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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.8)

                             二つの生贄



アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実り(直訳:の一部)を主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。・・・・主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことの無いように、カインにしるしを与えられた。
                                                                                                            【創世記4章2~15節】


神が要求する「生贄」とは?
 今回の御言葉から、先ず私たちが知るべきポイント、それは主なる神が要求される「生贄」とは、如何なるものであるのか?という点です。そして私たちが捧げるもの全てが、「生贄」となる訳ではないことも、前提として知っておくべきです。「生贄」とは、まさしく生きたものを屠ることで捧げるものです。


 さて、私たちが捧げる「感謝」の生贄の中には、主なる神が私たちに要求されるもの、即ち一番に捧げるべき重要なものがあります。これを私たちが無視して、例えば多額な「献金」を捧げたところで、今回のカインの献げ物と同様、主なる神は心に留めることはありません。


 ご存知のように、主なる神が先ずご覧になられるもの、それは「献げ物(生贄)」自体ではなく、捧げる側の「霊(或いは魂)」の動き(意思の働き)です。即ち、捧げる者の「霊」の奥底から、如何なる「思い(意思の高揚)」が発露しているのか?それをご覧になられるのです。


 ですから重要なことは、主なる神は物質的な(目に見える)「献げ物」にではなく、「生贄(生きたものを屠って捧げる)」を捧げる際の、目に見えざる「感謝」という、霊的「献げ物」に御目を注ぐ(注視する)ことです。「生贄」を用意する、例えば生きた子羊を屠ることは、苦渋の決断を強いられる作業です。それと同様に、私たちの「罪」の悔い改めを現す(発露する)しるし、それが子羊の死なのです!これを別の言葉で表現するなら、子羊による「贖い」と言います。


子羊の「贖い」のしるし
 子羊の「生贄」を、祭壇上に捧げる霊的行為には、三つの重要なポイントが示されます。第一にそれは、罪の「贖い」を常に着せられていることです。私たちは、アダム(エバ)の犯した「罪」故に、「悲しみ」や「苦しみ」、「困難」などの重いスーツ(霊的くびき)を着た存在です。しかし、主なる神は私たちの重荷を、子羊(イエス・キリスト)の「贖い」により一掃(解放)し、代わりに聖なる衣(贖いのしるし)を着せて下さったのです。


 第二にそれは、罪の「贖い」故に生かされているしるしです。つまり私たちが、聖なる衣を着せられている限り、永遠の死に至ることがありません!死ではなく、「生かされている」という意識(平安)から、純粋な「感謝の意思(真心)」が生まれるのではないでしょうか。


 第三にそれは、私たちが罪の「贖い」を感謝する時、実は呪われた大地(自然も含む)にあっても、神の祝福に満ちた「約束の産物」を、「神の時」の中で豊かに産み出す地に変えられることです。ですから、彼ら(アダムとエバ)は先ず祭壇を築き、その後に子羊を祭壇上に屠るという、聖なる礼拝(儀式)を片時も怠りませんでした。勿論この重要な儀式は、次世代(カインとアベル)にも教え継がれます。


二つの「生贄」
 では二人の献げ物の違いは、一体「何」であったのでしょうか?二人の「感謝」の表明方法には、何の問題もありません。アベルの場合は、自分の手塩にかけた家畜(羊)を、無性に可愛がる性分でした。しかし彼は、父親(アダム)から教えられた最大の命令(生きる使命)、即ち神の御前に出る時には、自分の「真心」を表明すべく、羊の群れの中から最上の子羊を選び、それを祭壇上に屠って捧げる!こと、これを最優先に為しました。


 ところがカインの場合、この時は油断があったのではないでしょうか!余りにも今回の収穫が、大豊作だったからです。ですから彼は、その大収穫の一部を選んで、形式的に祭壇上に捧げただけです。つまり二人の違いは、最上の子羊か大収穫の一部という、選び方における意思(心)の働く方向性にあります。カインが収穫の一部を選んだこと、これは明らかに肉なる選択です。


 しかしアベルのように、霊なる次元を欲する者は、真心から全ての意思を捧げることに努めます。アベルは常に次のことを、謙虚に受け留めていました。自らの命に匹敵する程、可愛がっていた子羊を祭壇上に捧げることは、両親が身に着けている「聖なる衣」、つまり子羊の命の代償と同様、主なる神の「贖い」に対する、一番に捧げる感謝の表明である!と。


 ではカインは今回、どう捧げるべきだったのでしょうか?答えは明瞭です。両親を通して、幼少の頃から教えられている、基本通りの「礼拝」を、真心から(霊と真をもって)捧げる!それで十分でした。つまり子羊の初子を、先ず祭壇上にて屠り、それと同時に収穫の初物を添えて、素直に収穫の「恵み」を感謝すること、これだけで良かったのです。


 ですから私たちは、真の礼拝における基本行動に関して、肉の判断等で絶対に変更してはなりません!その基本行動とは、旧約時代と違って非常にシンプルなものです。ところで「契約」とは本来、約束を取り付ける者(甲)と、約束を交わす対象者(乙)が、互いに自分の血をもって、契約書等に血印を押して契りを結ぶことです。


 しかし今日では、印鑑(実印)等で契約書を作成するのと同様、新しい契約、つまり新約時代においては、最後のアダム(子羊)である、神の御子イエス・キリストが、私たちの「罪」の贖いとして、十字架上で屠られた、その貴い「生贄」の血潮によって、私たちは無罪放免となった、つまり神の「救い」の保証を得ることが出来ました。これが主なる神(甲)と、私たちキリスト者(乙)に交わされた、新しい契約なのです!


 主なる神が、私たちの罪の「贖い」として為された基本行動、それは子羊(イエス・キリスト)を屠ったことです。そしてその流された血潮により、私たちの「罪」の全てを覆い尽くし、その結果「この世」のもたらす、あらゆる「苦難」と「呪い」から、私たちは守られているのです。そうです!「贖い」の印が子羊の血潮です。


 神の「救い」という基本行動に対して、私たちの捧げる「感謝」の生贄は、今回の弟アベルが為した、霊と真による「真心のしるし(礼拝)」ではないでしょうか!ご存知のように新約においては、子羊を屠って捧げる必要がありません。ただ純粋に「あなた」自身の全てを、祭壇上(神の御前)に霊的に捧げ尽くすだけで良いのです。


 カイン同様に、私たちには様々な誘惑が付きまといます。しかし聖霊様は、そのような私たちに対して「イエス・キリストの贖いの御業が、あなたに対して、常に覆い尽くし着せられている以上、あなたは神のものであり、神の恵みによって生かされているのです!このことを決して忘れること無く、神の御前に出て感謝の生贄を捧げなさい!」と、霊的に軌道修正して下さいます。


 ですから、私たちは日々祭壇を築き、主なる神の御心を求めて、私たちの側からも感謝の生贄を、真心から捧げるのであれば、神は私たちを常に守り導き、あなたの手の業の全て、踏み行く足の一歩一歩を、神の臨在が満ち溢れるものへと、豊かに祝福して下さいます!そうです!あなたが拡大する神の民として、常に聖められ前進して行くことを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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