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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.30)

                          聖霊様の願い



私の子供たち、キリストがあなた方の内に形造られるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。
                                                                                                         【ガラテヤ書4章19節】



父の「命の法則」
 父なる神は、「最初の人」アダムを創造される際、どのような「思い(願い)」を込めて形造られたのでしょうか?それは初子を授かった、夫婦の「思い(願い)」に似通っているのではないでしょうか!赤子が母の胎に命を宿し、そして外界に産み出されるまでに、十月十日(約290日)かかる訳ですが、その間に夫婦は、どのような「願い」を抱いて、「出産の時」を待ち望んでいるのでしょうか?特に母親は実際、自分の胎の中に「我が子」を宿していますから、それは子と「一体化」した「願い」になります。出産する「その時」が近づくに連れ、つわりに始まった陣痛などの、「産みの苦しみ」が増して行けば行くほど、その「願い」は更に強くなります。「愛する私たちの赤ちゃん、無事に産まれて来てね!そうすれば、私(母)の腕の中に(あなたを)暖かく抱くことができるから・・・・。」と。


 父なる神がアダムを創造する時に、あらかじめ設計図(製作行程図)を作製した上で、「土は〇〇キログラム、水は〇〇リットル」用意し、顔はできるだけ「ハンサム」になどと、図面通り正確に形造ったのでしょうか?私はそうではないと推測します。父なる神は、ただ「一つの願い」をもって自分に似せて、ひたすら丹念に造り上げたのではないでしょうか!その「一つの願い」とは、「自分が創造主(親)として愛したい!又自分も(子から)愛されたい!」という願いでした。


 神は天地万物を創造していく途中で、自分の「願い」の中に何か足りないものを感じます。自分が、直接「霊」をもって親しく交わることのできる存在が欲しい!と思った瞬間、父なる神は決心したのです。「自分の願いを満足させる、霊的存在がいなければ寂しい!」などと、思ったかどうかは定かではありませんが、決心するや否や「エデンの園」に降りてきて、「エデンの園」全てをくまなく探し歩き、良き土と塵を見つけました。それからご自分の手を汚し、不純物(石の塊)を念入りに取り除いた上で、川から「命の水」を汲み上げ、「土」と混じり合わせ練り上げたのです!


 そして練り上げた粘土の塊を、自分に似せながら形を整える作業において、例えば「頭部」を整える時には、自分の顔の形の全てを両手で触れつつ、一つ一つの部分を確認しながら正確に、そして丹念に形造りました。そして遂に、自分に似た「土の人形」が完成した時に、最終的にご自分の「命の息」を、「土の人形」に吹き込む訳ですが、この時どのような「願い」を込めながら、父なる神は吹き込まれたのでしょうか?「命の息」、つまり自分の「霊」を注入する訳ですから、その時には必ず自分の「意思(願い)」が働いています。


 ある「一つの願い」を込めながら、たっぷり息を吸い込んだ父は、愛する子(土の人形)の鼻に自分の「唇」を重ね合わせ、「スーーーー(風船を膨らませる時と同じ息づかい)」と、思い切り「命の息」を注入しました。この時の「一つの願い」は、土を練り上げて形造る時と同様のものです。即ち、自分の「命」を注ぎ込む「作品」ですから、簡単(単純)な「命の法則」に基づいています。「私の命によって、今からあなたは生きる者となりなさい!そうすれば、私はあなたと交わることができます。だから生きる者となりなさい!」これが、「人」に対する父の「願い」であり、「人」を創造し「この世」に産み出そうとする、父の「意志」の現れです。つまり、ご自分の「命の息(聖霊)」を注ぎ込むことで、「私の霊によって生きる者となりなさい!」などの父の「意志」を現すこと、これが父なる神の単純な「命の法則」です。



 このことは、例えば次のようなストーリーに見受けられます。・・・・自分の愛する娘が、出血多量の大怪我をしたという妻から連絡を受け、父親はすぐに会社を早退し、救急車で搬送された病院に駆けつけました。そして緊急手術が始まろうとする際に、執刀医からある要請を受けました。


 「あなたのお子さんは、血液型がAB型(RHマイナス)という特殊な型です。今この病院には、手術に必要な輸血量が不足していますが、お父さん!確かーあなたも同じ型でしたねー。今すぐにも献血して戴き、早急に輸血を始めませんと、お子さんの命が助かりません。しかも輸血量は、恐らくお父さんの体に保有する血液の、約半分を戴くことになるのですが・・・・、そうなるとお父さん自身の命も危険になり、多分死ぬことになりますが、どうされますか?」


 夫は、泣きじゃくる妻の顔を不安気に見ますが、躊躇することなく
「お願いします!娘が助かるのでしたら、私は構いません!」
と即答しました。自分の愛する子のためであったら、自分の命も顧みずに、「自分の命」を愛する子に捧げること、これが「親の愛」です。・・・・このストーリーは父なる神の「愛」、つまり「神の命」の意志が、私たちの中にも現されている一例です。


 自分がこよなく愛する「人」が、霊的に復活する(生き返る)のであったら、自分の命(イエス・キリスト)を、「罪の贖い」の生贄として屠るほど愛する、これが父の「アガペー(愛)」です。このように「人」の祖アダムは、父の「命の息」が吹き込まれた結果、父なる神の「霊(命の息)」により、「生きる者」になりました。実はこの出来事(人の創造)の中に、重要な霊的奥義があります。先ず第一に贖いの子羊、イエス・キリストの「血潮」により、私たちが救われ「復活した者」になること、又更に神の「霊」の力により、新しい「霊の次元」に生きる者へと変革されること、この二つの「霊的雛型」を指します。それ故「本来の人」アダムは、キリストのご性質(人格、霊的な能力など)に満ち溢れた、「完全な姿(フォーム)」として創造されたことを覚えて下さい!


 しかしサタンは、「本来の人」に備わっていた、「キリスト性」という「完全な姿(フォーム)」が、イエス・キリストの「十字架の贖い」により、再び人に受肉する(回復する)ことを嫌います。つまりサタンは、「人」がキリストと「一体化」することを、非常に妬み忌み嫌います。それ故サタンは、キリストと一体化したフォームを切り崩そうと、必死になって先ずエバを誘惑し、そして見事に「最初の人」アダム(エバを含む)の切り崩しに成功を収めました。この時の父なる神の悲しみは、愛する子を失った時と同様のものでした。


 実際に、アダムは肉体的に死んだ訳ではなかったのですが、父の「霊(命の息)」はこの時から、霊的に「死んだ」のです。即ち、キリストのご性質を「罪」によって失ったが故に、人は霊的に「死ぬ者」になりました。キリストのご性質が、人の「霊」の中に存在するのであれば、人は「生きる」ことができるのです!父なる神と同じ「永遠の命」を戴き、イエス・キリストとの「親しい交わり」の中にあって初めて、「人」は生き続けることができるのです。しかしサタンの策略によって、「本来の人」に備わっていたはずの、「完全なフォーム」が破壊され、「不完全なフォーム」になったが故に、「人」は霊的に「死ぬ者」になったのです。


父の「産みの苦しみ」
 以上から分りますように、父なる神の本来の願いは只一つ、「あなたは元々、キリストによって生きる者として創造したのですから、あなたは再びキリストによって、霊的に生きる者になりなさい!」ということです!それ故父なる神は、アダム(エバ)の「罪」の結果、「霊的な死」を被った全ての人々に対して、ご自分の独り子「イエス・キリスト」を、「人の子」として産み落として下さいました。ここに、父なる神の第一の「産みの苦しみ」があります。「人の子」として遣わした時の「産みの苦しみ」は、如何なるものだったのでしょうか?しかも、最終的に我が子「イエス・キリスト」を、「贖いの子羊」として十字架上で屠るなど、永遠の死の地獄に産み落とされたのです。これが第二の「産みの苦しみ」です。


 何故父なる神は、このようにしてまで私たちを愛されるのでしょうか?全ての「人」が、イエス・キリストによって「生きたフォーム」を取り戻し、キリストのご性質にあずかるためです。愛する子(人)のためであったら、自分の命(イエス・キリスト)を捧げても構わない!その「愛の現れ」が、ご自分の愛する御子を「この世」に遣わすことでした。ある面で、これは「出産」に似通った出来事です。出産する時の母親は、「死」を覚悟して「その時」を待ち望みます。産婦人科の医師は、どの妊婦も100%安全な形で、出産を終了することのできる者は、一人もいないことを知っています。「出産」とは、「死」の確立が高い行為の一つです。


 しかし、「一人の子(命)」が無事「産みの苦しみ」を経て、「生きる者」となって産まれ出て来られたその理由は、様々な「助け」があったからです。医師の熟練した「技」や、助産師の直接的な「助け」もさることながら、実は一番「重要な力」が、母親の「願い」にあるのです。産まれて来る「子」に対して、「無事産まれて来て、生きた姿(フォーム)を見せて欲しい!」などの、強い「願い」を母親は抱きます。このような母の「願い」が、「産む力」を引き出す「助け」になっているのです。産まれて来る「子」に対して、「容姿は美しく、成長した暁には〇〇一流大学を卒業して、〇〇大企業に就職できますように!」などと願って、出産する母親は一人もいません。「とにかく、無事に産まれて来て欲しい!五体満足健康で、生きて産まれて来て欲しい!」などと願うこと、これが「親」にとっての、只一つの「望み」ではないでしょうか!


 父なる神が、愛する独り子イエス・キリストを、私たちの罪の「贖い生贄」として、地獄に産み落として下さったことにより、私たちの「古き体」が御子と共に、十字架上で霊的に「死す」など、神の「救い」の恵みにあずかり、その結果「御子」を信じる全ての者が、霊的に「新しい人」として再創造されるという、素晴らしい「変革の恵み」にあずかるのです。何の条件を付ける訳でもなく、父なる神は「この御子を信じなさい!そうすればあなたは救われるのです!あなたは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるだけで、あなたの死すべき古い体が、十字架上でイエス・キリストと共に死んだのです!つまり、霊的に贖われた新しい体が、あなたに用意されています。復活した『生きたフォーム』が、あなたの中に既に形造られているのです!」などと、聖霊様を通して語って下さるのです。


聖霊の「産みの苦しみ」
 私たちは確かに聖霊を通して、イエス・キリストを「救い主」として告白し、そして信じるようになりました。しかし、だからと言って私たちが、即「御国」に行ける体に変革され、「この世」にあって何の苦しみも無いほどの、「圧倒的な勝利者」という完全な「フォーム」が、自動的に与えられるのでしょうか!とんでもありません。それどころか、イエス・キリストを信じてから、更に「苦しみ」が増したかのように錯覚するなど、霊的に辛い経験を多くします(現にしています)。それは霊的な「産みの苦しみ」を、引き続き経験するからです。霊的に「死す」ことと、霊的に「生きる」ことの違いが、明確に分ったからこそ「霊的な苦しみ」が増すのです。「古い体」が、自分の中の何処に残っているのか?この点をイエス・キリストを信じて、霊的に「見える」ようになったことが、今後私たちの信仰生活の中で、「聖霊様の願い」として捉えるべき重要ポイントです。


 聖霊様の願いは只一つ、「私たちが完全に、イエス・キリストのご性質、そしてご人格に似た者へと形造られ、又イエス・キリストの持っておられる、天の力に満ち溢れたキリストの、完全なフォームになること」です!私たちは、自分の語るところ、見るところ、聞くところ、また食するところ、触れるところ、この「五感」の領域において、非常に「弱さ」を覚えます。聖霊様は、私たちの「五感」及び「五体」が、主イエス・キリストのご性質に満ちた背丈に、つまり「完全なフォーム」に再創造されることを望んでおられます。


 何故なら、「本来の人」アダムに与えられていた、「神の国」の素晴らしい特権、即ち①父なる神との「親しい交わり」に入り、②イエス・キリストによる、「新しい力」を日々受けつつ、③聖霊様の願われることに対して、私たちが即答できるほど敏感な「霊的感性」が増し加わること、この三つの特権を、ことごとく私たちに与えようと願っておられるからです。そして、この「願い」が聖霊のメッセージとして、あなたに今投げかけられていることを知って下さい!今も尚、聖霊様は「一つの願い」をもって、「産みの苦しみ」を為されていることを、覚えようではありませんか!


 聖霊様は、ガラテヤ書4章19節の御言葉を通して、「私の子供よ!キリストがあなたの内に、完全なフォームとして出来上がるまでは、今も尚私は産みの苦しみをしています!あなたは、未だ完全に産まれ出ていません!だからキリストによって、益々完成を目指して前進しなさい!」などと語って下さっています。勿論、イエス・キリストは「人の子」として、弟子たちの前で天上の「しるし」や「業」をもって、素晴らしい奇跡のミニストリーを為されたり、ある時には「天上の窓」を開いて下さり、信じる人々に「天の力」を授けられました。


 これらの「キリストの力」は、どの人も真似することのできない、素晴らしい「神の国」の働きではありますが、サタンの「惑わし」により、私たちは霊的な勘違いをしてはなりません!イエス・キリストを「成功者」、「スーパースター」などの「フォーム (姿)」として捉え、そのような人間的な「フォーム」を、私たちの中に完成するために、聖霊様が今も尚「産みの苦しみ」をしている訳ではありません!「産みの苦しみ」、それは「人の子」イエス・キリストに、常に傍らにおいて働きかけ、父の「御心の道」に正しく沿うよう、「助け」と「力」を与え続け、ある時は「励まし」を与えるなど、聖霊様の「願い」そのものであったことを、私たちは再確認しようではありませんか!


 イエス・キリストが、願っておられた「最終ゴール」は、何処にあったのでしょうか?それは贖いの場、つまり「十字架上」でした。彼は、自分の「全て」をもって神に捧げる生贄、つまり「贖いの子羊」のフォームを目指していたのです。それ故、聖霊様はイエス・キリストに同伴し、常に彼を励まします。「あなたの完全なフォーム、到達すべき最終ゴール地点は十字架上です!ですから、弟子たちの語る人間的アドバイスに、決して聞き従ってはなりません!私も父同様、あなたのために産みの苦しみをしています!父の御心を歩み続け、その正しい軌道から外れてはなりません!もう一度思い起こしなさい、父の願いは何ですか?」と。聖霊様は私たちに対して、イエス・キリスト同様に、常に「励まし」を与えます。「父なる神の願いは何ですか?イエス・キリストの願いは何ですか?」と。


 私たちは「この世」にあって、様々な「霊的苦しみ」を体験します。「私はイエス・キリストを信じて、聖霊のバプテスマを授かったのに、何故このような苦しみの人生があるのですか?」、「素晴らしい天からの様々な恵みを受け、又異言で祈っているのに、どうして私が突然、このような出来事に遭遇するのですか?」などと、祈る度に疑問が付きまといます。「何のための苦しみですか?何か理由でもあるのですか?・・・・」などと。それは、只一つの理由(願い)からです!つまり「父なる神の御心があなたの中に、キリストのご性質を現すことによって、完全に形造られるため」です。私たちが、様々な「霊的苦しみ」を体験する時に、実は聖霊様も「産みの苦しみ」を為されています。「あなたは今の苦しみを、霊的に疑問視してはなりません!それは只一つの願い、イエス・キリストが『十字架の贖い』の御業を、あなたの中に完成しようとしておられるのです!


 あなた自身の中に、イエス・キリストの十字架の死を否定する思い、例えば・・・・私はそんな苦しみは、体験したくない!結構ですよ・・・・などの思いが、様々にやって来るでしょう!しかし、その疑いの声に騙されてはいけません!主イエス・キリストは、既に十字架の死の道を歩まれ、あなたの前に全てを完成されたのです!それを信じて受け取りなさい!」と。「人の子」として、「苦難の道」を歩まれたイエス・キリストに、常に傍らにて力強い御手で守り支え、苦難の時には暖かく見守り励まして下さるなど、聖霊の「励まし(助け)の声」は、今も尚私たちの霊の只中に、同じ「御声」をもって語って下さることを信じて下さい!これが、聖霊様の為される「産みの苦しみ」です。


産みの苦しみの後に
 最後に、ラマーズ法という一つの出産方法を紹介します。この出産方法は、陣痛で苦しんでいる時に、ある一定の呼吸リズムを図ることで、より安全に無理なく、自然分娩を促進する方法の一つです。できるだけ妊婦の「産みの苦しみ」、つまり陣痛を和らげるために、そして胎内にいる新生児が、陣痛に伴って無理なく、母親の呼吸リズムに合わせて、産まれ出るようにと考案されたものです。そしてこの方法には、実は「夫」の役割が非常に重要となっており、夫が妻の出産に共に「立ち合う」ことで、妻の陣痛の苦しみを精神的に支える役割を担っています。つまり夫も、共に妻の「産みの苦しみ」にあずかることで、妻にとって夫の立ち合いが、「大いなる助け」となります。


 「婦人は、・・・・子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ書2章15節)この御言葉にあるように、まさしく母親は、愛する「我が子」が「産みの苦しみ」を経て、遂に自分の胎から産まれ出て、実際に「オギャー!」と泣き叫んだ瞬間、思わず「感激の涙」にむせびます。「あー、一緒に闘って良かった!私の愛する子が、生きて産まれて来た!」という感動を、一番に実感するのが母親ではないでしょうか!この時、「生きてるー!」という喜びが、母親の「思い」を完全に満たしています。つまり、母親にとって愛する「我が子」が、外界の空気を無事に呼吸できる、つまり「生きたフォーム」になったことが、嬉しくて仕方がないのです。


 「霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなして下さる」(ローマ書8章26節)実は、聖霊様の働きも霊的には、出産に立ち合う「夫の役割」に非常に似通っています。私たちが霊的にも肉体的にも、様々な「苦しみ」の中にある時、聖霊様も言い難き「産みの苦しみ」をもって、私たちのためにとりなして下さいます。そうです!聖霊様は私たち以上に、「産みの苦しみ」を為されているのです。そして、必ず次のように語りかけます。「今あなたの霊の中に、何が満ちていますか?イエス・キリストの愛、イエス・キリストとの交わり、イエス・キリストに対する信頼、そしてイエス・キリストが、どれ程あなたのことを捨て子ではなく、本当に大切な我が子として愛され、あなたはその愛の御腕に、強く抱かれていることが分りますか?私はあなたが、この世の君サタンの声に騙される方向ではなく、私の産みの苦しみや、とりなしの声に聞き従って欲しく思う!あなたは確かに、今どうしたらよいのか分らないほどの、言い難き苦しみの中にあるでしょう!しかし必ず、その苦しみの後にイエス・キリストが、あなたの中に完全なフォームとして現れ出ることを信じなさい!」


 命の源「十字架」は、常に私たちの前に開かれています!私たちが、この「十字架」の御元に行く時、必ずイエス・キリストの「贖いの御業」により、私たちは全てのことから救われます。十字架の救いは、一度限りの体験ではありません!私たちが信じれば信じる程、十字架の「意味(真意)」が目の前に焼き付けられて行きます。イエス・キリストが、私たちの中に完全に形造られること、これが聖霊様の「願い」です。


 聖霊様は、私たちが体験する様々な苦しみの後に、必ず言われることがあります。
「あの時の苦しみの経験は、あなたにとって良かったですか?今、また苦しんでいますね!あの時の経験が無かったら、今の苦しみは耐えられますか?」
それに対して私たちは、
「主よ!確かにあの時の産みの苦しみは、私のためでありました。そのお陰で、私は更にイエス・キリストに近づく者とさせられ、もっとイエス・キリストを求めるようになりました。主よ!今の苦しみは、とても苦しいものでありますが、イエス・キリストが更に、私の中に新しいフォームとして、受肉していて下さることを感謝します。主よ、私の語る言葉、思う(考える)事柄、祈る全ての内容が、あなたの御心と一致しますよう聖別して下さい!聖霊様、助けて下さい!このような苦しみの時のために、新しい霊の言葉(異言)が与えられています。主よ、どうぞキリストの御心を知る洞察と知恵を、天上より与えて下さいますよう、私の異言の祈りに応えて下さい!聖霊様!必ずあなたが、私の祈りを御父に届けて下さることを信じます!」などと祈る時、聖霊様は続いて次のように応えて下さいます。「主なる神は、今も尚あなたを見守り続けて下さり、あなたは今の苦しみの後に、素晴らしい力あるキリスト者として、必ず勝利を手にすることができます!あなたは、このことを通して更に新しいキリストの花嫁として形造られ、新しいキリストの光を帯びた者として、力強く歩んで行くことができます!」と。


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