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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.20)

                          まことの幸せ



               いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
               罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
               主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
               その人は流れのほとりに植えられた木。
               時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
               その人のすることは全て、繁栄をもたらす。
                                                                                      【詩篇1篇1~3節】


民族的価値観が問われる「日本人」
 東日本大震災から、もう既に数年経ちました。「あの日(2011.3.11)」を境に、日本人の民族的価値観が、大きく転換したように思えます。イスラエル民族と同様に日本民族も、創造主なる神の「選び」により、様々に練られている感が否めません。


 主なる神は、ある重要な歴史的分岐点の時を設け、私たち人類が愚かな道に向かい、滅亡しないようにすべく、様々に「軌道修正の時」を、歴史の中に起こしていると言えます。ある面でイスラエル民族は、私たち「人類」と「神」との、関わり方のモデルとなった、先駆的民族ではないでしょうか!彼らは様々な時代の中で、悪しき者の手により、民族的に「全滅」か「虐殺(浄化)」という、非常に受け難い「苦難の道」を強いられました。


 しかし彼らは、「律法(神の法)」を忠実に守り通すことで、如何なる時代にあっても、「父なる神は私たちを、苦しみばかりでなく、必ず後の時には水辺に咲き香る、麗しい野の百合の如くに、繁栄の時を用意して下さる!」ことを信じて、子々孫々に至るまで、神の「言葉(律法)」を語り継いでゆきました。それ故に彼らの不屈の精神は、今も尚力強く継続しているのです!


 では、私たち日本民族の場合は、どうでしょうか?かつて(戦前期)日本人は、自分の生まれし国家を「神の国」と呼んでいました。不思議なことですが、自国を「神の国」と呼ぶ民族は、イスラエル民族とアラー神を信じるアラブ民族、そして日本民族だけではないでしょうか?


 今も尚、「神の国」と呼んでいる人々の住む、この日本民族の歴史は、幸いにも「他国(他民族)」の侵略等により、支配(隷属)されるという経験がありません。その都度、父なる神の歴史的「介入(恵み)」により、預言的な指導者たちを興し、政治から社会及び経済の流れが、完全に消滅すること無く、守られているのではないでしょうか。


 そして、私たちは毎年恒例の民族的行事、8月15日の「その時」を迎えます。日本人は未だもって、この日を「終戦記念日(自らの意思で戦争を終結させた記念の日)」と錯覚しています。三次元的事実としては、否が応でも「日本国」は連号国側に敗戦したのであり、決して平和的に「終戦の時」を決断したのではありません。つまり、日本が降参した日(降伏宣言文に調印した日)です。


 その後日本は、朝鮮戦争に伴う経済的特需もあり、飛躍的に復興し、大いなる繁栄の時を迎えます。その結果日本人は、「敗戦」という苦しみの時を、いつしか忘れ去ることになります。戦後日本の「繁栄」の恵みの要因が、父なる神の絶えざる民族的取扱いという、霊的プロセスがあることにも気付かないまま・・・・。


 そして日本人は、何と愚かにも(原爆の被災国という歴史的事実があるにも関わらず)、1960年代後半から今日に至るまで、「原子力」という名の新しいエネルギーを、まるで最高の科学技術(科学の神)と信じ頼る程にまで、次々と日本の沿岸部に、原子力発電所を建造しました。・・・・そして、2011年3月11日の午後2時46分に、福島県にある「原子力」という名の、巨大な霊的バアル(科学の神)が、巨大地震と大津波により打ち倒されたのです。


 この時を境として日本民族は、改めて知ることになります。目に見える「繁栄」にではなく、目に見えない「人」と「人」との、つながり(関わり合い)の中に、「安らぎ」と「休み場」を求めることが、一番重要であったことを。そしてそれらは、過去の日本民族の歴史を創り上げてきた、大切な民族的価値観であったことも。その事例として、今回被災した人々ばかりでなく、都会に暮す若者の中にも、新たな価値観を求めて、「幸せ」を目に見えるものにではなく、目に見えないものに向けようと、様々に動き始めていることです。


 私たちキリスト者の場合は、幸いなるかな!御子イエス・キリストの御業の故に、新しく創造された神の民として、主なる神の「導き」に従うべく、常に「まことの幸せ」を、神の見えざる「法(命の言葉)」の中に、霊的に見出しながら生きています。しもこの「新しき民」は、父なる神の御名を崇めるべく、「罪」を犯す以前の「アダム(エバ)」の如くに、神の「臨在」のみを求めようと、絶えず霊的に激しく飢え渇いています。そして「昼」も「夜」も、神の「御教え」を守り行っています。それはまるで、大家族の中において「家長」が語る、数々の「教え(訓戒)」を家訓として、大事に継承していくプロセスに似通っています。


神の「教え」を愛し、口ずさむ「霊的民族」として
 神の「教え」とは、私たちを正しく導くための「ガイダンス」です。そして「この世」にあって、神の「教え」が如何に、自分を常に正しき道(位置)へと導き、如何なる状況の中にあっても、神の「教え」から離れては生きられないことを、霊的に学習する(習得する)ものとなります。それ故に神の「教え」を、子々孫々に至るまで守り行う「家族」は、必ず神の「祝福」にあずかるのです。


 神の「教え」を愛するとは、どういう意味でしょうか?「言葉」そのものを愛するとは、その「言葉」の持つ真意を汲み取りながら、100パーセント受け入れ大事に扱うことです。それ故にその「言葉」が無ければ、生活(生存)していくことが困難と思える程に、ある種の危機感を同時に抱くことも、意味として含むのではないでしょうか!神の「教え」を愛することも、同様の意味を持っています。私たちが、神の「教え」をこよなく愛し、神の「教え」が「この世」を歩んで行く上での、正しき「道しるべ」として学ぶことで、私たちは更に「喜び」が増してくるのです。


 2011年3月11日の歴史的「出来事」は、私たち日本民族に対して、大いなる「教え」を残しました。それは「先人(知恵者)」の語り継ぐ「教え(言葉)」を、常に愛し(大事に思い)ながら、子々孫々に渡って学習してきた「家族」は、巨大な津波に呑まれることなく、今日も生き永らえることが出来たことです。


 次に神の「教え」を昼も夜も口ずさむこと、これはあることを意味する比喩的表現です。ご存知のように「昼」は、「太陽光」が差し込む恵みの時です。しかしこの「太陽光」が突然消えますと、たちどころに「暗闇」が地を覆い、急激に気温が低下し始め、遂には「全て」の生物が死に絶えます。それと同様に、私たちは霊的に冷え切った「この世」の中にあって、「何」を信じたら良いのか分らない人々、「先」がどうなるのか分らない人々と、共に生きる存在です。


 しかし神は断言します。如何なる「時代(時)」の中にあっても、如何なる状況下にあっても、神の「教え」を高価な宝石の如くに守り、そして神の「教え」に従って、正しく行動していくように!と。神の「教え」は、次のような非常にシンプルな内容のものです。①真の創造主を知り、②その方に全面的に依り頼みながら生きること。それを③自分が会得した後に、家族にも代々教え継いでゆくこと。④如何なる時と場合においても、主の教えを軽んじることが無いように。⑤己の判断に頼らないこと等です。


 人の語る「言葉」、それはたとえ「その時」良いものであっても、いつかは絶えるものです。それ故に私たちは、霊的に正しく知るべきです。「何」が私たちを、本当の意味で生かしているのか?つまり創造主なる神が、私たちの「人生(命も含む)」を有益なものとして創造し、私たちが真の神を知ることによって初めて、豊かな繁栄を及ぼす存在と成り得ることです。それ故私たちは、真の神がわざわざ提示して下さる、その「教え」に従って生きる時に、遂に神の「祝福」にあずかる先駆者、つまりまことの幸せを得ることが出来るのです。


 「その人のすることは全て、繁栄をもたらす。」(3節)これが、私たちキリスト者の「特権(使命)」です!つまり、如何なる時(良き時、悪しき時)にあっても、私たちの為すことは唯一つ、創造主なる神と共に生き、そして「人」との間にあっては、「他者」を潤す者となることです。そうすれば私たちは、どんなに苦しい時代の中にあっても、イスラエル民族の如くに、歴史的に生き永らえることが出来る、日本人キリスト者として、霊的に先駆ける民族に成り得るのです。即ち私たちは、目に見えるものに頼ろうとする、今までの三次的価値観を捨てて、聖霊様の取扱いを通して、目に見えざる神の「教え」にのみ聞き従う、「真のキリスト者」へと益々仕立てられて行きましょう!


 あなたが、神の「教え」を守る(愛する)ことを通して、豊かに「新しき民」へと創造され、まことの幸せを多くの人々に、分かち合う者として祝福されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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