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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.27)

                           第一段階の流れ




彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼は私を北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。その人は、手に測り綱を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
                                                                                                 【エゼキエル書47章1~3節】


 エゼキエル47章に記述されている神の奥義は、聖霊の「満たし(充満)」というテーマ(目標)のみを扱っている訳ではありません。実は聖霊様が私たちに望んでおられる、完全に満たされるという霊的状態に達するまで、①私たちが聖霊様の様々な「満たし」を受ける為には、如何なるステップ(段階)が用意されるのか?そして更に私たちが、②各ステップを着実に踏みながら前進出来るよう、聖霊様が私たちに直接指導し、ご自身が望まれる「器」へと造り変えるべく、霊的回復の御業を推し進めていること、この二つの方向性をもって聖霊様の取扱いを体験する、言い換えれば「霊的テスト」を各段階において、私たちが受験することを詳しく教え導いています。また私たちがこの47章の奥義を、一つ一つ霊的に体験して行く時に、父なる神は必ず各段階に応じて、必要な「霊的備え」をも用意していることに、私たちは気付かされることでしょう。


 もし私たちが、「私に水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。」(3節)と記述されている「神の川」の流れの中に、聖霊様を通して「来なさい!」と命じられた場合、果たして私たちの側に神の「霊的備え」を、素直に受け留める用意(姿勢)が為されているのか?先ずこの点について学んで参りましょう。


「くるぶし」程度の流れとは?
 1節と2節から分ることですが、神の使い(聖霊)はエゼキエルを、神殿の外側に連れて行き、「神の宮」から流れ出る「命の水」が、大河の如くに流れる様子を見せました。その神の川の「流れ」は、南壁の基礎を打ち壊す程の激流となって、四方八方に大量に流れて行きます。そして3節には、その川の「流れ」が最終的には同一の、つまり「東」の方角へと流れが変化していることが記述されています。このことは、私たちが日本に住んでいますと、「川」のイメージがどんな大きなものでも、恐らく川幅が50~100m程度のものしか、思い浮かべることが出来ませんが、エゼキエルが見た「川」は、川幅が推測出来ないもの、つまり大洪水の如き大河だったのではないでしょうか!しかも、その流れは激しい「勢い」と「瀑音」をもって、絶え間なく流れているのです。


 ですから言葉(表現)としては、「くるぶし」程度の深さであっても、神の「命の水」の流れは、私たちが川で泳ぐ時には「くるぶし」から浸かりますが、その時のイメーシ(体験)とは懸け離れた激流です。それ故、まともに両足で立ち続けることが出来ない程の流速です。これは、荒波が打ち続ける海岸の砂地にて、波が引いて行く時に、最初は大丈夫だろうと思っていた両足が、波の引く「力」によって砂が流されて行くことで、思わずバランスを崩して倒れ、荒波の中でもがき苦しむ経験に似通っています。


 神の使いは、エゼキエルに命じました。「今から私が、測り綱で測ってみることにしよう。あなたを、ある地点にまで導くために、私はそこまでの距離を測らなければならない。ですから、ここで暫く待っていなさい!」と。当然、レーザーポイント方式による今日の技術水準と懸け離れた、原始的なこの時代の測量方法は、先ず起点となる場所(地面)に棒杭を打ち込みます。そしてその棒杭の上部に測り綱を結んで、測るべき目標となるポイントへと、その綱を引っ張りながら歩いて行きます。測り綱には長さに応じた、アンマの単位が結び目(しるし)として施してあります。神の使いは、次第にエゼキエルの立つ起点から離れ、暫くすると大分離れた距離の位置にまで進み行くのを見て、エゼキエルは「あの人は、一体何処まで歩いて行くのだろう?」と、当初は興味深く眺めていたことでしょう。しかし、神の使いは歩行をストップすることもなく、殆ど互いの声も届かない、また姿・形も明確に見定めることの出来ないポイントにまで到達しました。三節には、そこまでの距離が約1,000アンマと記述されていますが、現在の実測単位では560ヤード、概ね500~510m(1ヤード=91.4cm)の長さです。


 ご存知のように500m離れた相手に対して、いくら大声で叫んだとしても、それは届くことの不可能な距離です。また視力2.0以上の者であっても、大きな白旗を上下、或いは左右に振らない限り、両手の動作だけで例えば「こっちに来なさい!」などのジェスチャーをしても、何を訴えているのか確認出来ません。しかしエゼキエルは、この時神の使いが「こっちに来なさい!」と、盛んに促していることが確認出来ました。実に三次元的には有り得ない、不思議な光景(出来事)です。


命の測り綱
 さー、エゼキエルは困惑しました。「ちょっと待って下さいよ。あそこまで歩けですって!果たして大丈夫だろうか?」などと。しかし彼は命じられた通りに、神の使いの立っている地点を目指して、一歩一歩と慎重に「川」の中を進み行きました。覚えて戴きたいことは、川底がプールのように滑らかな場所、しかも「くるぶし」程度の深さ(それは深さを認識できる所で、川底が澄んで見える清流のような川)を、500m歩き進むことは誰にでも出来ることです。しかし、この時の「川」の流れの状況は、たとえ「くるぶし」程度の深さであっても大激流です。そして当然、川底の見えない泥の流れであり、それは洪水の時のような流色です。しかもその流速が速いことから、川底が不安定な形状(フィールド)になっていて、延々と連続している訳です。


 私はかつて台風が過ぎ去った直後の、大激流の川岸付近の水流の中を、少しの時間横切って歩いたことがありますが、「サンダルを履いていても、慎重に歩けば大丈夫だろう!」と、その時安易に考えていたのですが、数mも歩かないうちに、履いていたサンダルが流されてしまい、結局裸足で立ち続けていたとしても、いつかは自分も押し流されてしまうことに気付き、元の所まで引き返さなければ「命の危険」が迫り来るという、恐怖の体験をしました。


 幸いにも、この時のエゼキエルの置かれた状況は、神の使いが起点から測り綱を張っていますので、まるで安全ロープ(命綱)の役割を、この測り綱が担っていました。ですから彼は、この安全ロープを手でしっかりと握り締めながら、ゆっくりと歩き進む決心がついたのではないでしょうか!彼は測り綱を辿りながら、一歩一歩と進み行きました。「何と歩きにくい、不安定な川底なんだろう。しかし、言われた通りに進むしかない!」などと、不安を覚えながらも三歩目、四歩目と前進しました。ある時には足がすべり、思わず倒れかけたこともあったでしょう。エゼキエルは歩み行く中で、ふと次のように思いが乱れたかも知れません。「確かに神の使いは、この五百mという長い距離を、淡々と奇跡的に歩くことが出来た。しかし私を見てくれ。この歩調は、どうも彼のペースと違って、ゆっくり過ぎる。今のところは安全だが、もしかしたら次に、とんでもない深い淵(落とし穴)が川底にあり、溺れてしまうのでは?・・・・」と。とにかく彼は、この命綱を強く握ってはいるものの、内心は「恐れ(不安)」の思いに満たされていたのです。


 すると彼の「霊」に、「いつまで歩き続けなければならないのか?!行けども行けども、目標のポイントに近付いているようには見えないのだが・・・・」などと、内なる「心(魂)」の声が囁きかけます。しかし、神の使いはエゼキエルに対して、「来なさい!来なさい!」と、盛んに励まし呼びかけている姿だけが目に入って来ます。これは単純かつ単調な作業(労働)、例えばライン作業に似通っているのではないでしょうか!①危険で②倒れる可能性が大きい、しかも③命綱を握り全体力を振り絞るという、極限かつ単調な歩みの中で、彼は「何故私が、こんなに時間のかかる、しかもきつく危険なことを、しなければならないか!神様は、もっと一気に進む方法を、教えてくれても良さそうなのに・・・・。未だ(この歩みは)終わらないのか!」などと、当初の決心(意志)がぐら付き、意識がもうろうとし始めました。


 すると彼の意識の中に、何かが自分の方に向かって流れて来る様(幻覚)が入りました。それは一本の「丸太」でした。しかもこの丸太には、一人の男がしがみついて泳いでいました。彼はエゼキエルに対して、「あなたは一体何をしているんだい?ここは一々歩かなくても泳げるんだぞ!私みたいに、何か流木でも見つけて、一気に目標を目指して泳いでみたらどうだい?」とアドバイスし、スイスイと軽やかに去って行きました。しかしエゼキエルは、「まー確かに泳げるかも知れないけど、彼は分っていない。私が進み行く方向には、絶対彼は泳ぎ辿り着くことが出来ない。何故なら、神の使いの立っているポイントは、この川の流れとは別の方向にあるから・・・・」などと、気の「迷い」と「不安」を振り払って、再び神の使いの立っているポイントへと、単調な歩みを続けました。そして、ようやく半分位の距離にまで近付いたことが分りました。


 暫くすると再び幻の中で、今度は「大きな船」が見えて来ました。次第に近付いて来るので、その船名がようやく分りました。その名は「成功&繁栄号」でした。その船長はエゼキエルに対して、「おーい、君はここで何をしているんだい?こっちに移って、私たちと一緒に、それぞれの目的地に行こうではないか!この船だったら、何処でも好きな所へ行けるから・・・・。そんな危なっかしいことは止めて、とにかくこっちに乗船しなさい!」と誘いかけました。エゼキエルは一瞬、「お、しめた!いいところに来てくれた。うーん、しかし・・・・」と悩みました。


 しかし、気を取り直して「いえ結構です。確かにあなたの船は、目的地に早く辿り着くことの出来る、とても良い方法のような気がします。しかし私は、神の使いが言われた通りに、歩いて来なさい!と命じられた御言葉を、信頼して進むだけです。申し訳ありませんがお断りします!」と返答しました。すると船長は「君は本当にバカだな、さようなら!」と吐き捨てるや否や、エゼキエルの目指す方向とは別の、つまり「成功&繁栄号」は、先ほど見た「丸太舟」と同じ方向に翻弄されて行ったのです。エゼキエルはそれを見て、「あ!やはりあれに乗らなくて良かった。」と、確信を更に深めながら前進しました。


 その度に様々な誘惑の船が、彼の行く手に近付いて来ました。ある時は「放棄号(もう止めよう!こんなことを続けても、私にとって何の意味も無い)」、又ある時は「他の方法号(もっと別のやり方で、目的地を目指しても構わないだろう)」が来る訳です。しかし彼は、その度に「命綱」を見て励まされます。「いや待てよ。神の使いも、向こう側で私が来るのを、測り綱を強く握り締めながら、忍耐の限りを尽くして待っているではないか!」と。そして彼は、疲れ切った足を引きずりながら、激流に耐えつつ歩き続けました。不思議なことに、たとえ「川」の流れが次第に激しさを増しても、深さは「くるぶし」程度のままでした。この不思議な現象を体験しながら、彼は自然と「力」が湧き上がり、「主なる神は、私の歩みの全てを確かなものとされている。現に私は、溺れることが全く無かった。」と納得しました。


 そして遂に、彼は神の使いの立っている第一のポジションに、辿り着くことが出来たのです。すると神の使いは、「よくやった、忠実な者よ!ここがゴール(最終地点)です!」とは言われませんでした。何と神の使いは、「私は更に、次の測量地点を目指して進むから、ちょっと待っていなさい。私が再び測り綱の端を握って、次の目的地に行き着くまで、暫くここで休んでいなさい!(実際には、立ち続けざるを得ない状況にあるですが・・・・)」と、面食らう(期待はずれの)言葉を残して、再び彼の元から進み行かれたのです。私たちもそうなのですが、恐らくエゼキエルもこの時、「えー、まだですか!」などと、思わず溜息をついたことでしょう。


「立つ」ことの奥義
 私たちが、「立つ(stand)」という姿勢を保とうとする場合、果たしてそれは「人体」の何処の器官が、「支え」の中心となっているのでしょうか?ご存知のように、それは「両足」と「腰」の筋力バランスに依存しています。この「足」を支えとして立つ時、その力点は①親指②かかと③アキレス腱の三つです。この三つの力点が、バランスよく支え合っている故に、私たちは初めて立つことが可能になります。しかし、この三つの力点の一つでも支えを失いますと、それは殆ど「立つ」ことが不可能になります。


 エゼキエルが最初歩み続けた「命の水」の川は、くるぶし程度の深さでした。聖霊様は私たちが神の用意される「命の水」の、第一段階の流れに入る際に、何故「くるぶし」程度の流れの中を歩むように命じられるのでしょうか?実はこのことの意義(奥義)を、聖霊様は私たちに対しても、この預言的ストーリーから示しておられます。アダム(エバ)の犯した「罪」の結果、私たちは自分の両足という「肉の力」を頼みとして、自分の意志で「立つ」ことを欲する生き方を選択しました。これは父なる神の視点から見れば、「悪しき姿勢」です。それ故、如何に私たちの肉の「足」で、川底を強く踏ん張りながら立ったところで、神の使いが用意している「命綱」が無ければ、私たちは立つこともままならない存在である!ということを、エゼキエル及び私たちに対して、聖霊様が忍耐しながら教え導いているのです。


 第一に、「立ち続ける」ということは、非常に忍耐を要する単調な行為です。ですから、たとえ「くるぶし」程度と言えども、この神の第一段階のテストによれば、「命綱」の支えを頼みとして、忍耐しながら歩み続けるという、非常に重要な聖霊様の訓練(取扱い)であることが分ります。私たちは、一度「聖霊のバプテスマ」を授かったからと言って、一気にリバイバルを担う「偉大な器」になる訳ではありません。仮に今、そんな簡単な方法(法則)があるとしたら、全てのキリスト者が飛び付いていることでしょう。しかし殆どの場合、「聖霊のバプテスマ」を授かるという体験は、確かに素晴らしい天上の「恵み」なのですが、霊的な眼が開かれることによって、逆に霊的な「苦しみ」も見えてくるのです。ですから、聖霊様は常に私たちに対して、「私に従って前進し続けなさい!あなたには、あなたにしか進めない歩調を、私が用意しています。他の人の歩調(ペース)を見てはなりません!」とアドバイスして下さいます。


 しかし私たちは、他の人々が成功したり、大きく用いられたりするのを見ますと、霊的に落ち込んで(塞ぎ込んで)しまい、「何故私だけ、こんなに単調な(つまらない、苦しい)歩みをしなければならないのだろう?いつになったら・・・・」などと、自問自答しながら歩んでいます。しかし思い出して下さい!あの偉大なイスラエルの指導者モーセでさえ、偉大なリーダーになる以前の神の取扱いにおいて、40年という長い歳月を要しています。かつて彼は、エジプトのプリンスの一人として、「成功(栄光)」と「繁栄」が約束されているかに見えましたが、ある時から奈落の底に突き落とされる試練を課せられました。私たちは、次のことを常に覚えて下さい!「贖いの子羊」イエス・キリストが十字架上で屠られた理由が、例えば私たちがあらゆる面で成功し、「偉大な器」として用いられる為にあるのではなく、私たち自身が神の「命の水」の流れの中に浸り、そして完全に覆い尽くされていく過程で、「自我(エゴ)」に死す為であることを。


 しかし第二に、私たちが「くるぶし」程度の流れの中に導かれた時、「あー、何と気持ち良いことか。この単調な流れの中に浸り続けるべく、ここにずっと座っていよう!」などと気楽に構えることを、聖霊様は望んでおられません。聖霊様は常に私たちに対して、「もっと奥深くへと前進して来なさい!私の立っているポジション目指して、一歩ずつ歩いて来なさい!私の元に辿り着いたら、あなたは霊的に学ぶべき、第一段階のテストを終了出来るでしょう!」と。


 私たちは、日々の信仰における歩みの中で、恐らく単調な苦しみが続いたり、自己憐憫的な思いと「このままではいけない!」などの肉なる思いにより、様々に思いが乱れ葛藤する時があります。しかし聖霊様は、「その時」に「命綱だけを強く握り締めて、一歩一歩前進して来なさい!」と励まします。何故なら「命綱(測り綱)」とは、父なる神の堅固なる「導き」を表していますが、神の「導き」のみを信じながら、自分の「足」ではなく神の「支え」を頼みとして歩むか否か・・・・この第一段階のテストを、あなたは受けているからです!その時に私たちが、仮に「いや、もう命綱は不要です。私には一本の丸太(世的方法)があれば、一艘の船(世的成功)もありますから・・・・」などと悪しき流れの方向へと、あなたの今までの歩みを変えるとしたら、神の使いが立つ第二のポジションに、辿り着くことはありません。つまり、第一段階のテストの結果(点数)としては、「〇点」になります。


 私たちは常に、神の用意して下さる「命綱」によって守られ、そして支えられ歩み続ける限り、単調と思えるような「流れ」の中にあっても、神が聖霊様を遣わして下さり、私たちの全てを覆い尽くすべく、神の「命の水」を豊かに流して下さることを覚えて下さい!そして聖霊様は、私たち自身が「神の宮」の「生ける石」として完成されるには、私たちの中にある神への「不従順」という罪を完全に聖め、その「不従順」を完全に打ち砕きながら、私たちを神の確実な「導き」の中で取扱って下さること、このことを常に覚えて感謝しようではありませんか!


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