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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.3)

                シオンのパンを食しなさい!



シオンの食糧を豊かに祝福し、乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。
                                                                                                                 【詩篇132篇15節】


 この御言葉は、父なる神が私たちに、「必ず与えられる保障」として授けられるもの、つまり永遠に変わらぬ「約束の御言葉」です。しかし私たちは、この御言葉を頭で理解できても、「上からの信仰」を与えられなければ、信じて受け留めることのできない、奥深い霊的次元にある御言葉でもあります。「上からの信仰」に立ち、どんな乏しい中にあっても「神の導き」を待ち望みつつ、苦しい経験を通過した「神のしもべ」は、この御言葉を「信仰の基礎」にして「生活の糧」を祈り求めました。すると、父なる神は「時に適った恵み」を、彼らの必要に応じて奇跡的に届けて下さいました。このように神に従う者、神を求めて止まない者には、決して「糧乞うことなく」、又「恥じを見させることなく」、むしろ「天上の祝福」をもって、飽き足りるほどの「パン」で満たして下さいます。


 例えば預言者エリヤは、父なる神から「預言者」の務めに召し出されながらも、常に迫害の憂き目に遭い、世間的には「逃亡者」のレッテルを貼られるなど、卑しい身分に成りました。しかも「飢饉」が起きたことで、逃亡生活を継続できないほど「飲み水」にも事欠き、いよいよ「食糧」も底が尽きるに至った時、父なる神は「天上の祝福」を不思議な方法で届けて下さいました。先ず父なる神は、彼を枯れ尽きたと思っていた「ケリテ川」に導き、そこで細々ながら「飲み水」を与え、続いて「人」にとって、何の役にも立たないと思えるカラスを用いて、彼の隠れ場(洞窟)に「パン」を届けて下さいました。彼はこの逃亡生活の中で、神との「親しい交わり」をより深め、本当の意味で「預言者」としての訓練を、「神の導き」の中で直接受けることができたのです。


 同様に神に従う者、そして神を激しく飢え渇き求める者にとって、この御言葉は信仰の依り所となる、「黄金律(金の言葉)」です。しかし注意しなければならないことは、かつて1980年代アメリカのカリスマ・リーダーたちが教え広めた、「繁栄の神学(祝福の法則)」に見られるように、この御言葉を人間的に解釈して、この世にあって「糧」乞う者ではなく、「糧」を人々に与えることができるほど、神の繁栄(祝福)にあずかる(成功する)者になることが、「神の栄光」につながる最大の務め(ミニストリー)であるなどの教えに、決して惑わされないで下さい!


 私たちがエリヤの如く神に従う時、霊的に様々な状況(境遇)に導かれるでしょう。ある時は霊的な苦難を通過させられたり、又実際に生活面で経済的「困窮」を強いられる時もあるでしょう!ご存知のように、今日の日本は「経済不況」が蔓延し、殆どの企業が「リストラ」を促進せざるを得ない状況にあります。その中で社会経済的弱者(不況に生き残れない人々)は失業し、ある者は借金などによる「家族離散」を被ったり、「ホームレス」にならざるを得ないほど、社会的底辺に突き落とされる人々が増加しつつあります。


 このような経済的破綻によって、「糧乞う人々」が現実の社会的問題として、明確に「見える」段階に至って、私たちキリスト者は彼らに対して、どのような「福音(良き知らせ)」を伝えるべきでしょうか?私たちが「自分だけの祝福」というポジションに座し続けるのではなく、「今」だからこそキリスト者の、「在るべき姿勢」が問われているのではないか!この点にも、聖霊様の「知恵」と「助け」を求めるべきです。「救世軍」の働きに召された人々に見られるように、神の「御言葉」に忠実に従い、神のみを追い求めるよう導かれた人々は、「糧乞う人々」や「世間から追いやられた人々」、又「病に倒れた人々」や「弱った人々」の元に必ず赴き、「天の良き知らせ」と実際の「パン(食糧)」を供給することで、「神の国」を教え導いています。


 前述した「繁栄の神学」に立つ人々は、必ず「世俗的な宗教」と何ら変わることのない、ピラミッド型宗教組織(大教団)を造り、益々「ご利益」を売言葉に、飽くなき「世的繁栄」を築いて行きます。この世の企業の殆どが、「組織中心主義」による経営理念をもって、生き残りを図ろうとしています。特にマンモス(巨大組織)化した企業ほど、数字操作による「千」から「万」単位の首切り(リストラ)を、いとも簡単に実行します。生き残る経営者(管理職)サイドも、大変な決断をせざるを得ないところでしょうが、実際に家族を背負った「一サラリーマン(家長)」にとって、この「リストラ」という経験は、文字通り「人格殺人」という、人間としての尊厳を破壊するなど、心に「深い傷」を与える仕打ちです。彼らの殆どはテクノ・クラート(技術職)と呼ばれ、自分の専門分野以外の仕事に間に合わないため、そのような彼らが肉体労働や他のサービス産業に、就職したり従事することは至難の業です。


 このような社会的経済的「大飢饉」に最中にあって、私たちキリスト者が彼らに対して、「イエス・キリストの愛」をもって、如何に接していくべきか?又今後私たちが、霊的に何を求めて行ったら、彼らに対して「世の光」となり得るのか?この点について聖霊様から、聖書の「御言葉」の奥義を教えて戴きましょう。


信仰には行動が伴う


ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。誰か厚意を示して下さる方の後ろで、落穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「私の娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後ろについて畑で落穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。・・・・・・・・ナオミは嫁ルツに答えた。「私の娘よ、素晴らしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、誰かから酷い目に遭わされることもないし。」ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落穂を拾った。
                                                                                                          【ルツ記2章1〜23節】


 この2章を読み進めて行きますと、神の「導き」と「恵み」が非常に奥深いものであり、ナオミとルツの歩んできた人生(計画)を超えた次元で、「神の御業」が推し進められていることが分ります。ナオミは自分の本意ではなく、残った嫁ルツの決断(訴え)から故郷に戻ることを選択した訳ですが、その時の心境は如何なるものであったでしょう!自分の生まれ故郷を捨てて「モアブの地」に移り住み、そして今回再び「出発点(ベツレヘム)」に戻らなければならないこと、これはとても勇気の要ることです。そして生まれ故郷における、ナオミの過去の全てを知るポジションに帰ることは、非常に「恐れ」を覚えることです。そして実際に立ち戻った途端、過去をほじくり暴き出すような、厄介な「問題」が起きた訳です。


 その時ルツは、ナオミにまとわり付く様々な「問題」を神の御手に委ね、「とりなし人」として祈り続けることで静観しました。この時のナオミは、「果して、これからどうなることかしら?・・・・私の親戚にでも頼りたいところだけど、恐らく無理でしょうね!」などと、彼女自身のプライドからも、人間を頼みとする言葉(お願い)を、言い出せないなど気をもんでいるところに、ルツは機転を利かして次のように言いました。
「お義母さん!私、畑にでも行ってきますわ!」
ルツの働き(行動)は、全て聖霊様の「働き(導き)」を象徴しています。そして、ルツの語ったこの言葉は、非常に単純な内容のものでした。それ故にナオミは、彼女の言葉にためらいつつ、「え!?この嫁は行く当てもないのに、いったい何処に行くのかしら?・・・・」などと内心思ったかも知れません。しかし、ルツはナオミの心配をよそに、
「とにかく行って参ります!このまま何かを期待して、只待っていても仕方ありませんからね!」などと、積極的な行動に移りました。


 余談になりますが私の妻は、ルツのような預言的行動や積極的な言葉をもって、私を霊的にたしなめる時があります。時々私が経済的な苦境に陥り、不信仰な言葉を呟きますと、大抵次のような言葉で言い返します!
「あなた!何言っているの?お金は神様が与えて下さるものよ!お金にしろ経済にしろ、全て天から賜るものよ!何もしないで呟くより、とにかく何でもいいから、やってみなさい(行ってみなさい)!」
恥ずかしい限りですが、妻のこの「信仰の言葉」に聖霊様が働かれて、私は少しずつ霊的に立ち直って行くことが度々あります。


 ルツの語った第一の言葉「畑に行ってみます。」は、私たちにとって「信仰の行動」が、何よりも問われるべき重要な課題であることを教えています。上(天)からの「信仰」が与えられ、又「信仰の油注ぎ」を十分に受け、しかも「信仰を働かせなさい!」などの預言が、必要に応じて与えられているにも関わらず、私たちが実際に「信仰の歩み(行動)」を、一歩ずつ前進させていないのであれば、決して神の側から、「信仰」を実現に至らしめる神の霊的エレルギーは、発せられることはあり得ません!私たちは、講壇から語られる「信仰のメッセージ」、又各種聖会(セミナー)で為される「油注ぎ」のミニストリーを受けることによって、「信仰のチャレンジ」を戴きます。そして、自分にとって大切と思える「信仰の原則」を、ノートに書き記します。


 しかし明日になったら、今まで(過去)の教えを頭の隅に置いたまま、「今日の教え」に関心が移るなどして忘れてしまっている、これではいけません!私たちは、父なる神を通して何らかの預言的促し(導き)や、霊的に重要な指針を与える「御言葉」が与えられたら、その「導き」を信じて行動する必要があります。しかし、例えば「あなたには、霊的に静まって神と交わる時が用意されています。だから、もっと神と親しく交わりなさい!」などの預言的促しを聞いた場合、「あ、そうですか!じゃー静まって眠ります!」などの、「誤った行動」に走ることを命じている訳ではありません!


 「交わりなさい!」と神が命じている以上、「静まる時」が備えられることを①信じて待ち続け、②「その時」に交わるだけでよいのです。仮に私たちの側から、「あなたは、交わりなさい!と言われていますが、現実の私を見て下さい!私には、あなたと交わる時が全く無いほど、様々なことに追われて忙しいのです。どうしてくれるんですか?奇跡でも起きない限り、この多忙が収まることなんてあり得ません!」などと呟く限り、私たちは不信仰に陥るなどして、信仰が霊的に眠り続けたままになるのではないでしょうか!むしろ、「備えられる時を、信じて待ちます!」などの、前向きな「信仰の祈り」を宣言してみて下さい!必ずその祈りは、神に聞き届けられます。すると天上から、溢れるほどの祝福が「霊的エネルギー」となって発せられ、あなたの「信仰生活」から家事(行事)に至るまで、「神の国」の支配が満ち溢れるようになり、あなたは神との「親しい交わり」が、自分の「肉の努力」によらず、神の「信仰の法則」によって実現したことを体験して行くのです。


 しかし、あなたの「信仰の行動」を起こす前に、目前に迫り来る「現実の問題」を直視したり、他人が語る「否定的な言葉」に影響されたりしますと、「あー、折角今まで勝利できていたのに、もう駄目だ!明日はどうなるか分らない!仕方ないから委ねます!」などの「不信仰」から生じる思いが、その人の「霊」を支配して行きますと、決して「信仰の行動」から前進することもなく、むしろ後退していくばかりです。この「仕方ないから委ねます!」という言葉は、「私の全てをお委ねします!」などと、信仰を積極的に働かせるものではなく、否定的な「霊的怠惰(消極性)」から生じているものです。覚えて戴きたいことは、「霊的怠惰は、主との交わりを貪る罪」です。


 このように、最初は霊的に信仰に立って前進するのですが、途中で様々な障害物に出くわし、ぶつかった途端に倒れるなどして、遂には起き上ることもなく、「眠りこけて」しまう人々が大勢います。自分たちよりも強大な軍時国家「エジプト」を、神の奇跡によって完全に打ち滅ぼすなどの、数々のシーン(しるしと業)を直接肉眼で見たにも関わらず、或いは様々な天上の恵み(マナと鶉)を受けることで、「荒野」を乗り切ることができたにも関わらず、イスラエルの民は「神の導き」通り、ストレートに前進できませんでした。彼らは「問題」に直面すると、すぐ「あー、過去(エジプト)は良かった!何故私たちが、こんな荒野を通過しなければならないのか!モーセよ、あなたの責任だ!どうにかしてくれ!」などと呟き、モーセの前進(信仰の行動)を阻もうとします。しかし、「その時」にも聖霊様は命じられます。「あなたの力で、前進するのではありません!私の力と助けによって、あなたを導くのは私です!とにかく、畑に行ってみなさい!」と。


聖霊の促しと助け
 聖霊の導きに従って、私たちが「信仰の歩み(行動)」を第一歩、第二歩、第三歩などと前進し始める時、聖霊様の「促し」と「助け」がスタートします。この「奥義」は、ボアズの言葉に見られます。「私の娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、私のところの女たちと一緒にここにいなさい。」(8節)ルツが、実際「信仰の行動」を働かせた時に初めて、ボアズを通して聖霊様が、「促し」と「助け」を与えられたのです。実際ボアズは、全くの赤の他人であるルツに対して、如何なる「促し」と「助け」を与えたのでしょうか?


 聖霊の「第一の促し」は、「よその畑に落穂を拾いに行くことはない。」ということです。ルツの行動には、実に不思議な点があります。それは、彼女が「信仰の父」アブラハムの如くに、「行く当てもなく」畑に行ってみたことです。そして辿り着いた「ある畑」が、たまたま(ルツは知る由もありませんでしたが)ナオミと、縁続きの者の「畑」でした。当時のベツレヘムだけでなく、今日の平和な日本において、どこの誰が「行く当てもなく」他人の土地(畑)に立ち入り、その収穫物(財産)を欲しがる者がいるでしょう!そのようなことをすれば「不法侵入罪」で訴えられたり、逮捕されるなどして「袋叩き」に遭うだけです。しかし、聖霊に導かれたルツは何の「恐れ」もなく、ボアズの畑(フイールド)に立ち入り、そこで「神の時(応え)」を待っていたのです。まさかこの畑(フィールド)が、自分の人生を再生する「預言的フィールド」になるとは露知らず、しかもこの畑のオーナーが、自分の間近に迫った(本人は期待していない)「真の花婿」になる、その張本人であることも分らなかったのです。


 ルツは、全くの他人であるこのボアズから、いきなり「よその畑に行くことはない。」などと言われたものですから、恐らくびっくりしたことでしょう。「お叱り」を受けて当然のところを、むしろ好意的にアドバイスを直々受け、しかも「食事」まで与えられるなどの接待を受けたからです。しかしルツは、ボアズの「言葉」を聞いた瞬間、非常に大いなる「慰め」を受けました。私たちが教えられるべき、この御言葉の「奥義」は、「父なる神の御前にのみ、あなたは座すだけでよい!」ということです。私たちには、父なる神との「親しい交わり」の「畑(フィールド)」以外に、「私の行事」という畑、「私のミニストリー」という畑、「私だけの好きな時間」という畑など、数多くの「人間的な畑」が横たわっているのではないでしょうか!


 しかし一番肝心要の「畑」は、「父なる神の御前」という霊的フィールドであり、私たちはこれ以外の畑を優先させ、求めても為してもならないことを教えています。聖霊様は厳しく命じられます。「あなたが、仮によその畑に行ったとしたら、主なる神との交わりは必ず消滅します!」と。これは、非常に重要な霊的勧告です。特に私たちは、様々な「問題」が押し寄せる時に、「あーこれも片付けなくては、あれもやっておかなくては・・・・。」などと、「よその畑」をさ迷い歩きながら、問題解決のために右往左往しがちです。しかしこのような時に、私たちが採るべき「信仰の行動」は、「父なる神の御前(ボアズの畑)」に座し、「問題」によって壊れかかった「祭壇」を、再び築き直すことです。そして私自身の全てを、生きた「生贄」として「祭壇」上に捧げ、父なる神との「親しい交わり(至聖所)」に入るよう、聖霊様は強く促して下さいます。


 聖霊の「第二の促し」は、「ここから離れてはならない!」ということです。前章で学びましたように、「ここ」とは「父なる神」及び「御子イエス・キリスト」、そして「聖霊様」との親しい交わりの場、つまり「シオン」のことです。仮に、私たちが様々な「問題(障害物)」にぶつかり、予想もしない「苦境(死の谷間)」を歩かざるを得ない時に、「よその畑」を求めて右往左往するなど、私たちが一番大事な霊的ボジション、つまり「シオン」から離れてしまうのであれば、「よその畑」に行って成功したとしても、最終的にはサタンによって、霊的な「袋叩き」を被るだけです。


 しかし、「主よ、あなたは私の灯を輝かし 神よ、あなたは私の闇を照らして下さる。」(詩篇18篇29節)の御言葉通り、たとえ私たちが「死の谷間」をさ迷い、先行き不安な「暗闇(この世)」を歩く時にも、主との「親しい交わり」を通して得られる「命の言葉」、聖霊から語りかけられるイエス・キリストの「愛の言葉」が、私たちが安心して前進できるよう、私の足を照らす「灯火」となって、霊的「案内(ガイダンス)」の働きをするのです。当時のイスラエル人は、真っ暗な「夜道」を歩く時は、ほんの数メートル先及び足元を照らす「灯火」を、「利き足」にくくり付けて歩いていたそうです。私たちは、「暗闇」が覆うほどの「問題」に直面した時、「あーこれでは、もう駄目になってしまう!」などと、がむしゃらに「少しの光」を頼りに、「よその畑」を求めて小走りしたくなります。しかし、仮に「暗闇」の中で走ってしまったら、断崖絶壁の谷間上にある「山道」では、「落ちて」しまうだけです。


 しかし、私たちに照らされている聖霊様の「導き(促しと助け)」は、一歩ずつしか前進できない「灯火」であっても、確実に正しい「安全な道」へと導くものです。ですから、私たちの足元(信仰の歩み)に与えられている、灯火の「油」を絶やすことなく、私たちは賢い五人の乙女のように、神との「親しい交わり」の畑から離れることなく、留まり続けることが重要です。ところが愚かな五人の乙女は、「油が、そろそろなくなるって?どうにかなるわよ!どうせいつ帰ってくるか、分からない方だからね、ご主人様は・・・・。」などの、怠惰な「貪りの罪」に陥ったため、結局はいつしか「油」が底を付き、神(ご主人)との「交わり」をする一番大事な時の、「油」が用意できなかったのです。


 神の「御顔」を照らす、灯火の「油」が尽きた時、それはその人の「霊的な死」、つまり神との「決別の時」を意味します。だからこそ、私たちは「油注ぎ」を求める際、聖霊様の第二の促し「ここから離れてはならない!」の言葉を受け留め、素直にへり下って従うべきです。そして「主よ、私は先行きが分からなく、とても不安です!しかしあなたの灯火は、確実に私の足元を照らして下さり、私をあなたの、正しい道へと導いて下さい!あなたから決して離れることがないよう、正しい道を歩ませて下さい!」などと、聖霊の「助け」を求める祈りを発して下さい!


 最後にボアズは、「一緒にここにいなさい。」とルツに語りかけました。これは非常に奥の深い、「真の愛」に満ちた、聖霊様の「慰めの言葉」です。聖霊様は常に「私は、あなたの同伴者(パートナー)です。だからあなたも、私と一緒に居なさい!私から離れたら、あなたは何もできません!あなたの肉的な力で、肉の業を完成しようとしても、それは成功しません!私と共に居ることが、あなたの本当の幸せの秘訣です。」などと、「人生の伴侶」の如くに語りかけます。ですから私たちは、聖霊様という「最高の同伴者」と、常に親しいパートナーシップにあずかり、聖霊様から言われる「三つの導き(促しと助け)」に対して、ルツのように素直に聞き従って参りましょう。


主の御翼の陰に宿る
どうか、主があなたの行いに豊かに報いて下さるように。イスラエルの神、主がその御翼の元に逃れて来たあなたに十分に報いて下さるように。」(12節)
 全くの赤の他人であるボアズが、初めて会った若きやもめルツに対して、これほど優しい「言葉」をもって語りかけること自体、実に驚くべき「重要な奥義」を物語っています。ボアズは、花婿イエス・キリストの「雛型」でありますが、御子イエス・キリストの父、つまり主なる神の「愛の心」をも象徴しています。「父の愛」を現す方は、イエス・キリストご自身だけです。ですから、ボアズの語る一つ一つの言葉は、父なる神の「愛の御心」の表現でもあります。


 父なる神は、私たちが今まで歩んできたそれ以前から、又これから歩む道の「全て」をご存知です。私たちは、信仰面での「霊的苦しみ」から、実際生活上の「経済的困窮」に至るまで、私たちの前進を阻む様々の「問題」が起きる時、イエス・キリストの「御翼」の元に逃れ、次のような体験をします。それは、聖霊様の「言い難きうめき(とりなし)」を通して語られる、父なる神の「愛のメッセージ」です。「私の恵みは、あなたに十分与えているではないか!その恵みを常に覚え、数えてみなさい!そして一つ一つの恵みを、再びあなたの霊に刻みなさい!」と。


 私たちが、この聖霊の「促し」に聞き従い、主の「恵み(カリス)」を常に「霊」の中に刻み始める時、主が「平安」と「安息」という「霊的憩い」の地に、再び私たちを導いて下さるなどの、「全能者の存在」に気付き始めます。そして今まで、様々の「苦しみ」から贖い出されることを求める、「叫びの涙」が出ていたのに、「その時」は余りにも、「主の恵み」が私たちの「霊」を覆い付くし、父なる神の「全き平安(御翼)」の中に抱かれ、「真の喜び」を味わい「知る」ことで、「感激の涙」が絶え間なく流れ出るのです。


いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ。『私の避け所、砦 私の神、依り頼む方』と。」【詩篇91篇1〜2節】
ルツが刈り入れをする農夫たちの側に腰を下ろすと、ボアズは炒り麦を掴んで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。」(14節)
 私たちが如何なる状況に追い込まれたとしても、一つだけ確実な「導き(保障)」があります。それは私たちが、「苦難」に追い込まれれば追い込まれるほど、「主の御名」を慕って止まなくなり、主を「知る」ことを切に追い求め始めます。サタンは、私たちの信仰が前進することを阻み、そして後退させるべくヨブに課したように、様々な「問題(苦難)」を運んで来ます。しかし「苦しみ」に遭えば遭う程、「その時」私たちは只一つの「導き」である、主の「御翼の陰」に逃れようではありませんか!そうすれば、ボアズがルツに語った「言葉」のように、「あなたは、どんな苦しみにあってもここから離れず、ずっと聖霊様に付き従うなど、信仰の行動を働かせましたね!今まで、あなたがどれ程の苦しみの中にあったか、私はその全て知っています。私は、あなたの信仰を絶えず見守っています。あなたは只一つの導きに従って、私の翼の陰に逃れて帰って来ましたから、私の祝福をもってあなたに、豊かに報いましょう!」という、主なる神の祝福の「御声」を必ず聞くようになります。


 将来に対する「夢」と「幻」、そして「希望」というものは、「主イエス・キリストの恵み」に、「信仰の基礎」を置くべきです!それ以外の「よその畑」に、例えば「繁栄の神学」などの、この世の「惑わし」に基礎を置くのであれば、それは「肉的野心」を増大させ、結果的には「失望」と「絶望」などの、霊的に「死んだ(枯れた)落穂」だけしか残っていません。私たちが切に追い求め(慕い求め)、霊的な「逃れの場」として行き着くところは、常にイエス・キリストの「御翼の陰」のみです。常にイエス・キリストに「住み」、イエス・キリストの「御翼の陰」に宿るのでなければ、「真の安息(平安)」と将来に対する「希望」と「喜び」、そして「愛」に満ち溢れた「御国の報酬」に、至る(あずかる)ことは決してあり得ません!


シオンのパン(糧)



わたしは、天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすための わたしの肉のことである。
                                                                                                       【ヨハネ福音書6章51節】


 シオンに与えられる「パン(糧)」とは、如何なるものでしょうか?勿論このパンは、カラスを通してエリヤに運ばれた実際上の「パン」、例えば私たちが経済的な苦境にあっても、衣食住に事欠くこと無く、神からの奇跡的な方法を通して、実際生活に現れて来る「祝福」のことも指していますが、一番肝心要の「シオンのパン」、つまり霊的に尽きること無く流れ出る、永遠の「命の水」の源イエス・キリストご自身を、霊的に「食す」ことを指しています。


 この「パン」は、「シオンの山」に行けば必ず、無尽蔵に満ち溢れているものであり、それ故にこの「シオンのパン」を、私たちは最優先的に「食す」べきであると、聖霊様は促しておられます。ルツはボアズの「畑(シオン)」に行って、毎日このパン(落穂)を拾って食べ続けました。この彼女の、へり下った「飢え渇き」を見てボアズは、彼女を厚意的にもてなした結果、ルツは更に「落穂」を無制限に拾い集め、そして「食する」という「破格の特権」を得たのです。ボアズは彼女の行為に関して、特別にしもべたちに命じて、収穫の後故意に「落穂」を多く残すよう、必ず指示していたからです。「わたし(イエス・キリスト)」を慕い求める者、「わたしの名」を知ることを求める者には、それを拾い集めても集め切れないほど、聖霊様が故意に「霊的なパン」を、必ず用意(落と)して下さいます。


 あなたはイエス・キリストという、「シオンのパン」を霊的に食せば食すほど、お腹がすいて(ハングリー)仕方が無いと思えるほどの、「霊的飢え渇き」を抱いたことがありますか?つまり、「イエス・キリスト」を慕い求めれば求めるほど、益々「もっとあなたを!もっとあなたに・・・・。」などと、尽きること無く激しい「飢え渇き」が、起きる経験のことです。ですから父なる神は、「イエス・キリストのみを食しなさい!尽きることのない命のパンを食す時に、あなたは全てのことに満ち足り、むしろ余りあるほどの天の恵みに、必ずあずかるでしょう!」などと、常にメッゼージを投げかけて下さいます。


 私たちは、「命のパン」イエス・キリストだけを、ルツのように益々ハングリーになって、シオンにて拾い続けましょう!聖霊様は、拾い集めた「命のパン」だけを食すという、あなたの「信仰の行動」に対して、「最高の料理長」として腕前を披露し、必ずあなたに「霊的な糧(ご馳走)」を差し出すでしょう。つまり聖霊様は、「命のパン」イエス・キリストが、如何に「この世」のものと違い見目麗しく、そして素晴らしい「美」に富んだ方であるか、又この方を霊的に知れば知るほど、霊的な祝福が尽きること無く「命の水」として流れ、自分の「霊」から「五体」に至るまで、覆い尽くすようになることを、体験させて下さるのです。


 さてあなたは、今日(今朝)何処の畑に行き、「何」を食べますか?世的な「多忙」を食べますか?「呟き」を食べますか?「否定的な信仰」を食べますか?「肉的な繁栄」を食べますか?主なる神が用意して下さる「畑(シオン)」には、「よその畑」には決して存在しない、最高の「命のパン(落穂)」が溢れるほど落ちています。


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