バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.1)

                       決して離れません!



主はシオンを選び、そこに住むことを定められました。
                                                                                                            【詩篇132篇13節】


シオンは何処にあるのか?
 父なる神が「人」を創造された目的は、聖霊を通して為される「親しい交わり」を、「人」との間に永遠に保ち続ける、この一点にあります。この時父なる神は、「人」を創造する上で特別に、ある「イメージ」をもって為されました。その特別の「イメージ」とは、ご自分の側から「人」を愛することにおいて、強い「愛の意志」を示すばかりでなく、この被造物の側からも、「愛されたい!」という飢え渇きをもって、「人」との間に「親しい交わり」の場を設け、更に「交わりの時」を用意する「イメージ(姿)」です。これはあたかも、恋人どうしが愛を確認するために、互いに抱擁しつつ語り合ったり、慰め合う(触れ合う)時の仕草(姿)に似通っています。


 ですから、父なる神の「御心」は、「創造した者(父)」と「創造された者(人)」が、共に同じポジションに立ち、「霊」と「霊」が触れ合い、顔は勿論のこと、体全体をもって「互いに向き合う」、つまり「一体化」された関係に現されます。「愛の言葉(求め)」を互いに語り合い、愛する者の「求め」に自ら応える形で、自分の側から「愛」を注ぎ満たす、又「自分の渇き」も、愛する者から満たされるという、自然な「愛の交換(流れ)」が、神の「イメージ」の中において、豊かに現されているのです。この父なる神の、「愛の御心」を現した地上の「フォーム(姿)」が、「エデンの園」であり、これが本来の「人」に託された「霊の故郷(発祥地)」、つまり「霊的シオン」の姿です。


 そういう意味で、最初の「人」アダム(エバ)は、父なる神から一番多く、「愛の油」を注がれた「貴い器」として創造されました。ご存知のように、「人」はその後罪を犯して、「神」から離れて行くのですが、人の「霊」は再び、子羊(イエス・キリスト)の「贖い」により、「霊の故郷」シオンを慕い求めるよう、聖霊様に導かれて行くのです。私たちの「霊」は本来、神の「命の息(聖霊)」を与えられて初めて、「生きる」ようになったことから、「霊」そのものは「創造主」を求めて止みません。


 この「シオン」を求める霊的飢え渇きは、例えばアブラハムが聖霊の導きに従って、「肉の故郷」ウルを立ち去る時に見られます。彼は「シオン(カナン)」を求めて出発する際、神の示す「シオン」が何処に存在するのか、全く知らなかったにも関わらず、そこに辿り着けば必ず、彼の人生において今まで体験したことのない、麗しい神の祝福に満ちた、「安住の地」が用意されていることを、聖霊の「啓示」の中で確信していたのです。


 ところで、この霊的な「安住(憩い)の地」は、先ず「エデンの園」に用意され、いったん地上から切り離されるのですが、次にアブラハムが召し出された、「カナン」の地に引き継がれます。その後エジプトから脱出し、荒野を流浪し続けたイスラエルの民に、父なる神がご自身を現された「モーセの幕屋」に続き、その後はイスラエル王国の首都、エルサレムに確立された神の宮「ダビデの幕屋」へと、その「フォーム」が変遷します。そして、この「ダビデの幕屋」が建立された「丘」を、イスラエルの民は「シオン」と呼んでいます。


 しかしご存知のように、ダビデ王の死後即位した、ソロモン王に続く代々の王たちは、この聖なる「宮(フォーム)」の中に、異国の偶像崇拝を持ち込むようになり、遂に「バビロン補囚」の時に至って、この聖なる「シオンの丘」は、敵の手により粉々に破壊されました。その結果イスラエルの民は、この時から「シオン」を失い、世界中を放浪することになります。そして彼らは、散り散りになった異国の地から、「いったい何処に行けば、シオンの丘は存在するのだろうか?」などと、「シオン」を慕って再び、祈り求めるようになります。


 しかしイエス・キリストが、預言の成就として「ナザレ」にお産まれになった時から、父なる神の意図する新しい「シオン」、つまり神の国の「ご計画」がスタートしました。イエス・キリストが、この世に遣わされた「最大の目的(ご計画)」は、アダムとエバの罪故に、霊的に離れ離れになった私たち「人」が、「神」との正しい関係にあずかるべく、ご自身を「贖いの子羊」として、十字架上に捧げられ、再び私たちが「神」と、「顔」と「顔」を向かい合う(face to face fellowship)ことのできる、本来の「一体関係」に戻すために、イエス・キリストは「人の子」として来られたのです。


 イエス・キリストは例えば、ユダヤ人が民族的に差別扱いしていた、「サマリヤ」の地を訪れました。彼がその地を訪れた目的は、ある名も無き卑しい身分の婦人と、直接「顔」と「顔」を向かい合わせ、親しく交わるためでした。実際に彼女と対面し語り合う中で始められた、イエス・キリストのミニストリーの中に、実は「シオンの回復」の働きの一端が見受けられます。彼女は世間的に見れば、同族から差別(冷遇)される境遇にありましたが、彼女の霊の只中には、「シオンの山(丘)」を求めて止まない、激しい霊的飢え渇きがありました。


 彼女は、「ヤコブの井戸」の傍らで休息されている、この不思議な「先生(教師)」と会話する中で、自分が霊的に求め続けて来た、「シオン」について質問しました。
「真(まこと)に礼拝すべき、私のシオンの山は、いったい何処にあるのですか?」
と。するとイエス・キリストは、彼女の求めに対して、明確に預言的な言葉を示されました。
「間もなくすると、その時が来ます!その時が来れば、あなたの霊の只中から、シオンの回復は始まります。あなたは霊と真をもって、礼拝する時が必ず来ます!霊と真による礼拝の場(シオンの山)は、まさに今、あなたの霊の只中から、始まりつつあります。そのことを信じなさい!そうすれば必ず霊の只中から、永遠の命に至る生ける水が豊かに、絶え間なく流れ出ることでしょう!」


 「シオンの山」は、イエス・キリストを信じる、全ての者に与えられるものであり、この「シオンの山」だけが、聖霊を通して流れ出る、唯一真の「命の水」を供給する「聖なる山」です。私たちがこの「命の水」を飲む時に、私たちの霊の只中にも、霊の都「シオン」が確立され、聖霊はこの「シオン」から、豊かな「命の水」を溢れ出させようと、「ご計画」を進めておられます。そうです!スカルの名も無き、一女性に始まった「シオン」の霊的回復は、霊的に飢え渇くキリスト者全ての、霊の只中に既に始まっているのです。


 ところで私たち日本人にとって、この「シオンの丘」という言葉は、抽象的なイメージしか思い浮かばない、非常に分かりにくい概念ですが、聖霊様は尚も私たちの「霊の耳」に、単純な語りかけで囁かれます。「あなたが霊的に飢え渇き続ける限り、父のご計画通りにシオンの丘は、必ず修復され確立されます!」と。私たちがこの言葉を信じ、更に求め始めた時から、私たちの霊の只中に、「シオンの丘」が確立されていくのですが、その過程において必ず、次のことを経験します。私たちの「霊のフィールド」に、「シオン」が 神の「ご計画」通り、いち早く確立されて行けばよいのですが、はっきり申し上げて、「すぐ簡単に」建て上げられるものではありません。何故なら、私たちの「霊のフィールド」は、アダムとエバの罪の結果、イメージ的に見て、色々な障害物(廃棄物)が混在する、言わば「荒れ地」の状態にあるからです。


 しかし、そのような「荒れ地」であっても、アブラハムが「井戸」を掘り進めたように、聖霊様は私たちに命じます。「日々あなたの霊の井戸を、奥深く掘り進めて行きなさい!たとえ途中で、様々な霊的障害物が出て来ても、掘り進めることによって必ず、命の水の水源にぶつかります。そうすれば霊の只中から、生ける水が勢いよく、そして絶え間なく、溢れ流れ出るでしょう!」と。そうです!聖霊様が流して下さる「命の水」が、私たちの「荒れ地」から湧き上がり、そして溢れ流れ始めた時から、「シオン」の霊的回復が、神の「ご計画」通りに、聖霊様を通して推し進められていくのです。


「ルツ記」の奥義


士師が世を治めていた頃、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、・・・・彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、二人の息子も死に、ナオミは夫二人の息子に先立たれ、一人残された。ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを、彼女はモアブの野で聞いたのである。ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁も付いて行った。・・・・
                                                                                                         【ルツ記1章1〜17節】


 「ルツ記」のストーリーは、一人の若きやもめ「ルツ」が、幾多の困難(不幸)に負けることなく、「自分の幸福」、つまり生涯のパートナー(ボアズ)との結婚を、あたかも「自分の努力(忍耐)」で勝ち取っていく、例えば単純な「恋愛映画」に見られる、ハッピー・エンド形式の、「ノンフィクション」として、記述されたものではありません。このストーリーに出て来る、一つ一つの出来事の中には、聖霊様が始めようとしておられる、霊的に飢え渇くキリスト者に対する、神の遠大な「ご計画」のあらましが、実に霊的な面で分り易く記述されています。余談になりますが、このストーリーは霊的に見て、映画のような「タイトル(題名)」を付けるとすれば、『真の花婿を求めて(副題・あなたにも訪れる純愛の時)』となるでしょう。


 1章を読み進められると分りますが、ルツは若くして愛する「夫」と死別する、一人の「やもめ」です。そして義母ナオミと義姉オルパも、同様の体験(夫との死別)をするなど、一見「不幸なナオミ一家の物語」が、更に展開していくと錯覚する、そんなストーリーです。しかし、後に続く章を読み進めて行きますと、このストーリーの主役であるルツは、ナオミの信じる唯一「真の神」を信じた結果、「真の花婿」ボアズと、異郷の地で出会うことになります。そして、最終的に彼と結ばれることで、今まで求めてきたものが、全ての面で回復され、更なる祝福を受け取ります。このように「ルツ」とは、「真の花婿」を追い求める者、つまり「花嫁の雛型」として、霊的に認識して戴ければ、このストーリーの持つ「奥義」が、より分り易くなります。ルツの「人生」には、激しい「情熱の愛」をもって、「真の花婿」を追い求める姿勢(信仰)が、著しく現れています。


 では、「ナオミ」の人生の場合、霊的に如何なる姿勢が見られるでしょうか?実は1章に記述されている、ナオミの霊的特質を見る限り、彼女が聖霊様の取り扱いに素直に聞き従う、霊的に「柔軟な器」であることが分ります。しかしそれと同時に、ある時は人間的な面で、二人の嫁を憐れみ同情する余りに、
「私のような老母に、付いて来なくて宜しい!私の年では、もう息子を産むことができないし・・・・。それよりあなた方は、未だ年若く美しいのですから、自分の里に帰るなりして、若くて元気(健康)な男性と再婚しなさい!そうすればきっと、今よりも幸せになり、祝福を受けますよ。だから自由にしなさい!」
などと語る、肉なる「同情心」を持ち合わせた、人間的に「弱い器」の姿も記述されています。


 結論から述べますと、ナオミの「人生」の霊的に意味することは、「神の取扱いに対して、私たちキリストの花嫁が、どのように信仰を働かせ、神の導きを正しく選択するか?」ということです。私たちの「人生」には、必ず父なる神の「取扱い」の時が、一人一人に対して用意されます。私たちが聖霊を通して、霊的な取扱いを受ける「その時」、あなたは次の「二つの道」の、どちらを選択しますか?「神の御声」のみに聞き従ったルツのように、神の「正しき道」を選択しますか?それとも、義母ナオミの同情的な言葉に聞き従ったオルパのように、「そうですね、お義母さん!確かにおっしゃる通りです。私も自分の人生を、やり直すことにします。今まで有難うございました。では、お暇(いとま)させて戴きます!」と告白し、霊的な祝福の「源(イエス・キリスト)」から立ち去り、「神の取扱い」を「自己中心の目的」から判断し、自分なりの解釈を施したりするなどして、神の正しい軌道から外れた、「自分の道」を選択しますか?


 しかし、聖霊様が私たちに強く働きかけられ、霊的に望んでおられることは、私たちが「シオンを選び、そこに住むこと」です。私たちが、霊的に正しく選択すべき道は只一つ、「シオンに住む」ことです。アダムとエバの罪の結果、確かに私たちは二つの内からどちらか(善と悪)を、自由に選択できるようになりました。さて、オルパとルツのように、「二つの道」が霊的に用意される時、あなたはどちらを選択しますか?主の御心は、私たちが「シオン」に至る「神の道」を選択し、この「シオンの山」に住むことを願っています。この「主の御心」を完成させるべく、聖霊様が私たちの人生に対して、様々な「霊的取扱い」を与えて下さることを、常に覚えて下さい!


 ナオミに見られる、「人生の歩み(行動)」、そして語る「言葉」は、父なる神の霊的な「取扱い (テスト)」を指しています。私たち「人」は、ある時は聖霊の「御声」に、聞き従っているつもりですが、逆に人間的弱さから、内なる「心(感情、魂)の声」に聞き従う可能性が、実は多くあるのです。「ルツ記」に見られる、ナオミとルツの行動や言葉には、その時に応じて「聖霊の御声」か、それとも内なる「魂の声」の、どちらを選択しているかが、明確に区別されて現れています。


神の「取扱い(テスト)」
 6節に記述されているように、夫に先立たれたナオミの「人生」は、ルツという「新しい嫁」を迎えたことで、最初の十年間が「幸福な一時」でした。何ら不幸が訪れることはなく、二世代に渡って祝福され、本当に「家族愛」に満ち溢れた一家でした。しかし、この新しい家族の「幸福」は、僅か十年しか続かず、二人の息子の突然の死と、モアブの地に降りかかった大飢饉により、ものの見事に破綻します。度重なる不幸に見舞われたナオミは、精神的にも肉体的にも、全ての面で取扱われました。しかし彼女は、「このまま、この地に留まっていたら、(私ばかりか)嫁たちも、干からびてしまう!」と危機感を抱き、遂に祈り叫び始めました。


 暫くの間ひたすら祈り求めながら、その地で過ごしていますと、「ある情報(便り)」を耳にしました。その内容は、次のようなものでした。・・・・この大飢饉は、確かに至る所で猛威を振るっているが、自分の故郷において、とりわけ親族の居る地域では、神の憐れみにより、食べることにおいて事欠くことが無いよう、神が祝福の恵みを注いで下さっているらしい・・・・。彼女は思わず、「こ、これだわ!私の求めていたことは・・・・。」と確信するや否や、干からびかかった彼女の「霊のフィールド」に、「主を求める者には必ず、主が憐れみの手を差し伸べて下さり、きっと祝福して下さる!」という信仰が、再び与えられました。そして彼女は、神がお示しになられた、「聖霊の声」に聞き従うことを、何の迷いもなく選択したのです。「神の道に従っていく限り、決して乏しいことがなく、むしろ私たちが満ち足りる程の豊かな恵みを、主は注いで下さる。私はこれに従いましょう!このまま(この地に)留まっていたら、干からびて死に絶えるだけ。とても我慢できないわ!さー私自身は、神が用意して下さっている、新しい道を目指して出発しましょう!」と、信仰の行動に移ります。


 さて義母ナオミの、突然の変わり様を見て、又彼女の「決断の表明」を聞いた二人の嫁は、それぞれどのような選択をしたのでしょうか?しかしこの時、ナオミは二人の嫁たちに対して、肉なる母の情(魂の声)から語りました。ナオミは決して、「さー私は、主の導きのみを頼みとして、今からここを離れます。主が用意して下さる、新しい道を歩むことにします。あなた方も主の御声に聞き従って、私と一緒に出かけましょう!」などと、信仰的なアドバイスを伴う、「聖霊の声」を語った(伝えた)訳ではありません。彼女が実際語った言葉は、「自分の里に返りなさい。あなたたちは死んだ息子にも私にも良く尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れて下さいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」(8〜9節)という、ナオミ自身の内側から来る、「魂の声」でした。実はこの言葉が、ルツとオルパに対する「神の取扱い」、つまり霊的なテストになるのです。


 先ずオルパは、別れを惜しんで涙ながらに、
「そうですね。お義母さんのお言葉に、私も同情します。今まで私のことを、実の娘のように可愛がって下さり、とても感謝しています。今のお言葉も、お義母さんの愛の戒めとして受け取ります。お義母さんのおっしゃる通り、故郷に帰らせて戴きます。そして故郷で、再び自分の幸せを掴んで行きます。今までお世話になりました。」
と言って、その地から立ち去りました。ところが後一人の嫁ルツの場合は、ナオミの予想していたものとは、全く懸け離れた告白をします。ルツは、
私はあなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民は私の民。あなたの神は私の神。あなたの亡くなる所で私も死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰して下さい。」(16〜17節)
と激しく泣き叫びつつ、逆にナオミに訴え出たのです!このルツの表明は、「置いて行かないで下さい!私はお義母さんの中に、本当の信仰があり、真の神が住んでおられることを、以前より見出しています!だから私は決して、あなたの元を離れません!たとえ死んでも離れません!」という、痛切な「霊的飢え渇き」から来ています。余りに激しく訴える、ルツの決断の表明(直談判)が、「涙の懇願」であった故、ナオミはルツの「同行の決意が固いのを見て、ルツを説き伏せることを止め」(18節)ました。


 さて聖霊様は、あなたの人生にも必ず、神の「取扱い(霊的テスト)」の時を用意されます。その時、あなたはオルパのように、内なる「魂の声」に聞き従うのか、それともルツのように、「聖霊の声」に聞き従って、「神の道」を求めていくのか、そのどちらかが問われます。オルパは霊的に見て、「肉の道」を選択しました。たとえナオミの声(言葉)が、「良きアドバイス」であっても、それを内なる「魂の声」として受け留めるのであれば、これは聖霊の導きに反する、「肉の道」を選択することになります。私たちの「信仰の歩み」において、時々次のような「声」が、囁いて来ませんか?「そうだ。確かに今の私(の現実)は、惨めで哀れである。こんな人生ではなかったはずだ!神の御言葉に従っているのに、未だ私は用いられていない・・・・。」などと。しかし忘れてならないことは、聖霊様は私たちの人生に必ず、あえて様々な出来事を起こすことで、霊的テストを与えることです。


 私たちの人生に、「霊的飢え渇き」が起こり始めた時、神と私の霊的「ライフ・ライン」が、何の妨げも無くストレートに、私たちに用意されるのであれば、アダムとエバが罪を犯す以前に与えられていた、神との「親しい交わり」を持つことができ、全ての面で祝福に満ちた人生を、過ごすことでしょうが、現実の私たちは、「霊の井戸」を掘り進めれば進むほど、必ず妨げの岩(石)や汚いヘドロ(汚物)などの、「障害物」が出て来ます。そうです!聖霊の用意される「命の水」は、最初から簡単に(苦労することなく)、湧き出る訳ではありません!


 私たちがこの「命の水」を、激しく求めて渇けば渇く程、私たちの内側にある「肉の問題」が取扱われます。そして、このような「霊的汚物」を、完全に取り除くために、聖霊様は私たちの人生に必ず、様々な「テスト(試練)」を課すことで、私たちの「霊的汚物」全てを、「攪拌(かくはん)」されるのです。一般的な下水処理施設には、汚物(汚泥)を取り除くための、巨大な貯水槽(タンク)が多く備えられてあり、その一つ一つの中には必ず、洗濯機のような「攪拌装置」を取り付けています。水槽の中に溜まった「汚泥」を攪拌することで、全ての「汚物」を渦の中心に集め、それを一括して「ろ過」することで、「汚物」を除去します。この作業を繰り返すことで、最初流入して来た「汚水」より、幾分浄化された「下水」を、流出することが可能になります。


 このように、私たちの人生に起こって来る、様々な「テスト(答案用紙)」が提示された時、ナオミがオルパに語ったように、「あなたのテストは、もうこれで終了したんだから、次からあなたの力で、やって行きなさい!今のあなたは、十分に水を汲み上げるようになりました。もう井戸を掘る作業は終了です!これからはあなたの水を、人々に施しなさい!」などの内なる「魂の声」を、あなたは選択しますか?オルパは、「魂の声」を選択しました。私たちが内なる「魂の声」に従う時、それは結果的に「肉の道」だけを歩む、愚かな人生を選択することになります。


 それに対しルツは、「聖霊の声」だけを求め、素直に聞き従いました。彼女は常に、「真の花婿(イエス・キリスト)」を追い求め、その御姿(ご自身)を捉えるまでは、決して離れない!という、激しい飢え渇きをもって、前進し続けました。彼女はダビデの如くに、「私の魂よ!あなたはイエス・キリストを、完全に捉えていますか?もし捉えることができた!と告白しているならば、それは傲慢です!捉えてなどいません!未々、主の御足にも、未だ近づいていません!御顔も見ていないでしょう!何故、霊の渇きを止めるのですか?止めるとしたら、それは魂の声を聞いているからです。霊的ヘドロが、再び出て来たでしょう!それを聖霊様から、完全に取り除いてもらいなさい!あなたが語るべき言葉は、イエス・キリストから決して離れません!捉えるまでは、絶対離れたくありません。どうぞ、置いて行かないで下さい!この激しい、叫び(飢え渇き)の表明で十分です!」と、「内なる魂」を叱咤しながら、「聖霊の声」だけを、真心から求め続けたのです。


 「聖霊のバプテスマ」に伴って起きる、「霊的変革」の最大の特徴は、「自我の業を完全に放棄する」ことです。つまり、自己中心的に歩いたり、自分の「肉の力」を頼みとして、全ての物事を完成しようとする、「自我の業」の歩みを、完全に停止することです。仮に私たちの「霊のフイールド」に、「自我の業」が走り始めている部分(時)が、多少なりにあるとしたら、イエス・キリストを完全に捉えることのできる、奥深い「至聖所」の領域に、踏み入ることができません。ですから聖霊様は、私たちに対して常に、「日々、火のバプテスマを受けなさい!そしてイエス・キリストを、更に追い求めなさい!霊の飢え渇きを、絶対止めてはなりません!」と、強く命じられるのです。


 このように、オルパが「魂の声」を頼みとし、内なる「自我の業」によって、「新しい道」を切り開いて行くタイプであるのに対し、ルツはあくまで、ナオミの「人生」を支配している、至高者の「御声」に聞き従って決断していくタイプです。彼女の決断の表明は、次のような言葉でした。「私は、お義母さんの霊の中に存在する、全能の神のみに従います。私が見る限りお義母さんは、愛する主人に先立たれた、悲運な人生であるにも関わらず、決して打ちひしがれることなく、神に依りすがって生きていらっしゃいます。私は自分の故郷にある、偶像の神々ではなく、あなたの信じる真の神を求めて来ました。それ故私は、真の神だけを愛し、真心から仕えたいのです!私は、愛する主人に先立たれた時、自分の人生はこれで終わり、立ち直ることができずに、只死を待つだけと思うほど、悲しみに沈んでいましたが、愛するお義母さんの中に住まわれる、神の臨在が私を捉え、更に神の愛が流れ出るのを見た時に、私はどれほど慰めを戴いたことでしょう!その時から、私は決断したのです。あなたの信じる神こそ、他の神々に優る真の神であり、本当の愛に溢れた方であると。それ故私はあなた同様に、このお方から決して離れません!」。この時から、ルツの「霊のフィールド」において、スカルの女性が求め続けてきた、永遠の命に至る「活ける水」を、「真の花婿(イエス・キリスト)」と出会うことで、確実に戴くことができたのと同様の、「霊的変革」の御業が起こり始めています。


「霊的に死す」ことを選択する
 私たちの霊が、イエス・キリストを追い求めた時から、聖霊様はあえて、様々な出来事を起こすことで、私たちの荒れ果てた「霊のフィールド」を、父なる神が望まれる本来の、「良き土地」へと造り変えるべく取扱われます。私たちの「霊のフィールド」は、未だ「荒れ地」の状態にあります。そして聖霊様が、私たちの「荒れ地」を整地されていく中で、その内側から色々な汚物(ヘドロ)が出て来ます。この時私たちは、オルパのように、「あの時(過去)こうしておけば、今の問題は起こらなかったのに・・・・。」などと、内なる「魂の声」を選択するのであれば、何よりも「神の道」を求めていく、霊的な「正しい軌道」から逸脱し、必ず誤った「肉の道」へと後退して行きます。サタンは、私たちが霊的に前進することを阻み、逆に「退却(後退)」していくよう、例えば次のように誘惑して来ます。「今の道を歩き続けたら、問題が多くなるだけだ。それより別(他)の道を求め、歩いて行きなさい!」と。「別の道」を選択して、その道を歩くように仕向けること、これは全てサタンが仕掛ける、「霊的退却」です。


 この「霊的退却」は、アダムとエバがサタンによって、誘惑される時に見受けられます。彼らは「命の木」ではなく、神の「御心」を知る「別の方法(道)」として、「善悪の木」を選択して、その「実」を食したこと、これが「霊的退却」の始まり(起源)です。しかし聖霊様が、私たちに対して常に命じられることは、「イエス・キリストを追い求め、更に前進し続けなさい!」この一つです。オルパのように、「別の道」を求める者は、必ず「真の神」から離れ、「この世」の方向に退却して行きます。しかし、ルツのように前進し続ける者は、たとえその途上で「神の道」を阻む、「障害物」や「汚物」が出て来ても、真の花婿「イエス・キリスト」に出会い、そして最終的に一体化されるまで、片時も離れることなく、聖霊様に付き従って行きます。このように、「真の花婿」を求める激しい飢え渇きから、「霊の声(叫び)」を優先していくこと、これが私たち「キリストの花嫁」が、選択すべき「正しい道」であり、御国に辿り着く上で、非常に「狭き道」にもなります。私たちが、完全に「霊的取扱い」を受ける時は、恐らく御国に辿り着いた時点でしょう。その時までに、私たちの全てが聖霊を通して、様々な神の導きの中で霊的に取扱われます。


 あなたはパウロのように、キリストが自分の人生にとって、「捉えて離さない大切なもの(命そのもの)」と思えるほどの、「霊の次元」に導かれることを望みますか?これはルツが、「自分の命」と引き換えに、「真の神」に従う人生を選択した姿勢と同じです。「死」という概念は、人間的に判断すれば、「永遠に別れる」ことを意味しますが、ルツの場合「死んでも構わないほど、私はあなたから離れません!」と表明しています。つまり彼女にとって「死」は、「霊的飢え渇き」を阻むものではなく、むしろ「真の神」と、「永遠に同伴する」概念になっているのです。「自分の死」を犠牲にする程の素晴らしい価値が、「神の命」の中に存在する故、「私は、それを失いたくありません!只ひたすら、求めて止まないのです!」という、「霊的飢え渇き」になるのです。


 ある面で「神に出会う」ことは、「死」を体験することです。最終的に私たちは、聖霊の「霊的取扱い」の中で、必ずイエス・キリストと同様に、「十字架の死」を体験することになります。パウロは、「私は既に十字架上で、イエス・キリストと共に死んでいる。今の私は、自分の力で生きているのではなく、イエス・キリストと共に生かされているに過ぎない。それ故、どんな状況(境遇)に導かれたとしても、私はイエス・キリストの平安を得ている。それは、イエス・キリストが私の霊の只中に、生ける神の都シオンとして、住んでいて下さるからだ。」と、明確に宣言しています。


 ペテロも然り。イエス・キリストの「十字架の愛」に、完全に捕われた彼は、最終的にイエス・キリストを愛する、彼自身の「愛の表現(現れ)」を、「逆さ十字」で処刑される、「殉教の死」をもって証明しました。ルツの「霊のフィールド」を、「真の神」が完全に支配したように、私たちの「霊のフィールド」も、聖霊様は霊的に更に取扱われます!「もっと、命の水(イエス・キリスト)を求めて、飢え渇きなさい!終わりはありません!もっと奥深くへと、霊の領域に入って行きなさい!あなたの霊の井戸を、更に掘り進めなさい!未々取り扱われるべき、霊的汚物が残っていますから、祈り求めなさい!決してあなた自身の力で、その汚物を取り除くことがないように。全てを私に委ねなさい!」と。


 ルツとナオミは、神の命令「主はシオンを選び、そこに住むことを定められました。」、この御言葉に従って、もう一度カナンの地に戻ることになります。さて、そこにおいて父なる神は、どのような導きをもって、更に彼らを取扱って行くのでしょうか?


 これから更に聖霊様は、各自に対して違った「方法」、「導き」をもって、私たちの「霊のフィールド」を取扱われるでしょう。それに伴って、「霊的障害物(汚物)」も出て来るでしょう。「その時」あなたは、オルパのようにではなく、ルツのように「私は、あなたの霊的取扱いを感謝し、そして聖霊様の御声に聞き従うことを選択します!そして、聖霊様ご自身が私の霊的汚物を、完全に除去して下さることを求めます!」と、はっきり告白して下さい!聖霊様の「霊的取扱い」が始まりますと、必ず私たちの「霊」を前進させるべく、聖霊様は更に強くプッシュ(後押し)します。ある時には、余りにもそのプッシュが激しいため、地に倒されるかも知れません。又ある時には、激しく「泣き」、「叫んだり」、「嗚咽」を伴う「言い難き苦しみ」を伴うかも知れません。しかしそれは、聖霊様の「霊的取扱い」が始まっている、明確な導きであることを信じて、聖霊様に全てを委ねて行く時に、聖霊様は「イエス・キリストの御声」を、必ずあなたの「霊」の只中に届けて下さることを、常に覚えて下さい!


祈り
 聖霊様!どうぞ私の霊の只中に、麗しい主イエス・キリストの、豊かな臨在が満ち溢れますように!


 そして私の霊の中心に、新しい「至聖所(シオン)」が確立されることを信じます。私の人生全てにおいて、霊的に取扱って下さる聖霊様!どうぞ一つ一つの導きの中において、上からの「幻」と「預言的啓示」をもって、「正しい道」を示して下さいますように!


 主イエス・キリストの「十字架」から流れ出る、貴い「血潮」が私の「霊」を全て覆い尽くす時に、私の「五体」から「霊」に至るまで、主イエス・キリストの「完全な支配」が確立されることを感謝します。


 そして、主イエス・キリストと「一体化」された、新しい「神のご計画」が始められることを、私は見たいのです!そのように見ることのできる「新しい人」へと、私の全てを造り変えて下さい!主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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