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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.4)

                    主なる神の第四の感謝



神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方には昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
                                                                                                          【創世記1章14~18節】


第二段階に出現した「光たち」
 今回の御言葉から学ぶべき第一の奥義、それは主なる神の創造における、次の段階である「光(複数形)」の出現です。最初の段階において、主なる神は暗闇の深淵の中に、真の「光(単数形)」を出現させました。ですから今回の「光」とは、まさしく宇宙の中に輝く、星々(太陽と月を含む)の光を指します。


 実は主なる神が、宇宙の中に星々を創造した目的を、私たちが正しく知ることによって、改めて「信仰」の法則を学ぶことにつながります。ところで私たちは、昼間に星々の光を見ることが出来ません。何故なら、星々の光を打ち消す程の光、即ち「太陽」の輝きの方が強いからです。


 さて、主なる神が星々を創造し、光を出現せしめた目的は、①昼と夜を区別するため(14節)、②時のしるし(神が定めた時の秩序)を示すため、③大地に光を注ぐことによって、溢れる程の恵みを地に満たすため、この三点です。ですから昼間の太陽、そして夜間に輝く星々にしても、この三つの働きは共通のものです。


昼の恵みと夜の恵み
 ご存知のように、太陽の光が「昼」の恵みであるのに対し、月等の星々の光は「夜」の恵みの象徴です。では、主なる神が今回の創造において、太陽や星々の「光」を確認し、それを喜ばしいものとして感じ取り、各自の働きを見た後に、何故あえて感謝を捧げられたのでしょうか?16~17節には、「治めさせられた」という言葉が記されていますが、これは各自の働きを通して、「昼夜毎に、神の御心が隈なく満ち溢れる様」を示しています。


 つまり、主なる神が考えておられる「ご計画(秩序)」が、昼間は太陽の光を通して、夜は星々の光を通して、豊かに満ち溢れさせることを意味しています。と言うことは太陽の光、そして星々の光にしても、各自に神の「ご意思」が反映されている訳です。それは全て、主なる神ご自身が「時」を定め、神のゴーサインにより、「恵み」の数々が現れ出るようになりました。


 例えば、前回学びました「植物」の登場時には、昼と夜の区分化が為されていませんでしたが、今回の「光たち」の出現により、「植物」も昼間は働き、夜は「休み」のサイクルが開始したことにより、私たちと同様「酸素」を吸収し、「二酸化炭素」を排出するという、有酸素運動を為すようになりました。この「昼」と「夜」という、二つの区分けにより、「夜」には夜の恵みを産み出し、全ての生き物が「太陽」と「星々」を通して為される、神の秩序(ご計画、ご意思)を、豊かに享受できるように、また満ち溢れさせるために、各自の働きが始まったと言えます。


 ですから、「太陽」と「星々」から発する光の目的は、主なる神の「秩序」をくまなく、大地とそこに棲息する生き物たちに、満ち溢れさせるためです。ところで私たちは、水や光などの「恵み」を、普段「いつもあるもの!」と思って、余り有難味を感じることがありませんが、それが何らかの理由(災害等)で、一時的に失った(途絶えた)時に、「如何に大事なものであったか・・・・有り難いものだったか!」などと、「恵み」を思い出す(学び直す)のではないでしょうか。


「暗闇(夜)」の中に導かれる奥義
 そういう意味で神の「恵み」を、いつ如何なる時にも忘れないために、実は「夜」という、暗闇だけが覆う時間帯に、特に有り難く思うよう、「星々(月を含む)」の光(明かり)が、天空に灯されている!これが今回の第二の奥義です。例えば霊的な「夜」、つまり信仰的に試練を課せられる時には、私たちは「何故神は、このような暗闇ばかりを、私に与えるのだろうか?」などと、つい愚痴をこぼす癖があります。


 しかし覚えて下さい!人の目には「暗闇」であっても、主なる神があなたの「霊」の只中に、真の光(イエス・キリスト)として、豊かに光り輝いている(救いを賜っている)ことを覚えるのであれば、まさしく「暗闇」こそが、神の「恵み」を体験している、神の時なのです!


 私たちの信仰の歩みには、人間的な「肉の業」を頼って、一歩、二歩、三歩と、自分の足(実績、技)を確立したい!また自分で作った灯火をもって、暗闇或いは薄暗がりであろうが、堂々と前進したい!と欲する弱さがあります。ところが「ある時」、その歩みは必ず途絶えます。人の光、人の歩みには、必ず終わりがあるからです。


 しかし主なる神は、私たちの歩みの全てに渡って、その歩む足の一歩ごとに、尽きることの無い「真の光」を、必ず灯して下さる真の神です!仮に私たちの歩みの「先(二歩目、三歩目)」が、覚束ない中にあっても、必ず照らし続けて下さり、最終的には「目的地」へと導いて下さいます。


 そうです!「暗闇」の中で私たちは、「神の秩序」を二つ学ぶことになります。第一に「光」ある時には、(神の恵みを)当たり前と思うのではなく、暗闇が来てもよいように、光ある時に光の恵みを(多くの人々に)知らしめること。第二に「暗闇」が来たからと言って、光が途絶える訳ではなく、自分の霊の中から真の光が、更なる輝きをもって満ち溢れるが故に、「暗闇」にあっても一歩、また一歩と確実に歩み続けられることを、改めて感謝すること、この二点です。


 ですから私たちが、ある面で「暗闇」に置かれた時、それは自分の肉の力で招いた場合もありますが、どちらかと言えば主なる神が、私たちを「暗闇」に遣わすことで、私たちを通して神の豊かな「光」が、「暗闇」の中においても満ち溢れさせ、そして神の「恵み」の全てを、決して忘れることが無いためにあるのです。


 あなたの「霊」の只中にある真の光は、いずれ「偽りの光(反キリスト)」を打ち滅ぼす程の、豊かな輝きをもって再臨します。この真の光なる方、救い主イエス・キリストを信じて、「この世」という暗闇から逃れて来る、多くの霊的難民に対して、神の「恵み」を分配する(照らす)者として、私たちは今日、「暗闇」の中に遣わされているのです。


 そして、私たちの中に働かれる方(聖霊様)は、「この世」において威張り散らす邪霊よりも、更に優った偉大なる聖い霊なる方です。いよいよ「その時」、主なる神の栄光を完成すべく、御子イエス・キリストが、大地に凱旋される時が迫っています。


 私たちが今生きている理由は、真の光(イエス・キリスト)が、豊かな救いの輝きをもって、父なる神の秩序を現すべく、私たちの中に満ち溢れさせるためです。ですから私たちは、決して信仰の歩みを止めること無く、また神の「恵み」を忘れること無く、信じて祈り続けて参りましょう。


 主イエス・キリストの豊かなる御業(光の恵み)が、あなたの歩みの全てに渡って光輝き、聖霊様との親しい交わりの中で、更に父なる神の「栄光」が、あなたの人生に増し加わることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!
 

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