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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.9)

             世に抗(あらが)う感謝の献げ物



主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。・・・・しかし、ノアは主の好意を得た。・・・・その世代の中でノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。・・・・この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
                                                                                                            【創世記6章5~12節】


しかしノアは・・・・
 今回の時代背景、それは「悪しき勢力」が、地に満ちた中にありながらも、堕落した人々の中において、ノアとその家族だけが、純粋に神の道に従う、そんな最悪の時代です。


 私たちが、今回の記事から学ぶべき第一のポイントは、神の秩序を無視し続ける、悪しき者たちの生き様を見て、主なる神が如何なる「思い」を抱かれたのか?それを先ず知る必要があるという点です。


 具体的な神の「思い」に関して、著者は「filled with regret」(7節)と表現しています。この言葉は「sorry(残念に思う)」を超える程の感情で、極度の「後悔」の念や、「悔恨(悲嘆+落胆)」を意味します。つまり神にとって、悪しき被造物を見るだけで、「造ったことを非常に悔いて悲しむ!」思いです。これは自分が創造した業を、決して否定している訳ではないのですが、「もう駄目だ!」と落胆する様に近い感情です。


 ここで疑問点が浮かび上がります。「主なる神は何故、(全てをご存知の上で)わざわざ悪しき者を、地に創造したのか?」この疑問に答え得るキーワード、それは「贖い」です。この時も、主なる神は知っていました。地に住む全ての者が、「悪しき者」に見えても、ノアだけが違っている(そうは見えない)!ことを。


 第二のポイント、それは「しかし・・・・」(8節)と記されているように、ノアだけが主なる神の「好意」を得たことです。つまり「regret」しているにも関わらず、神はノアを見続けることで、「未だ希望がある!」という確信に至っている訳です。



ノアの従順なる姿勢
 さて主なる神は、ノアの「何」をご覧になって、ご自身の「御心」に適う者として、非常に喜ばれたのでしょうか?聖書には、具体的な記述が全くありませんが、恐らくノアとその家族だけが、「この世」の悪しき習わしに、決して染まる(妥協する、取り入れる)ことなく、神の道に恥じない生き方を、断固として貫いたのではないでしょうか!


 ノアたちは、先祖から伝授されていた、神との関わり方を第一に尊重し、何にましても主なる神の「御心」のみに、常に拝する(従順する)姿勢を、「世」から隔絶することで示しました。おびただしい悪の勢力の中にあって、ある時は殺されるのでは?と思うことが多々あった訳ですが、その中においても「神の守りが、常に我らと共にある。我らは、神の贖われた民として、一つのことだけを主に願い求めよう。決して彼らに妥協しないよう、我らに聖なる油を注いで下さい!」と、励まし合って生きていたのです。


 当然彼らには、「世」からの称賛、報いはありません。圧倒的な数の勢力の中で、彼らは孤立しました。しかしノアは頑固一徹に、家族に向けて常に宣言しました。「一番は神の御心だぞ!これを省いて、二番目、三番目としたら、我らは必ずおしまいだ。我らが子羊を祭壇上に捧げる限り、神は我らと共にある!我らの只中に住まわれる。」と。


世に抗う真の礼拝者として
 結論になりますが、実は主なる神は、ノアの「ある特徴」を見て、一番に喜ばれました。先ず彼は、世の人々と違った生き方を貫きました。つまり優先順位に特徴があります。世の人々は、「この世」の常識を、第一の基準とします。


 例えば「クリスチャン」という呼称は、今でこそ一般的な言い方ですが、ローマ帝国期においては、キリスト狂いの奴隷たちを意味する差別用語、また日本においては今でも「ヤソ(イエス気違い)!」と陰口を叩かれる等、ノアはその始まりとも言えます。パウロの場合は、むしろそれを誇りとします。「我らは、この世の者とは違う。キリスト狂いで良いではないか!」と。


 そうです!ノアを始めとする真のキリスト者は、優先順位が明らかに違います。この世の人々は、私たちの「信仰」姿勢を見て、恐らく「気違い(阿呆)」と見なすことでしょう。何故なら彼らは、世の流れに妥協する(波風を立てない)ことが一番!と、常に土着の宗教的慣習や、村の掟などを重んじるからです。


 しかし私たちキリスト者は、イエス・キリストを信じる「信仰」によって、自分が確固たる土台の上に生きている!と、公に宣言できる程の「強さ」が与えられています。ですから妥協する必要も無く、「この世」を恐れるのではなく、真の創造主「神」ご自身を畏れるのです。


 ノアの生き方の特徴は、第一に①神の「御心」に純粋に従う!こと、これが当たり前の生き方でした。第二に②自分の人生の全ての時に渡って、神が「良し!」とされることを全うしたことです。第三に③神との親しき交わりを、彼は常に飢え渇き求めたことです。即ち主なる神が、あたかもそこに居るかの如くに、いつも神と対話を為し、いつも神に相談し、いつも神からの助言を戴きながら、神と共に歩んだのです。


 話は変わりますが、実は私たち日本人キリスト者には、戦国時代において、決して「世」に妥協することこと無く、むしろ「世(時の権力)」に抗ってでも、全能なる主君イエス・キリストにのみ、真実の忠誠心を捧げた、キリシタンたちと同様の、贖いの血潮が脈々と流れているのです。


 私たち日本人キリスト者は、一見したらノアの家族と同様の、少数の群れに過ぎません。しかし「世」に抗いつつ、主日礼拝において忠実に「感謝」を捧げるあなたは、確実に「箱舟(神の救い)」に乗船しているのです!そしてキリストの「信仰」を戴く私たちには、「世」の大波に呑まれることの無い、確固たる巌(イエス・キリスト)の上に、立ち続ける勇者なのです。


 そうです!あなたの「生き様(立ち位置)」こそが、「この世」を震え上がらせる程の、強い旗印(イエス・キリストにある勝利)となるのです!「世」に縛られていた人々が、いずれ目覚めの時を迎え、あなたと共にイエス・キリストの御元に馳せ参じるのです。


 ですから、私たちは常にノアの如くに、「世」に抗ってでも、真の神にのみに仕え、「感謝」の生贄を捧げて参りましょう!これから来るであろう、大艱難の時にあっても、あなたがイエス・キリストの勇敢なる兵士として、「世」を支配する悪しき勢力と戦い、常に「勝ち鬨の声(賛美)」を上げることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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