バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.22)

イエス・キリストのEyes⑨


                        羊飼いの眼差し




さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇も無かったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気付き、全ての町からそこへ一斉に駆け付け、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
                                                                                               【マルコ福音書6章30~34節】


「憐れみ」の種類
 イエス・キリストは大勢の群集を見て、思わず「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(6節)になりました。この「憐れむ」という動詞は、①人の感情を思い図る素直な気持ち(simpathy)、②自分が被る「苦しみ」や「哀しみ」などを、他者の中にも瞬時に捉えることの出来る、積極的な心の動き(compassion)、③自分にはとても理解できない、目下の者に対する同情の気持ち(pity)に三区分できます。


 その中でイエス・キリストが、実際に「憐れみ」の念を抱かれた動詞は、まさしく②compassionでした。イエス・キリストは単純(素直)に、彼らの有様の「全て」をご覧になり、非常なる思いをもって、「心」が動かされたのです。勿論イエス・キリストは、ご自分の元に集まって来る人々の8割から9割(主流)が、心の悲しみばかりでなく、実際的な面で家族の中に重病人を抱えた人々、経済的な苦境にある人々、様々な「苦しみ」と「哀しみ」を背負った人々であることを、十分にご存知でした。しかし、だからと言ってイエス・キリストは、そのような人々に対して、父なる神の権威をもって、「癒し」などのミニストリーを行わねばならない!などの、三次元的な「同情心」から来る思いをもって、ご覧になった訳ではありません。


真の羊飼いの「憐れみ」
 このストーリーから、私たちが先ず学ばなければならない重要ポイントは、イエス・キリストは人々の「何」をご覧になられ、「憐れみ」の念を抱かれたのか?という、イエス・キリストの「視点」について、私たちは霊的に正しく知る必要があることです。このストーリーには、実は伏線となるストーリーが、同章前半部に記述されています。イエス・キリストは12弟子たちに対して、ご自分の「御名」を用いることで、神の国の「権威」を授け、至る所に遣わされました。その結果、彼らを含めてイエス・キリストの「働き人」たちは、休む暇も無い程のミニストーリーを展開します。


 そして彼らは、イエス・キリストの元に帰還した時に、「反省会」と「食事(交わり)」の時を、じっくり持ちたかったことでしょうが、彼らの「願い」を一掃する程の多くの群集が、イエス・キリストの一行を、先回りして待ち受けていたのです。それ故、イエス・キリストと弟子たちの一行全員は、船旅している間は、ほんの少しの「休息」を得ることが出来たのですが、師イエス・キリストと、じっくり膝を交えながら、「神の国」について語り合うことは、この時の弟子たちには全く無かったのです。イエス・キリスご自身も、父なる神の御元に行き、今後の「御心」を伺うという、聖なる祈り(交わり)の時を、十分に持つことが出来ない程の、「苦しみ(うめき)」を経験していたのです。


 マルコの記述(30節)によれば、イエス・キリストはご自分の元に集まって来る人々が、まるで「羊飼いのいない有様」の如くに、霊的にさまよっているのをご覧になりました。「羊の群れ」は、羊飼い(或いは牧羊犬)の統率があって初めて、一つの群れとして、まとまって移動が出来ます。仮に「羊飼い」がその場を離れてしまうと、めいめい好き勝手に行動するようになります。何故イエス・キリストは、この時に集まって来た群衆を、羊飼い無き「羊」として見られたのでしょうか?私たちが、この時の群集の行動を三次元的に分析する限り、イエス・キリストの一行を、先回りして待ち受けるなど、むしろ統率の取れた賢い集団のように見えます。しかしイエス・キリストの場合、常に聖霊の「御声」を聞きながら、「いや違う!彼らの有様は、まさしく羊飼い無き迷える子羊の如くに、真の救い主の声を理解していない!」と知らされたのです。


 その証拠にイエス・キリストは、彼らの「有様」をご覧になられた後、再び「神の国」について教え始めるという、迅速な行動に移っているのです。イエス・キリストは決して、彼らの現実の「願い」に応える形で、「癒し」や「解放」などの、しるし(業)を行っていません。つまり、彼らの殆どが真の「救い主(羊飼い)」を、未だに知らない(親しい交わりの領域に至っていない)し、その「御声(福音)」を理解していない状況にあり、彼らは単なる「その場しのぎ」の飢え渇き(要求)を、イエス・キリストに願い出るため集まって来たのです。


 イエス・キリストが常々、人々や弟子たちに教え説いていた「神の国」の概念は、「真の羊飼いとは、一体誰であるのか?あなたが、その方が誰であるかを実際に確かめ、その方を救い主として受け入れるのであれば、あなたの霊の只中から神の国が必ず興され、あなたの現実の問題ばかりでなく、全てに渡って真の羊飼いが、あなたを守り導く!即ち、真の羊飼いに属する羊に、あなたは造り変えられるのです!」という、素晴らしい奥義だったのです。


 私たちに与えられている「感情」の中で、他者を「憐れむ(同情する)」ことは、非常に素晴らしい心の動きですが、だからと言って自分が抱く憐れみの「全て」が、仮にある人にとっては、受け入れられるものではない!このことを知るべきです。そのような人にとって、「憐れみ」の念をもって見られること自体、「お節介はやめてくれ!」などと感情を逆に害し、「憐れみ」の声をかけた人に対して、境界線を引こうとします。これは「憐れみ」の視線が、第三の「pity」の行為、つまり「他者」を上から見下ろすような、「思い」をもって憐れむ(同情する)時に、(決して本人がそういう視点に立っていなくても)「憐れみ」の視線を投げかけられるその人が、拒絶反応を現す一例です。


 しかし、第二の「compassion」のタラント(賜物)を、聖霊によって与えられている人は、「霊的洞察力(聖霊の視線)」をもって見るため、その人の「霊」の中にある境界線に立ち入ろうとしません。むしろそっと見守りつつ、本人が「苦しみ」からの救いを求めて叫び出すのを、じっくりと待ちます。そしてタイミングを見図りながら、自分からは「何」も語らず、その人と同じポジションに座す(接する)という、シンプルな動きに至ります。


羊飼いの「御声」を知る
 イエス・キリストはこの時、彼らに対して再び、「神の国」に関する教えを始められた訳ですが、具体的に「何」を話されたのか、マルコは何も記述していません。しかし聖書には、弟子の一人ヨハネの手によって、「羊飼いと羊」(ヨハネ福音書10章1~7節)の喩えが記述されています。私たちは、霊的には「一頭の羊」の如き存在であり、イエス・キリストこそが、私たちの真の「羊飼い(救い主)」です!10章の記述の中で一番重要なキーワードは、「知る」と「聞き分ける」という動詞です。「羊飼い」は当然「羊」の鳴き声を知り、聞き分けることが出来ます。しかし逆に、羊たちが「羊飼い」の声を理解出来ない(知らない、聞き分けられない)場合に、一体どうなるのでしょうか?バラバラになるだけです。


 彼らは当然、今までイエス・キリストの「御声(教え)」を、幾度となく聞いてきました。しかし彼らは全くと言ってよい程、その「御声」に聞き従い、「知る(交わる)」という領域には至っていませんでした。彼らは(私たちを含めて)イエス・キリストの「教え」の、表面(断片的な良き話)ばかりに耳を傾け、真の「救い主」の御心に触れようとはしません。私たちの「霊」の中にも彼ら同様に、真の「羊飼い」の声よりも、「己」の声に聞き従う弱さがあります。イエス・キリストは、彼らの「救い」のために、ご自分の「命」を捨てる覚悟で、「神の国」について分かり易く、教え導いているにも関わらず、その場しのぎの「助け」しか求めない、この現実(有様)に対して、聖霊を通して「憐れみ(霊的うめき)」の念を抱かれたのです。


 真の「羊飼い」の声を受け入れた者は必ず、生き方が少しなりにも変化して行きます。そして「己の声」ではなく、益々「羊飼い」の声を求めて、ひたすら「羊飼い」に付いて行くのです。私たちは、ついつい「己の声」に聞き従って、一生懸命に肉の「業」に励みます。ところが、肉の「業」をすればする程、抱えきれない程の「重荷」を背負うことに気付いていません。しかしイエス・キリストは、「私こそ真の羊飼いである。私の声を求めなさい!私の声を聞いて、あなたの霊の扉を開けてくれないだろうか?私は、あなたを青草の原にて休ませ、憩いの水のほとりに伴い、あなたの魂を生き返らせたいのだ!」と、今も尚「羊飼い」の声を発しておられるのです。


 最後に、「辛い」と「幸い」の文字の違いは、字体として何処にあるのでしょうか?「」という字体の上部に、「(一人の姿)」として立ち続けるのか?それとも「(十字架)」を置き、その「十字架」の御元に膝を屈めるのか?その二通りの「有様」を示しているかのように、私には見えてしまうのですが、あなたは如何でしょうか?私たちは、イエス・キリストの「十字架」を受け入れ、「十字架」の御元に、私たちの「業(行い)」の全てを明け渡す時に、本当の「幸い」が始まるのではないでしょうか!あなたの真の「羊飼い」、即ちイエス・キリストの「御声」を、いつも求めて下さい。イエス・キリストは如何なる時にも、「憐れみ(compassion)」の視線をもって、「あなた(一頭の子羊)」を見つめていて下さいます。真の「羊飼い」の、あなたを愛して止まない、豊かな愛の「御声」と「憐れみ」の眼差しが、いつもあなたの「霊」の中に注がれることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する