言葉」の賜物は、他の様々な「賜物」を通して更に「知り」得る、奥深い「霊の領域」に至る「唯一の門」です。「新しい言葉」の持つ方向性は、常に「命の源」なるイエス・キリスト、つまり永遠の命に至る「命の水」だけに飢え渇き続けることです。神の定めた「正しい方向」に向かうこともなく、「自分の水(美)」だけを求める者は、依然として「古い言葉」の次元、つまりサタンの支配下にあることを覚えて下さい。「バベル革命」に始まった、この世の「古い言葉」の次元に生き続ける限り、私たちは全ての面で回復されることはありません。「新しい言葉」それは、聖霊様の願っている「ご計画」通りに、イエス・キリストの「美」の現れだけを追い求める者に、惜しみなく与えられる「賜物」であり、この「賜物」を通して更に他の様々な「賜物」が、付与されてくるのです。


 ですから、私たちは一つの「賜物」に満足するのではなく、「主よ、更に御子イエス・キリストの美を現して下さい!イエス・キリストの美(栄光)をもって、人々に救いの回復の時が、もたらされることを祈り求めています。この器に、あなたの天の賜物を降り注いで、更に満たして下さい!主イエス・キリストよ、私はもっとあなたと一つになりたいのです!」と、叫び求めようではありませんか!そうです!私たちは更にイエス・キリストの「美」を、激しく求めましょう!そうする時に、私たちの語る言葉が「知恵の言葉」や「知識の言葉」、そして「信仰の言葉」へと変革され、大胆にイエス・キリストの「栄光(美)」を宣べ伝える、「イエス・キリストの証人」に仕立てられることを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン!


注1、バジレア・シュリンク著『御霊の風の吹くところ』(生ける水の川)42項から引用
注2、D・ウィルカーソン著『ただキリストを求めて』(角笛出版)155項から引用
注3、バジレア・シュリンク著『御霊の風の吹くところ』(生ける水の川)43項から引用
注4、ケネス・E・ヘーゲン著『なぜ異言なのか?』(信仰ミニストリーズ)10項から引用



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